奪われたリュートを強引に奪い返し、アケルはラウルスを睨みつける。それでもどこか以前とは自分の心持ちが違っているのを感じていた。
「返してください!」
「もう取り返してるだろうが」
「だったら触らないでください! 最初から!」
 怒鳴ってみても、何かが違う。自分の心から角が取れている、そんな気がしてラウルスをさりげなく見やれば、とっくに気づいていたのだろう男がにやりと笑う。
「いい加減にしてくださいよ、まったく」
 ぼやいて背中を向ける。それでもラウルスは自分の意図を誤解しはしないだろう。そんなことを思ったアケルは自分自身に驚いていた。
「さっきの話ですが……」
「別の曲か?」
「えぇ。なにか――いえ。いいです」
「アケル?」
「ちょっと黙っててもらえませんか?」
 冷たく言い放った自分の声に含まれていた柔らかさに唇を噛みたくなって、アケルは強いて何事もなかったかのよう、リュートを爪弾く。
「まず、試してみます。それから」
 呟くよう言い置いてアケルはリュートを構えた。理解しているとは言いがたい。それでもできる、そんな気がした。
 ゆっくりと呼吸を深くして、リュートの音が途切れないようラウルスを意識する。それだけで音が生まれる気がした。
 実際、リュートは鳴り響いた。高らかにではない。むしろ、密やかな音。アケルが恋歌を意識して弾いているのだとすれば、ずいぶんと甘やかなものを彼は心のうちに持っている、そうラウルスは思った。
 少しずつ生まれ出た音が旋律を形作っていく。曲を作っているのではなかった。アケルがリュートを弾いているのではなく、リュートにアケルが弾かれているかの心地。
 うっとりと、アケルはそれを聞いていただけだった。あまりにも切ない、その甘さ。吟遊詩人に言わせれば、歌詞のない曲などと鼻で笑うだろう。
 けれどラウルスはアケルの背中を守りつつ、驚いていた。吟遊詩人の、それも当代一流と呼ばれる者の演奏を聞いたこともあるラウルスだ。
 彼らとはまったく違う、とラウルスは真剣にその音に耳を傾ける。歌詞がない、歌声がない、そのようなことは瑣末だ。
「アケル――」
 呼びかけが、リュートに、あるいはアケルにどのような影響を与えたのか。音色は更にいっそう豊かになった。
 ラウルスの声に調和し、それを乗り越え飲み込み包み込む。それでいて音色はラウルスの外にあった。
 あまりの美しさに涙さえ浮かびそうになり、その陳腐さを自ら嗤いたくなる。それすら包み込むようなアケルの音楽。
 リュートのではない。間違いなくそれはアケルの音楽だった。おそらくそれを彼は認めまい。そう思いつつラウルスははじめての彼の音を心ゆくまで堪能する。
 終わりはあまりにも唐突で、アケル自身が戸惑うほど。まるで目覚めたばかりのような顔をしてアケルが振り返った。
「いま、なにが」
「お前なぁ」
「僕にもわかってます!」
「なにがだ?」
「リュートが……なにか、違ったんです。だから、あんな、僕の知らない曲……」
 案の定アケルは認める気はさらさらないようだった。それを好ましく思いつつラウルスは微笑む。
「俺はお前が弾いたように見えたぞ?」
「そりゃそうですよ。リュートが勝手に鳴り出したら怪奇現象です! 弾き手は僕でしたよ、確かにね。でも、そうじゃないんです、あれは、あんな曲は、僕は知らない!」
「知らない曲が生まれるって、わかってて試したんだろ、お前?」
「え――」
 そのときのアケルの顔といったら、これ以上ない見物だった。思わず吹き出そうとしかけた口許を必死で引き締めラウルスは神妙な顔つきを保つ。
 それでも気づいたらしいアケルの冷たい視線がラウルスを射抜いた。何かを怒鳴ろうというのだろう、胸いっぱいに息を吸い込むもなぜかアケルはそのまま深く吐き出す。
「アケル?」
「……別に怒鳴りたくないわけじゃないですからね。ただ、それよりも不思議なことがあるだけです」
「だからな、言いたいことがあればちゃんと言えって」
「言う前にあなたが口出ししてるんです!」
「それももっともだ。で?」
 当たり前のことを言う口調でラウルスはアケルをからかい、怒りに紅潮する彼の頬に目を楽しませる。それにアケルが怒りを募らせるより先、促すよう首をかしげて見せた。
「どうして、僕のしようと思ったことに、気づいたんですか」
「お前なぁ。俺はどこにいたと思ってるんだ?」
「ずっと僕の背後にいたように思いますが?」
「だろ? 背中ってのは、お前が思ってるよりたぶんずっと口数が多いもんだぞ」
「寡聞にして背中が喋ると言う話は聞いたことがありませんね!」
「……だいぶお前の性格が読めてきたな」
「どういう意味ですか!?」
「ん? 怒ってなくても、苛ついたり照れたりしても怒鳴るんだなってことだ」
