リュートが、更にいっそう我が儘になった。アケルはそう思ってしまう自分にそっと苦笑する。 ただの楽器に意思があるはずはない。そう思う反面、自侭に鳴ったり鳴らなかったりするとも思ってしまう。 いままでも、鳴るのは決まってラウルスが側にある時だった。そうでなければアケル自身が彼のことをおぼろげにでも考えているとき。 「まったく」 今ではぼんやり考えているだけではリュートはそよ風ほどにも鳴らなかった。これではアケルがリュートの意思を疑うのも無理はない。 「なにを考えてるんだ、お前は?」 今日も花園でラウルスを待っていた。探花荘でも練習はできる。ただ、なぜとなくいまはまだ賢者にリュートを弾くところを見られたくない。 きちんと弾くことができないからだとか、いまだみっともない格好でしか構えられないからだとか、理由を見つけようと思えばそれこそいくらでもある。 ただアケルは知っていた。理由などない。ただ、知られたくない。本当はいけないのだとも、思っている。 「なんなんだろう……」 リュートを弾くことこそが急務、賢者の言葉の端々にそれを感じている。だから音が出たならばまず賢者に告げるべき義務がある。 「言いたくないのは、どうしてかな」 悪戯に弦を弾けば鳴らない音。アケルは苦笑いをしてラウルスを思う。今度は鳴った。不恰好にリュートを構え、ラウルスが教えてくれた簡単な曲の練習をする。 「あぁ……もう!」 これが、難しい。曲そのものはたぶんそれほど難しくはないのだ。が、慣れない楽器に、覚束ない指使い。その上ではっきりラウルスを思い浮かべるとなると指がもつれて仕舞いには音が出なくなる。 「あんまり我が儘いうと投げ出すからな」 リュートの胴を軽く叩けば抗議のような音がして、アケルは笑う。まるでラウルスの不満のように聞こえた。 「きましたね」 振り返りもせずアケルは言う。足音を忍ばせたラウルスが驚いて立ち止まるのにも気づいた。 「なんでわかった?」 「舐められたものですね。僕は禁断の山の狩人です」 「それだけか、ほんとに?」 にっと笑ってラウルスが前にまわってきた。すとんと腰を落として軽食を取り出す。これもいつものことで、気づけばアケルもありがたく相伴するようになってしまっていた。 「……それだけですよ」 「お前さ、俺に舐めるなって言うわりには俺のこと舐めてないか?」 「なんのことですか。見当もつきませんね!」 言い放ってパンに噛みつく。今日は炙った牛肉に青菜を和えたものらしい。香ばしい匂いが食欲をそそる。 「リュート」 ぼそりとラウルスは言った。その言葉にアケルは危うく飛び上がるところだった。それには耐えたものの、うっかりパンを喉に詰まらせそうになる。 「なにやってんだ、お前は」 呆れ声を作って見せたけれど、少し笑っていた気がした。睨めばやはりラウルスは笑っている。手渡された飲み物を乱暴に奪い取り、アケルは息を整えてから律儀にそっぽを向いた。 「俺がくるとリュートが鳴る。違うか。アケル?」 追い打ちのようなラウルスの声。アケルは答えずパンを食む。それを眺めたラウルスもまた軽食を手にした。 「俺がいないと鳴らないってことは。さて、参ったね」 「なにがですか!」 怒鳴ってから、乗せられてしまったと気づいて臍を噛む。むっとして残りのパンを食べつくした。美味であったはずなのに、少しも味の印象が残っていない。食べ物に申し訳ない気がした。 「なぁ、アケル」 「だから、なんですかと聞いています。耳が遠いんですか、頭が悪いんですか」 「言えば怒るし」 「黙ってても怒ります」 だいたい、とアケルは思う。大の男が拗ねて見せてなにが面白いものか。ラウルスのいい加減な態度にも慣れたけれど、こういうところはいまでも癇に障る。 「じゃあ仕方ない。言うか」 「さっさと言えばいいでしょうに、勿体つけて」 「――お前、もしかして俺に惚れたのか、とかはなぁ。さすがにちょっと俺でも言いにくいさ」 肩をすくめるラウルスに、アケルはどうしたらいいのかわからなかった。殴ったらいいのか、驚けばいいのか。それとも呆れて見せるべきか。 「おい、アケル。真顔になられると対処に困る」 「対処に困るようなことを先に言ったのはどちらです!」 「だから怒るなって。言っても言わなくってもやっぱり怒ったよなぁ」 「あなたって人は――!」 抗議も罵声も思い浮かばず、アケルには絶句するより仕様がない。手にした壜を投げつけてもいいけれど、それでは花園が汚れる。それがいやだったのだ、とは後になって無理にも思い込んだこと。 「まぁ、いいか。さ、ほら。練習するぞ」 「そんなこと聞かされたあとではいそうですかなんて言えると思いますか!?」 「別に惚れてないならないで問題ないだろ? それとも……」 思わせぶりに言葉を切ってラウルスはにやりと笑う。