歌が曲を導く。曲が、歌を導く。どちらとも言えず、どちらでもある。アケルの中でそれらが一体となって響き渡った。 不意に身体の消失感を覚えた。すう、と体が地面に吸い込まれていくかのような感覚。浮遊感にも似たそれに、アケルは恐怖を感じない。 なぜだろう、と思ったときには答えを知っていた。背中を、ラウルスが守っている。一人ではない。見えない、感じられもしないここにラウルスが共にいる。 まるで世界を知ったかの歓喜だった。自分がこのアルハイドの大地であることをアケルは知る。いまアケルはこの世界そのものだった。 喜びの中、一点の曇りがきざす。何かと思ったときには手足の先が冷えていた。凍えて、消えていく手足。それでいて曲はいまだ聞こえ続けている。だからこれは現実のそれではない。 「……大地の」 痛み。呟いたアケルの声が聞こえているのかどうか。ラウルスは小さく歌い続けていた。 失われていく手足が大地のそれならば。ふとアケルは気づく。ラウルスは言っていた。海が飲まれているのだと。 「なくなっていく――」 何かに奪われている。飲まれて、消えていく。アケルは世界の痛みをその身をもって知った。世界の悲鳴を体で聞いた。ぞっとして声を上げかけ、息が詰まる。 「アケル」 世界に同調するアケルを引き戻したのはラウルスの静かな声だった。いまだかつて聞いた覚えのない真摯な声だとはアケルは気づかない。それでもその声が誰のものかはわかった。 「いま……なにが。いえ、わかってるんです。わかったと、思うんです。でも、どうして。僕に……なにが」 「落ち着け。説明してくれって。どうした、うん?」 「ラウルス?」 振り返って彼の目を見た。猛禽めいた目が笑っている。まるで何も起こらなかった、とでも言うように。 自分の体験を疑いそうになって怒鳴り声を上げかけ、ふとその目の中にあったものに気づいた。心配は要らない、黙って笑う目が語りかけていた。 「……いま」 声が、不快だった。いつの間にか演奏をやめてしまったリュートに目を落とし、自分の声がこの音色ほどに豊かならばどんな思いでも伝えられる、そう思う。 「この世界を知った気がします」 それで、わかってもらえるとは思わなかった。馬鹿にされる、笑い飛ばされるとすら思った。ラウルスは無言で笑みを含んだまま続きを促しただけ。 ほっとしてアケルは息をつく。新鮮な空気が胸いっぱいに入り込み、ようやく自分の体を意識した。ラウルスが抱えている自分の体。慌てて離れてもよかったけれど、いまはまだそのような気力が湧かない。そう心の中で思う。違うかもしれない、とどこかで誰かが言った。 「いま、僕はこの世界でした。そうとしか、言いようがない。なにが起こったのか、僕にもわからない。でも確かなことなんです!」 「それで?」 「疑わないんですか、あなたは」 「俺が体験したわけじゃないからな。お前が言うならそうなんだろ?」 不思議そうに問われてしまってアケルは怒鳴り返すことができなかった。一々怒鳴る必要がないことに気づいて、自分を笑いたくなる。 「この、リュートのせいですよね、きっと」 「そうか?」 「だって、僕にどうしてそんなことが起こるんです? 僕は禁断の山の狩人としての誇りは持ってます。でも、それだけです。僕のせいじゃない」 「俺はお前だと思うけどなぁ」 飄々と、なんでもないことのよう言われた。知らずかっとして振り返り、ラウルスの胸元を掴み上げる。その手が震えていることに彼自身は気づかなかったけれどラウルスは気づいた。 「いい加減なこと言わないでください!」 「本気で言ってる」 「どうしてですか、根拠は!」 まくし立てるアケルに苦笑してラウルスはきりきりと襟を締め上げる彼の手に触れた。そのまま片手で包み込む。 「そんなもんないな。お前が世界を感じたように、俺もそう思った。だめか、それじゃ?」 ゆっくりと手をはずさせたのにもアケルは気づかないよう、目を丸くしてラウルスを見ている。まじまじとしたその目のあまりの青さについ引き込まれそうになったラウルスのほうが視線をそらすほどに。 「言いましたっけ? 賢者様に、言われてるんです。リュートを弾けって。だから、きっとこれは、リュートのせいなんです。そうですよ、きっと!」 「でも賢者に選ばれたのは、お前なんだな?」 「いやなことを言わないでください、人が必死で否定しようとしてるのに!」 「否定しようってことはな、アケル。自分じゃもう認めてるってことだぞ?」 笑ってラウルスはアケルの体を離した。それでようやく抱かれていることを思い出してばつが悪くなったのか、アケルはそっぽを向いて離れていく。 それをまた高らかと笑うものだからアケルの機嫌が悪くなるのだとわかっていてもやはり、ラウルスは笑った。 「あなたと言う人は!」 横目で見やれば咲き乱れる花の中、ごろりと転がったラウルスがいた。気持ちよさそうに空を仰ぎ、目を閉じる。ふとアケルが眉を顰めた。 