教えるとは言ったものの、その日ラウルスは何もせずに帰った。
「悪いな、時間がこれ以上は取れない」
 いかにもすまなそうに言うものだからアケルはつい問うのを、忘れた。彼が何をしているのか、それほど忙しい理由は何かと。
 そのまま花園に留まってもよかったのだけれど、そうすることに意義を見出せなくなってしまって、そう思った自分が苛立たしくもありアケルはあてどなくさまよう。
 そして結局気づけば探花荘に戻っていた。自分のなしようが訝しい。そしてここが異郷だとつくづく思う。
 禁断の山にいればこのようなことはなかった。思い惑うことも苛立つことも。
「これも一つの成長かな」
 呟いて、苦い。禁断の山はぬくぬくとした宮中ではない。生活も義務も過酷だ。それでいて、こちらのほうがずっと自分を成長させたのかと思えば、まるで山にいたころの自分が何もしていなかったのよう、感じられてしまう。
「そんな、馬鹿な」
 するべきことはしていた。思った途端、それだけしかしていなかったのではないかと浮かんでくる疑問。
「僕は――」
 それを否定するほどアケルは愚かでも傲慢でもなかった。苦さは隠せなかったけれど。ラウルスが知れば若さだと笑ったことだろう。
 ふ、と指がリュートの弦に触れた。爽やかと言うにはかすかな甘さを含んだ音。どの弦に触れるかではなく、心の持ちようがリュートに音を与えている。それにアケルは気づきはじめていた。
「……認めたくないけれど」
 長い溜息をついて弦を弾く。今度は鳴らない。思い浮かべて、弾く。つん、と鼻の奥が痛くなるような音がした。
「あなたなんか、信じてない」
 けれどリュートは。アケルにはわからない。リュートの考え、と言えば賢者は笑うだろうか。
 だがしかしこのリュートには意思がある。そうとしか思えなくなりつつある、少なくともアケルは。
「お前は僕の手にあるべきものなのか? 違うんだったら、さっさと本来の持ち主の手に行けばいいのに」
 面倒な、厄介な。そんな意思をこめて苛めるよう、リュートの胴を弾く。弦には触れもしなかったのに、甘えた非難のような音がした。
「まったく」
 ついにアケルは笑い出した。やはり、リュートの意思だ。そう思ったほうがずっと楽だ。
「まさか、僕がね」
 これは、リュートの意思。自分の意思ではない。このリュートが鳴るとき、傍らには常にラウルスがいた。彼が側にいずにリュートが鳴るとき、それはアケルがラウルスを思うとき。
「本当に、認めたくない」
 だからそれは自分の意思ではなくリュートのそれだと再三再四にわたってアケルは呟く。そのぶん嘘だとどこかで感じないでもなかった。
「僕に、なにをさせたい?」
 リュートに向かって問う愚かしさ。いっそ賢者に問うたほうが遥かに早い。が、アケルはためらう。
「賢者様には賢者様の理由とやり方がある、か……」
 自分でもそう思わないではない。が、これは禁断の山の考え方だ。自分で獲得した意思かと問われればたぶんアケルは違うと首を振る。
「きっと、都が悪いんだ。何もかもがよくわからない」
 わからないから苛立つ。声を張り上げてばかりいる。まるで気の弱い獣だ、と自らを嗤いたくなった。不意に音。気弱になったアケルの脳裏を掠めたものがリュートの音を呼ぶ。
「そんなことはない!」
 リュートに向かって怒鳴っておいてアケルは失笑した。賢者がこんな自分を見ればどうかしたかと思うことだろう。それ以前に自分で自分を疑っている。
「本当に……僕は。どうしたんだろう。わけがわからない」
 むっつりと呟いて、アケルはリュートを抱えた。構え方は知っている。少なくとも、どうやって構えればいいのかは、賢者が招いた弾き手から聞いている。