その表情に、飲まれそうになった。猛禽の目に射竦められたのではない。吸い込まれたかと一瞬、本気で思ったアケルは深く息を吸い、ここにある自分を自覚した。 「僕があなたを? 天地がひっくり返ってもありえませんね。それとも、そういうあなたこそ僕がお気に召しましたか!」 「そういうことはもうちょっと優しげに言うもんだろうが」 「どうして僕があなたに優しくしなきゃならないんです。理由がありませんよ」 「いいだろ、別に」 「それで、ラウルス。お答えはいかに?」 ラウルスの言葉通りの態度がこれだといわんばかりにアケルは優しくにっこりと笑って見せた。その裏側にある辛辣さに気がつかないほどラウルスも鈍くはない。 「気に入ってるよ。悪いか?」 手玉に取ってやろうとした途端、唖然としてアケルは口を開け閉めする。思わず立って逃げようとした手を掴まれて、振りほどく。 「ちょっと待て、アケル。そうじゃないって。誤解するな」 「するようなことを言ったのは誰ですか!?」 「冗談だ、冗談。ほら、練習しないのか、うん?」 茶化されて、馬鹿馬鹿しくなる。この男はいつもそうだとアケルは苦々しげに腰を下ろした。 そんなアケルの感情などラウルスには手に取るよう理解できていた。わざと煽っている部分も無きにしも非ず。そのたびに乗せられて怒鳴っているのだとアケル自身は気づいていないらしい辺りが意外と可愛いものだと思わないでもなかった。 「ラウルス」 「なんだ?」 背後にまわろうとしている男にアケルは鋭い視線をくれる。ラウルスは気にした素振りさえ見せずに位置を変えて腰を下ろした。 「念のために言っておきますけど」 「わかってるから言うなって。変なことしたりしない。安心しろ」 「変なことってなんです、変なことって!」 叫んだ途端、ラウルスが笑い転げた。どうやらまたからかわれたらしいことには気づいたものの、アケルはむっつりと口をつぐむより他にない。 「ほんと面白いなぁ、お前って。いまどきどんな清純な乙女だってそこまで貞操堅固じゃないぞ?」 「僕が乙女に見えてるんだったら――」 「見えてない。安心しろ」 「念のため――」 「過去に男に興味を持ったことはない。これで安心したか?」 言葉を全て先取りされてアケルは不機嫌そうにリュートを構えた。言葉のやり取りをしているより、まず練習。そう思い出したのかもしれない。 ただ、アケルは自分が不快になった理由がわからなかった。不快であることにも気づかなかった。むしろただの継続した不愉快さだとばかり。 ラウルスは敏感に気づいた。そして小さく唇を噛む。アケルの背後にあるからこその仕種。彼が悟ることはない。 「ほら、やってみな」 声に思いがけないものが混じらないよう、ラウルスはそれだけを言う。手を添えて指導してはくれないのか、アケルがそう思ったとしても彼は口に出さなかった。 ゆっくりと、たどたどしい手つきで弦を弾いた、アケルは。その彼が一番、驚く。いままでにない音色だった。 何がどうと言うわけではない。あるいは何もかもが違う。知らず止まりそうになった指に触れたラウルスのそれ。 音は続いた。はじめて、ただの音ではなくなった。短い、単純な曲。繰り返し繰り返し波が寄せ、引くかのような。 「ラウルス……、聞きましたよね、僕は」 「もう一度」 短い言葉にアケルは初めて素直に従った。嬉々として曲を奏でる。この世の中にこんな音色があるのだとはじめて知った心地だった。 そして何より、楽しかった。リュートを弾くことがこんなに楽しいとは想像しなかった。この手は弓を引くためにこそある。そう思っていたけれど。 「真面目に」 ラウルスの声にはっとしてリュートに意識を戻す。よけいなことを考えただけで音は乱れた。指が、乱れるのだとアケルは気づく。リュートのせいではない、自分の技術が未熟なだけ。 いまここにラウルスがいる。それに楽をさせてもらっていた。背後に彼の体温を感じている。実際の熱ではない。ただそこにいてくれている。それだけでわざわざラウルスのことを思わなくていい。それが楽なのだ、とアケルは思う。どこかで違うかもしれない、と不意に思った。 少しずれた姿勢をラウルスに手直しされた。リュートを楽しむアケルはそんな彼の手を拒まない。それどころか喜んで指示に従った。 ラウルスが背中から自分の体を抱くのを感じる。リュートに添える指をそっと直す。曲は途切れない。それこそが重要とでも言うかのように。 先ほどのやり取りなどただの他愛ない言葉遊び、冗談にすらならないと言いたげなラウルスの態度だった。 かすかに覚えた不満にも似た何かに動揺したアケルが外した指をラウルスは黙って直し、それから小さく歌を口ずさみはじめた。 |