部屋の中、アケルは歩き回っていた。さほど広くもない室内を経巡っているものだからそのうち床が磨り減ってくるのではないかと思えば笑えてしまう。笑ったことで少し、ほっとした。 「本当に、くる気があるんですか、ラウルス」 窓の外を見つめて言った。その目にあるのは戸惑いと、何よりも不安。あのあとラウルスは言った。 「お前、どこに住んでる?」 「なにを今更、探花荘に決まってるじゃないですか!」 「だから怒鳴るなって。それはわかってるけどな。探花荘の、どこだ?」 今になって、アケルは自分が彼になにを求めたのか実感しはじめている。それにうろたえるアケルを見ているのも面白かったけれど、ラウルスは彼を追い詰めたくはない。微笑むだけで答えを促した。 「二階の、端です」 「窓の外に大きな樹のある?」 「えぇ、そうです。それが……?」 ラウルスは、いったい何を考えているのだろう。思いが定まらなくて、どこかぼんやりしている自分をアケル自身、感じないでもなかった。 「窓、開けといてくれ」 「はい?」 「夜遅くになるかな。夜中になるかもしれない。寝てていいぞ」 「ラウルス! 説明してください、ちゃんと!」 「わからないか? 忍んでいく」 「どういう意味ですか。本当に、わからない……」 軽く唇を噛むアケルをたしなめるつもりで唇に指で触れた。途端に跳ね上がる彼に笑みを向け、ついばむようにくちづけた。 「あのな、アケル。よく考えろよ? 真正面から探花荘を訪問してな、それで逢引ができるか? 俺はそこまで肝が太くない」 「僕だってです!」 「だろ? だから窓から忍んでいく。気にしないで寝てろ。たぶん遅くなるから」 くっと笑ったラウルスが、初めて精悍に見えた。その表情に押されるよううなずいてしまって、あとからアケルは赤面する。 思い出しただけで赤くなってしまう頬を強引にこすればよけいに赤みが増した気がしてやりきれない。薄暗い室内が気になって、角灯の火をもう少し大きくしようかとも思ったけれど、それも人目がはばかられてできずにいる。 すでに夜は更けていた。探花荘の賢者たちももう眠っているだろう。あるいは他人のすることになどかまっていられないほど忙しく研究をしているか。 いずれにせよ、今夜アケルが何をしようと気にかけるものはいない。そのはずだった。そう、理性ではわかっている。 わかってはいるけれど、探花荘どころか王城中の、いや、都中の耳目が自分に集中している気すらする。何度喚き声を上げたくなったか、わからない。そのたびに慌てて口許を覆った。 「寝られるか、馬鹿」 あのときラウルスは寝てろ、とは言ったけれどこんなときに悠長に眠っていられるほどアケルは大胆ではない。 もう少し性根を据えていたいものだとも思う。ラウルスを迎えることなんかなんでもないことだと余裕の笑みを浮かべてみたい。窓から彼が入ってきたときには、安らかに眠っていたい。 「さすがに、無理」 獲物を追うことならば、それが獣であろうが人間であろうがためらわない。その意味では、性根は据わっている。 「自分で思ってたより」 うぶだった、と知った。それなのになぜあのときあのようなことが言えたのか。ちらりとアケルの視線がリュートに向かった。 「お前のせいのような気がして仕方ないんだけどな」 むっとした口ぶりで言うものの、声の中に笑いが含まれていることを自分の耳で聞き取ってしまった。 「もう。馬鹿馬鹿しいな、本当に」 弦を弾きかけた指が止まる。賢者に知られたくなかった。 こんな時刻に起きていることを、ではない。リュートが鳴るようになったこと。弾くことができるようになったこと。 アケルはいまだ賢者にそれを告げてはいなかった。気が咎めては、いる。まったく気にかけていないわけではない。むしろ、早く言わなければならないと焦燥を感じてもいる。それでも告げずにいるのはなぜか。 「それも、お前のせいかな」 リュートの指し示すままに。そう言えば賢者は笑うだろうか。使い物にならないと自分を放り出すかもしれない。 「それならそれでいいかな。そうしたら、ラウルスの元に走ろうか」 笑ってリュートの胴を撫でた。ほんの少し前まで、そのようなことを考えたことなど一度もなかった。賢者の用事がすめば、できるだけ早急に山に帰って務めに戻る。アケルはずっとそう思ってきた。 「あんないい加減な男のどこがいいんだろう」 リュートに向かって呟く。それは独語ではなかった。アケルにとっては対話そのもの。たとえ他人がどう思おうとも。答えは返ってきた、心の中に。 「……いい加減、なのかな」 そう思っていたはずだった。ただその根拠となればどこにあるのか、いまはもうわからない。