アケルはそのままラウルスの腕の中でじっとしていた。ここまできたいま、どうしていいのかがわからない。
「アケル」
 呼ばれてラウルスを振り仰ごうとした。が、動けなかった。体が強張って、意のままにならない。このようなことははじめてだった。
「あのな、アケル」
 少し男の声が笑った。いつもならばむっとする。否、すでに怒鳴り返している。それなのに。
「そうしがみつくな。大丈夫だから。どこにも行かないから」
「そんなんじゃ……」
「ゆっくり息してごらん」
 答えた声が掠れていた。ラウルスはそれを笑わずアケルの背を撫でる。まるで獣をあやしてでもいるような手だった。
「怒るなよ、アケル。このまま帰るとは言わない。でも、何もしないほうが、いいか?」
 あえて言い置いてからラウルスは言った。アケルは激しく反発した。そのつもりだった。声はまるで出なかった。かろうじて首を振る。
「じゃあ、おいで」
 腕に抱いたまま、ラウルスはアケルを寝台へと誘った。自分で動けもしないアケルは男の為すまま、くたりと座る。
「ラウ……」
 声が、声にならない。自分はいったいどうしてしまったのだろう。急に心細くなって隣を見れば、いまだ自分を抱いたままのラウルスがいた。
「いやなことはしないように気をつけるけどな。いやだったら言えよ――って言っても無理か。せめて意思表示はしろよ」
 少しばかり茶化した口調。アケルは笑えずこくりとうなずく。それをどう感じたのかラウルスは儚いほど澄んだ笑みを見せた。
 ラウルスの唇が額に降りてくる。軽い音を立てて離されたそれが不満で男を見つめれば、すぐそこでまだ微笑んでいた。
「綺麗な目だけどな」
 再びくちづけ。薄い瞼に男の熱を感じる。
「目は閉じろよ。照れる」
 本当だろうか。アケルは疑い、けれど彼の言うまま目を閉じた。暗闇に、ラウルスの息遣いが聞こえた。それから自分の。
 信じがたいほど浅くて切羽詰った呼吸をしていた。アケルは気づいて目が眩みそうになる。ぎゅっと男の胸にすがれば、抱き返される背中。
「離れろって」
 笑みを含んだ声に苛立ちは感じられなかった。怒られているわけではない。悟ってアケルはわずかに手を緩める。
「唇が欲しい。こっち向けって」
 指先が顎にかかった。そっと、丁寧にと言うよりはむしろ壊しかねない自分の力を恐れてでもいるようなくちづけ。はじめてではない。それなのに、まるではじめてのような気がした。
 アケルの全身が震えた。ラウルスの舌が唇を割ろうとする。嫌悪はまるでないのに、引き結んだ唇は開かない。舌が唇をたどり、そっと離れた。
「違うんです……。そうじゃない。いやじゃ――」
「わかってる。大丈夫だから」
 皆まで言わせずラウルスはアケルの耳許で囁いた。ほっとアケルの肩から力が抜ける。その隙をつくようくちづけた。今度はすんなり開いた唇に、ラウルスよりもアケル自身が驚いた。
 目を閉じて、ラウルスの与えてくれるものを感じていた。舌の熱。腕の力。肌の匂い。時折立てる水音。わざとしているのではないかと思う。音がするたび体をすくめる自分だから。そうアケルは思ったが、事実そのとおりだった。
 ラウルスの手が首筋を肩先を、腕や背中までたどる。衣服に手がかかったときも、拒もうとは微塵も思わなかった。それどころかもっと触って欲しいと望んでいた。
 気づけば天井を見上げていた。いつの間に押し倒されたのか、衣服を脱がされたのか少しもわからなかった。きょとんと瞬きをしたアケルをラウルスが笑う。その彼自身、すでに衣服は取り去っていた。
「ラウルス」
 アケルの腕が伸びる。ラウルスの肩から胸へと触っていく。あまりにも見事な体に感嘆していた。鍛え抜かれた戦士の体。腕を触って思う。剣士の体かもしれないと。
「うん?」
 気が済むまで触らせて、けれどラウルスは余裕だった。稚拙な愛撫ですらない指は仄かな熱しか生まない。それでも焦がれたアケルに触れられているのはくすぐったいような快美を呼ぶ。
「すごい体だな、と思って」
「最近は忙しくってな。少し肉が落ちた」
「これで?」
 冗談だろうとでも言いたげなアケルに覆いかぶさり肌を合わせる。小さく息を飲んだのを捉えるよう、唇を吸う。
 アケルが重さに喘ぐ前、ラウルスは体をずらした。腕の中に抱え込むように抱けば、裸の青年は思っていたよりずっと細かった。
「壊しそうで怖いな」
 呟いて、けれどラウルスはやめはしなかった。アケルもまたそれを望んだ。肌に触れるたび、アケルは緊張に体をすくませるけれど。
「アケル」
「いやじゃないです!」
「まだなにも言ってないだろうが」
「……やめたりしたら、嫌いになりますから!」
「それは困るな」
 腕を緩め、アケルを正面から見つめた。それを彼が望んでいるような気がした。ラウルスの眼前に、不安におののく深い青の目があった。