 今度は叫び声も上がらなかった。拳を握って感情をこらえているらしいアケルにラウルスは無言で笑みを向ける。
「恋歌を知ってるかって聞いただろ、お前」
「それがなんだって言うんですか!」
「人に習うより先に自分で試す。そういうことじゃなかったのか、さっきのは。だから俺に聞かないで、試した。やってみたら成功した、違うか?」
「……違わないのがこんなに口惜しいなんて!」
 子供のようなことで感情を高ぶらせるアケルが、好ましい。ラウルスは心の内でそれだけを認め、あとは考えない。考えれば見抜かれるとばかりに。
「お前、すごいな」
 自分の心など見せる気はないラウルスはそっと眼差しを和らげてアケルを見やった。
「なにがですか!」
 ラウルスの意図になど気づかないアケルはやはり声を荒らげる。それから少しばつが悪くなったのだろう、小さく謝罪した。
「ついこの前まで全然弾けなかったのにな」
「努力してますから」
「だからそれがすごいって言ってるのさ」
「それに、リュートが……」
「そのリュートがどういう経緯で何がどうなってるのかは、聞かん。ただ俺の感想だ、聞くか?」
「……えぇ」
 返答にはためらいがあった。アケルは渋々といった様子で顔をそむける。まるでラウルスが喋りたいから勝手にさせているのだといわんばかりの態度に男は微笑み、言葉を続けた。
「確かにお前のリュートは変ってるよ。変なリュートだ。ただ、弾いてるのはお前だし、俺にはさっきの曲もお前の中から生まれたように聞こえた」
「僕は……」
「作曲法だとか、リュートの演奏法だとか、そんなものを知ってるかどうかなんか、関係ないんじゃないのか?」
 ラウルスの断言にも近い言い振りにアケルは黙る。自分でも感じないわけではなかったことをここまできっぱりと言われると反感よりも戸惑いが先に立つ。
「ラウルス」
「うん?」
「……どうして、そう思ったんですか」
「強いて言えば勘かな? もう少し詳しく言えば、さっきの曲はどことなくお前を思わせた」
「僕はあんなに」
 何を言おうとしたのかアケルは黙る。言葉を切って考え込む姿をラウルスもまた黙って見ていた。
「……何をどう弾いたのか、よく覚えていないんです。わかってもらえないかもしれませんが」
「戦うことに必死でどう剣を動かしたのなんかわからないってところだな?」
「そうですね、そういう感じです」
 意図が伝わった。言葉にしようもないものが伝わっていく喜び。それを感じたのははじめてかもしれないとアケルは思う。
 同時にラウルスも感じていた。ここまで相手の考えていることが手に取るようわかる。それが嬉しくないはずはない、と。ラウルスにとってもはじめての経験だった。
「俺には、お前の声に聞こえた」
「歌ってませんよ」
「わかってるくせに」
 茶化すよう言ってもアケルは怒らなかった。代わりに眼差しを向けてくる。深く澄んだ北の海の青。そらしたのはラウルスだった。
「変なことを言うようだが……」
「戯言だったら聞こえませんからね」
「本題の前にな、お前さ、前から思ってたんだが……」
 言葉を切り、悪戯っけもたっぷりラウルスは彼を見つめる。内容を察したのだろう、アケルはすでに嫌な顔をしていた。
「実は俺に口説かれたいんじゃないのか?」
「言いましたよね、戯言だったら聞こえませんって」
「聞こえてるだろうが!」
 まるでアケルのよう声を高めてラウルスは言い放つ。それでも真剣ではない雰囲気を察してアケルは鼻で笑っただけだった。
「本題のほうをどうぞ?」
「まったく。まぁ、いいさ。リュートの曲が、お前の声に聞こえた。お前の声が、世界の声に聞こえた」
 一転して真摯な声。驚かなかった自分をアケルは感じていた。すう、と息を吸ってラウルスを見つめる。
「そう、思いましたか?」
「あぁ、思った」
 アケルの戸惑いごと飲み込むよう、ラウルスは答えた。満腔の力をこめて声を発したほど、気力が要った。
「あなたが、わからない」
 背を返し、けれどアケルは背を預け。ラウルスは無言でその背を抱く。リュートを教えるときにそうしていたよう。
「ただ、それでいいのかなって思います」
「アケル?」
「さぁ、口説くなら今ですよ。ラウルス」
 首だけ振り向けて、普段ラウルスがしている表情を借りたかのようアケルがにっと笑った。
「そう言われてもなぁ」
 困り顔を作って見せても、見抜かれる。そう感じてしまったラウルスの心中に芽生えたのは諦めではなく恐怖心だった。
「ラウルス?」
 問いかけながら、ゆっくりとアケルが体の力を抜いた。腕の中、アケルの重みを抱きとめるラウルスはいまだ葛藤していた。




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