最初の、印象かもしれない。 「意外と、誠実。なのかな」 言ってみてどうだろう、と笑う。その答えは今夜、知れるだろう。ラウルスはくると言った。まだ訪れはなかったけれど。 「待ってるの、やめようか」 思った途端にもう、窓を見ることができなくなった。じっと待ち続けている自分を直視したくない。彼がきたとき、待ってなどいなかったと笑い飛ばしてやれたら。 「そこまで根性悪くないんだよね」 きっと自分は笑顔で男を迎えてしまうだろう。遅くなったと詫びるラウルスの顔が今から見えるようだった。 アケルは寝台に腰を下ろし、リュートを膝に置いたまま動かなかった。時折、弦を撫でる。鈍い響きがかすかにアケルにだけ届いた。 どれほど時が経っただろうか。アケルにとっては夜明けも間近と感じられるほど。実際は夜中を少しすぎたあたり。かつり、と音がした。 その音が、世界中に響き渡った気がしてアケルは飛び上がりそうになる。思わずぎゅっとリュートの首を掴んで深く呼吸をする。そろそろと首を巡らせた。 そして息が止まるかと思った。確かに忍んでいくとは言った。窓の外に大きな樹があると確かめてもいた。だが、それにしても。 アケルに気づかせもせず木登りを、しかもこの深夜に敢行したらしい人物がにこやかに枝の上で手を振っていた。あまりの有様に目が眩む。 「……なにをやってるんですか、あなたは!」 思い切り声を潜めて、それでも叱声を発した。そうしたことで、自分が物音一つ立てずに窓の側まで歩いていったことを知る。横目で確かめれば、きちんとリュートは小さな机の上に丁寧に置かれていた。 「だから、その」 「なんですか!」 「アケル。声が高い」 「せいぜい小さくしてるつもりですよ!」 「あのな、入っていいか?」 どことなく噛みあわない会話にアケルは悟る。ラウルスも緊張していないわけではないらしいと。ほんの少し、気が楽になった。 「……どうぞ」 大きく窓を開け、アケルは室内に退いた。どうするのか、と思うまでもなかった。禁断の山の狩人であるアケルが目をみはるほど、ラウルスの身のこなしは鮮やかだった。 木の上で身を潜めていたラウルスが、枝にすっくと立ち上がる。枝がしなったところを見れば彼の体重をしっかり支えうるほど太い枝ではないのだろう。 折れはしないかとわずかに懸念したのが馬鹿馬鹿しくなるほどあっさりラウルスは跳んだ。大きな音を立てもせず。 それどころか、アケルのように目で見ていなければ人が跳んだとは思えないほどの音しかしなかった。夜行性の鳥が飛び立ったほどにしか、枝は鳴らない。信じがたいものを見た気がした。 「お邪魔します」 なぜか丁寧にラウルスは言い、上の空で頬をかく。角灯の薄明かりに、どうやら照れているらしいと悟りはしたが、アケルもまた言葉がなかった。 「寝てていいって、言っただろ」 室内に視線を巡らせラウルスはアケルがずっと待っていた気配を察して言う。それにもアケルはただ首を振った。 「待っててくれたのか? それとも――」 「……今ここで」 声が、掠れた。それに羞恥を感じるより先にアケルは言い切る。 「帰るなんて言い出したら、心の底から軽蔑しますからね!」 「それは困るな」 にっと笑ったラウルスが腕を伸ばしてきた。アケル自身、自分の動きが信じられないほどだった。あまりにも滑らかに、あまりにも自然にラウルスの腕の中にいた。 「遅くなって悪かったな」 「別にいいです」 「悪い」 「だから!」 「怒鳴るな、アケル。人に聞こえたらどうする」 からかうような口調。これに苛立ったこともあったはずなのに、今は少しも気に障らなかった。 「アケル」 「なんですか」 「遅くなったしな。どうしようかと思って」 「だから……!」 「このまま帰るとは言ってないけどな、まぁ、なんだ。少しお喋りでもして帰ったほうが――」 勢いよく顔を跳ね上げたアケルの頭に危うく顎を直撃されるところだった。咄嗟によけたラウルスは彼の鋭い視線を真正面から見ることになる。 「信じられない!」 「だってな」 「本当に、信じられない! 僕はあなたが欲しいのに、あなたはどうなんですか。違うんだったらさっさと帰ってください。なんだったら窓から放り出して差し上げましょうか。僕が認めない限り、あなたは立派な不審者ですからね!」 口調の鋭さとは裏腹の、むしろ本人がまるで気づいていないその蕩けるような言葉にラウルスは莞爾とする。 「欲しいからきたに決まってる」 嫌がる素振りをしたアケルの腕を掴み、強引に腕の中に収めた。 「あなたって人は!」 まだ強い言葉を吐くアケルではあったけれど、小さくほっと安堵の息をついたのをラウルスは腕の中に感じていた。 |