「好きだよ、お前が。だから、嫌われたら、困る」
「そういうことは――」
「うん?」
「もっと早く言ってください!」
「言ってなかったか?」
「聞いてないです」
 言わなきゃわからないようなことではないだろう、とはラウルスは言わなかった。代わりに微笑んでアケルにくちづける。ほころんだアケルの唇はようやく甘みを増した。
 くちづけは頬へと移り、耳許へ。軽く噛もうとしたラウルスは寸でのことで止まった。触れ合うことに戸惑うアケルだからこそ、驚かせたくはない。痛みに甘さを感じるほど、アケルは慣れていないだろう。代わりに言葉を注ぎ込む。
「愛してる」
 アケルの肌が一瞬にして粟立つ。嫌悪かと慌てて顔を覗き込めば、困り顔をしてアケルは笑っていた。
「おい」
「……似合わないです」
「うるせーよ」
「でも、嬉しいです。聞くのは」
「もう言わない。頭きた」
「ラウルス!」
 探花荘の住人をはばかっての小さな叱声。それにラウルスは笑みを見せ、再び耳許にくちづける。囁いた声はアケルにしか聞こえなかった。とろりと力を失った体を抱きしめて、肌に触れていく。肌が汗ばむのはすぐだった。
「ラウルス」
 アケルの手が泳いで彼を掴んだ。組み合わさった指と指が信じられないほど嬉しくて、アケルはラウルスを探す。体はここに、心は自分の中にある。そんな気がした。
「ひっ――」
 小さからぬ悲鳴を上げ、アケルは目を見開く。男の指が、アケル自身に絡んでいる。包み込むような柔らかさなのに、途方もないものに襲われた気がした。
 怖いのでも嫌がってのことでもないとラウルスにわかってもらえるだろうか。そのアケルの不安は無用のものだった。
「なぁ、アケル」
 戸惑いを解きほぐすようなラウルスの声。少しも乱れていないのが悔しいような安堵をアケルに与えた。
「こんなときに聞くのもなんだがな。もしかしてお前、はじめてか?」
 なにを問われているのかわからなかった。問いつつもラウルスの指はアケルをゆっくりと愛撫している。
「は――」
 答えようとしたのか、それとも吐息が漏れたのか。ラウルスは見定めるようアケル自身を掴む指に力を入れ擦りあげた。
「だめ……」
 しがみついてくる手に本気を感じた。首を振って、そしてアケルは仰け反る。わななく唇を、あえて舌先だけでたどれば求めてくる。
「もう少し。だめです。やめて――」
 脈打つアケル自身が手の中にある。今にも最後を迎えそうに。
「……はじめてに、決まってるじゃないですか!」
 掠れ声が訴えた。身を振りほどこうとし、ついでラウルスにしがみつく。
「まぁ、そうじゃないかとは思ったがな」
 耳許で囁けば、しがみついたままアケルが睨んだ気がしてラウルスは小さく笑う。
「まったく未経験か?」
 言外に女性と接したこともないかと問えば、背中に爪を立てられた。それが問いへの答えだったのか、それとも愛撫への訴えだったのか。どちらでもあったのだろう。
「それでよく俺なんかを選んだよ、お前は」
 喉の奥で笑ってラウルスは更に彼を追い立てる。嫌がるよう身をよじったアケルを、今度は離さない。
「ラウルス、お願いだから」
 かすかな涙声にもラウルスは揺るがなかった。哀訴は、別の色を含んでいる。アケル自身を包む手を緩めれば、安堵と同時に不満の吐息。
 それに気づいたアケルが羞恥に身をよじるより先、もう一度包んだ。ラウルス自身と共に、同じ手の中へ。
「あ」
 小さく上がった声。いっそうしがみついてくる手。意味もなく振っている首に、アケルの快楽を感じ取る。
 本当は、もっと濃厚な愛し合い方がしたかった、ラウルスは。唇でアケルの全身を愛撫したかった。ここですら、口に含みたかった、そう思ってラウルスは内心で笑う。
 アケルが痙攣するよう腕の中で動いていた。弾む吐息に最後が近いことを感じる。これほど純なアケルだからラウルスは自身の望みとは違う方法で肌を合わせた。
「お前に色々教えるのも、悪くないな」
 囁いてもアケルにはもう聞こえていないだろう。だからこそ、言えた。そんな日がこないだろうことを、ラウルスだけは知っていた。
「ラウルス」
 名を呼んでいるくせに、うわ言のような響き。小さくラウルスは微笑み、体を動かす。手の中で、互いが擦れる感触にアケルが悲鳴を上げた。
 ほとばしる若い熱。声も上げずにしがみついてくるアケルに満足を覚え、力を失ったその手で自身を包ませる。その上からラウルスは自分の手を重ね、擦りあげた。アケルの指は、狩人のそれとは思えないほど繊細で、ラウルスは小さな呻きを漏らした。




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