「ラウルス」 「なんだよ」 「体の具合が悪いんじゃないですか?」 片目を開けてラウルスはアケルの表情を窺った。横になったままの体勢で器用に肩をすくめる。 「ちょっと寝不足なだけだ」 「寝不足?」 「色々と忙しくってな」 ラウルスはそれだけを言った。アケルは、ならばこんなところでのんびり人にリュートを教えてる暇はないのではないか、とは問わなかった。 わざわざ睡眠時間を削ってまで時間を作ってくれている。それを感じられないほど鈍くも恩知らずでもないアケルは少しだけ唇を噛みしめて言った。 「寝たらどうです。起こしてあげてもいいですよ」 そんな言葉にラウルスは唇を吊り上げて笑った。妙に精悍でアケルは目を疑う。寝不足が凛々しく見えるというのはどういうわけだろう、と。 「そりゃ助かるな。悪い、ちょっと寝る」 言うなりラウルスは本当にことりと眠りに落ちた。その様は提案したアケル自身が驚くほど。思わず寝息を窺ってしまう。 「……信じられない。本当に寝てる」 疲労からか、それとも悩み事でもあるのか。ラウルスの寝顔は安らかとは言いがたい。かといって自分になにができるわけでもない。思った途端、リュートに視線が落ちた。 「まぁ、練習でもするか」 弦を弾く。先ほどの曲をさらう。小さな音で控えめに。ラウルスの眠りを乱さないように。そう思ったことで目が彼に向けられる。 不思議に思った。先程よりずっと穏やかな顔をしている。気のせいだろうと思ってもう一度覗き込む。リュートの音は止まった。 「もしかして」 響きがなくなったのを眠る彼の耳が捉えたのだろうか。偶然にしろ、ラウルスの眠りは穏やかならざるものになったらしい。 「冗談みたいだな」 だから、これはきっと冗談なのだ。なにかの間違い、ただの偶然。それでも。 アケルはリュートを構えなおす。リュートの曲は先ほどのものしか知らない。けれど今ならばできる、そんな気がした。 奏ではじめたのは、子守唄。都と山では、違う歌を歌うだろうか。アケルは自分の指がなだらかに動くのを驚きとともに見ている。まるでリュートに導かれているようだった。 時間にして、そう長い間ではなかった。起こすとは言ったものの、どれほどで起こせばいいのか見当もつかないアケルが悩むほどのこともない。ラウルスは自分で目覚め、にやりと笑う。 「助かったよ」 ゆっくりと体を起こし伸びをする。目は猛禽のようなのに、そんな仕種はまるで大きな獣だった。しなやかで無駄のない動きに一瞬アケルは視線を釘付けにされ、慌ててそらす。なぜ慌てなければいけないのかと内心で怒鳴りながら。それを口に出せないこともまた、訝しく思いつつ。 「なんのことですか。何もしてませんが」 「弾いててくれただろ、ずっと」 「練習してただけです!」 「なんだろうなぁ。ずいぶん気持ちよく眠れたよ、ありがとな」 「別に。あなたのためじゃ、ないですから!」 いつものように怒鳴れない。なぜだかわからない。きっと世界との一体感がまだ自分の体に残っている、その違和感だ。アケルはそう思い込む。 思い込もうとする分、すでに知っていた。一体感がもたらすものに違いはない。それだけは間違いがない。 ただ違和感ではない。不快感では更にない。世界を知ると同時にアケルは自分を知った、同じほどにラウルスをも知った。 それでいて知識はいまだ明らかにならなかった。何もかもを知っているはずなのに、理解できない。それがもどかしい。 じっとラウルスを見つめれば、首をかしげて笑っている。その態度も仕種も理解できる、気がした。今はまだわからなくとも、いずれ。わからないのに、自分のどこかはすでに理解している。だからたぶん、怒鳴れない。 「あなたのことがわかりません」 長い溜息をつき、アケルはそれだけを言った。それにラウルスは微笑むだけ。まるで見守られてでもいるようだ、思った途端に真実かもしれないと思う。 「ラウルス」 「なんだよ?」 「あなたは、何者なんですか」 聞くまいと思っていた。自分も本名を明かしていない以上、聞いてはいけないことだと思っていた。問いを止めることができなかったのはラウルスの目の中にあった色かもしれない。 「なんだよ、今更」 「あなたの名前、なんていうんですか」 「ラウルスだ。そう呼んで欲しいって言わなかったか?」 「言いましたけど、でも!」 「どうした、アケル?」 あえて名を呼ぶことで問いを封じた、ラウルスは。その意図を感じ取ってしまったアケルは唇を噛む。苛立ちをこめて弦を弾けば鈍い音。 「実は貴族だなんて、言わないでしょうね?」 どう見ても戦士の装い。磊落かつ、いい加減な態度。こんな貴族がいるはずはない。 「当たり前だろ、貴族なんかじゃないぞ? どっからそんなこと思いつくかな、面白いやつだよ、お前は」 からりと笑って腕を伸ばしたラウルスは、見事なアケルの赤毛をかき回す。アケルは憤然とその手を振りほどき、大声を上げ。ふと気づいた。混乱する自分を怒鳴らせるためのラウルスの仕種だった、と。 |