腕の中にある得がたいもの。触れてはいけないものに触ってしまった。ラウルスは苦く痛感する。それでも離せなかった。 「ほら、やっぱりそうだ。あなたはいい加減だから、きっと僕がしてみろって言ったらやらないって、思ったんです」 笑いながらアケルはそう言い、体を起こそうとする。ラウルスもまた黙って離した。 「ラウルス?」 その、つもりだった、ラウルスは。なのになぜ。自分の腕がいまだアケルを抱いている。瞬きをしながらそれを遠くから見てでもいるような自分を感じていた。 「……いや、悪い」 無理に、離した。気力の全てが尽きてしまいそうな、そんな気がした。深い呼吸をしてみて、はじめてこれではアケルに気づかれると思う始末。 「もう一度、聞いたほうがいいみたいですね」 「なにがだ?」 「ラウルス」 名を呼び、アケルは再び体を預けてくる。息が詰まって、けれど結局ラウルスはそれを受け止めた。 「口説きます?」 「あのなぁ」 「なんですか?」 冗談のような態度に、わずかでも自分が苛立つのを感じたラウルスはそれをも意外に思う。翻弄されている。悟ったときにはおかしくなってくる。 「こんな得体の知れない男に口説かれたいって顔か、それが?」 「そんな顔してませんよ」 「してるって。だいたいな――」 「別にあなたが何者かなんかどうでもよくなってきました」 さらりとアケルは言った。その言葉の淀みのなさにラウルスは驚く。顔も見ず、アケルはそれを背中で感じる。悪い気分ではなかった。 「僕はあなたがどこの誰かなんか知りませんよ。あなただって僕がなぜここにいるのかは知らないでしょう?」 「それは、まぁ」 「僕はあなたに本名だって名乗ってない。結局あなたが好きなように呼んでるじゃないですか」 嫌がらせかと思った、はじめは。それでも馴染んでしまった呼び名。いつの間にか嫌いではなくなった。 「あなたにそう呼ばれるの、悪くないなと思うんです。僕はいったいどうしたんでしょうね。あなたみたいないい加減な人、嫌いなんだけどな」 「だったら」 「ラウルス。それこそいい加減にしてください。口説くんですか、口説かないんですか!」 「おい。お前な」 茶化すような口調ではあったけれど、この体勢で、この状況で、怒鳴られてしまっては溜息のひとつも出ようと言うもの。 長い溜息をつき、ラウルスはアケルを抱く腕に力を入れた。ほんの少し腕の中でアケルが身じろぐ。弾むようなその体に触れていたい。思ったことで動揺は募った。募りきって、かえって静まった。 「……口説いて、お前がそれに乗ったとして。俺はお前になにをやれる?」 「別になにも欲しくないですよ」 「俺がいればいいとか言わないだろうな?」 「言っちゃいけないんですか、ラウルス」 毅然とした声。リュートのよう変幻する。その声をいつまでも聞いていたい。ずっと手元にとどめていたい。思えば思うほど、無理だとも思う。 「できるなら、そうしたいと思うけどな」 「……別に、いいです」 「アケル?」 「いまだけでもいいです、別に」 「おい」 「ラウルス、ここまで言わせて、あなたはまだ口説かないつもりなんですか! 愛想尽かししますよ!」 「尽かすも何も、まだどうにもなってないだろうが」 「いい加減に……」 「わかった、わかったから! 怒鳴るなって」 「怒鳴らせてるのは誰なん――」 振り返ったアケルの唇を捉えた。驚いて身を引こうとする彼の肩を強く掴んで離さない。緊張に強張ったアケルの唇を解かせたくて柔らかくついばむ。 小さな吐息と共に、彼の唇がほころんだ。肩先を撫で、体の力を抜かさせる。抱きなおし、こちらを向かせる。そんな手順めいたことを考えていないと、貪ってしまいそうな自分をラウルスは嗤う。軽く吸って、離した。それ以上を求めるより先に。 「あなたは――」 「なんだよ」 「口説けとは言いましたけど、実力行使に訴えるとは」 くちづけを交わしたばかりとはとても思えない冷たいアケルの目。怯んでラウルスは身をそらす。 「なんて大雑把な人なんだ!」 仰け反った体に追い討ちのようなアケルの言葉。天を仰いで溜息をつく。それにもアケルが険悪な目を向けるのが視界の端に映った。 「俺は――」 「だいたい、ラウルス。どうしてここでやめるんですか、あなたって人は」 「アケル?」 視線を戻し、うっかりまじまじとアケルを見てしまった。目許を赤く染めた彼がいた。普段見慣れた怒りゆえのそれではない色。それを見落とすほど鈍い男ではなかった、ラウルスは。 「男に興味持ったことはないと言ってましたからね、仕方ないかとも思いますけど。それでも!」 「お前は?」 「え?」 「お前はどうなんだって聞いてる」 問いにアケルが笑み零れる。照れながら、それでも自信を持って。その自信はどこから湧いてきたものだろう、とラウルスは不思議に思う。不意にリュートを見た。自分の意思ではなく、何者かに示されたかのように。 リュートが、あるいは音楽が彼を変えたのか。具体的な何かではなく、アケル自身、どういうことなのかわかってすらいない何か。 それが彼を変えたのならば、あるいは人はそれを運命と呼ぶのかもしれない。ラウルスはそこまで考え、身を委ねることに決めた。抗う無駄を悟ったとも言う。 「僕も同性に興味を持ったことはないですね。むしろ、興味を持たれることも煩わしいくらいですが」 「それを今ここで俺に言うか?」 「別にいいでしょう。僕はあなたがいいんです。あなたはどうなんですか」 声音に忍び込んだかすかな懸念。ラウルスは口許をほころばせて彼を抱く。 「お前がいい」 まっすぐな、この青年が眩しいほどだった。自分の感情を抑えざるを得ないラウルスにとって、眩いばかりにさえ思える。 「いまだけ、もう少しだけ」 「なにがですか」 「俺がどこの誰だか言いたくない」 「ラウルス。人の話を聞いてますか?」 むっとしたアケルの声にラウルスは戸惑いを隠せない。それを諦めて笑う彼の声にほっと息をつく。 いつまでも、ずっとこの声を聞いていられるのならば何を捨てても惜しくない。思いながらラウルスは捨てたい重荷ほど自分を離してくれないということを知っていた。 「なにがだよ」 覇気のないラウルスの声を聞き取らなかったはずはない、アケルは。リュートを手に取らなくとも、耳に宿る楽の音。 世界に、奏でられている心地だった。自分がリュートを弾くと同時に、アケルは世界に弾かれている。リュートがアケルの楽器ならば、アケルは世界の楽器だった。 自分の中から浮かび上がってきたあの恋歌。この世界の恋歌だと弾きつつ悟っていた。あるいは、この世界の奏でる音色が、自分に心のありかを教えてくれた、そんな気がアケルはしている。 気づけはそこに、男がいた。目を閉じようと思いつつ、探していた人。求める気持ちを認めずにいた人。アケルは世界の歌に、眼差しを開かされた思いでいた。 目を開いてみれば、世界は豊かで病んでいた。この世界を体現したかのような男がそこにいた。ラウルスと名乗り、そう呼び続けてきた男が。 「ラウルス」 「なんだよ」 「声を、聞かせてください」 「なに? 意味がわからない」 「いいんですよ、普通に喋っててくれれば。あなたの声が好きです。なんででしょうね、すごく……」 「アケル?」 「よく、わからないんですよ。口で言えるものじゃない。ただ、僕にはとても好きな声です」 豊かで、溌剌としたラウルスの声。どんな影も寄せ付けないようでありながら、影は彼自身の中にある。 不意にぞっとした。世界を蝕む何かが、ラウルスの影と同じものならば。それはこの世界そのものが産んだものに他ならないということになるのか。それを阻めば、あるいはこの世界そのものを破壊することになるのかもしれない。 ただ、アケルはそれを口にすることはなかった。思いはしたものの、自分にはかかわりのないこと、誰かがなすべきこと、そう思っていた。今は。 「俺には、お前の考えてること、感じてることがよくわからないよ」 「でも、理解はしてくれている。それでいいです。充分です」 「それでも」 「だからね、ラウルス」 真正面から、男の顔を見つめた。猛禽の目が、戸惑いに揺れている。それならば自分が支えよう、唐突にそう思う。 「僕はあなたがどこの誰でもいいです。本当ですよ」 言葉を疑われている気がわずかにした。だからアケルは言葉を足した。返事をするラウルスの声が聞きたかった。そうすれば彼が信じてくれたのかどうかわかるのに。けれどラウルスは黙ってうなずいただけだった。 声など、とてもラウルスはだせなかった。今はそう言う。アケルも、今の自分ならばそう言ってくれる。けれど。惑い迷って、ただうなずくことしかできなかった。 「さて、ラウルス。ここまで言わせて、これでおしまいってことは、よもやないですよね?」 昂然と顔を上げたアケルに、ラウルスは小さく笑った。漏れでた声に苦味があったとしても、アケルは問うまい。苦笑だとでも思ってくれればいい、ラウルスは思う。 「そうは言ってもなぁ」 「ラウルス!」 「あのな、アケル。二人ともいい大人だろう? さすがにここで先に進む気には、ちょっと」 にっと笑ってアケルの言葉を封じた。自分が何を言っていたのかようやく気づいたのだろうアケルの無垢さが愛おしかった。 |