 聞いただけで巧くできるとは思ってもいない。そもそもリュートを弾くなど一朝一夕にできることではない、と思っている。それでも賢者が弾けと言うならそれがいまのアケルの務めだった。
 拙いと言うよりなお酷い有様でアケルはリュートを抱えた。少し弾きかたを習ったものならば誰でも頭を抱えるだろう。
「僕の手は、楽器を奏でるようにはできてないんだ。この手は、リュートの弦じゃなく、弓の弦を引くためにある」
 あえてリュートに言い訳をする愚かしさ。笑って少し肩の力が抜けた。ぎこちなく抱えなおし、弦に手を添える。
「……もう。なんで鳴らないかな!」
 文句を言ってもはじまらない。アケルはわざとやっていた。確かめるようにもう一度。
「明日は、くるんですか。ラウルス」
 答えるよう、リュートは朗らかに鳴り響いた。呆れてアケルは苦笑する。まるで調子のよさはあの男そのものだと思いつつ、しばらくリュートの練習をした。まるで、成果は上がらなかったけれど。
 だから翌日ラウルスが頭を抱えることになる。アケルにリュートを構えさせ、どこまでなにができるのか見ようとした途端に盛大な溜息をついた。
「だから言ってるじゃないですか! 僕はリュートが弾けないんです!」
「怒鳴るなって」
「どうして僕が怒鳴る羽目になるんですか。あなたのせいじゃないんですか。できないって言ってるんだから、そんなに溜息つかなくってもいいでしょうに」
「悪かったって!」
 閉口したラウルスが慌てて顔の前で手を振る。その態度に誠実さを感じなかったアケルは彼を鋭く睨みつける。
「あのな、溜息ついたのは悪かった。でもな、言い訳をさせてもらえるか?」
「僕を丸め込もうって魂胆なら、感心しませんね」
「そんなことするかって。いいか、アケル? お前にリュートを教えたやつは、どんな教え方をしたんだ、うん?」
「それは……その……」
 はっと気づいてアケルは視線をそらす。ラウルスは自己の行動の弁明をさせろと言った。だが実際にしたのはそうではなく、アケルにリュートを教えたものへの遠まわしな非難だった。
「お前が誰になにを習ったのか知らない以上、軽々しいことは言いたかないがな、あまりにも酷いぞ、それは」
「……僕が下手なんだとは、考えないんですか?」
「なに言ってんだ?」
 そう実に不思議そうな顔を彼はした。思わず視線をあわせてしまってアケルは再度目をそらす。
「お前、熱心だろ。面倒くさいって顔してるけどな、俺は知ってる」
「……なにをですか。そんな、自分はなんでも知ってるみたいな態度、すごく不快です!」
「なんでもなんか知らないさ。ただアケルが頑張って弾こうとしてることは知ってる」
 一切の衒いを捨てたラウルスの声にアケルは言葉を失くした。なにをどう言ったらいいのか、そもそもなにを言うべきかがわからなくなる。
 無言のアケルを小さく笑い、ラウルスは彼の手を取る。それにも反応しなかった。悪戯にぎゅっと握る。怒るだろうとは思っていた。が、飛び上がるほど驚くとは思っていなかった。
「なにしてるんですか!」
「……お前なぁ。ほんと、わけわかんないやつだよな」
「なんのことです!? 僕にはあなたのほうが遥かに不可解です!」
「手を握ったくらいで飛び上がるか、普通?」
「それがどの辺りの普通なのかを伺いたいですね! 少なくとも僕の常識ではまったく普通のことではありません」
 むっとして言い返すアケルを見つつラウルスは笑っていた。喚いているほうが耳に心地良い、とまでは言わないが、生気を失ったアケルを見ているのはつまらないと思う自分の趣味のおかしさを笑っていた。
「ところで、ラウルス」
「なんだよ?」
 言った途端に射殺さんばかりに睨まれた。憤然とアケルが手を振りほどく。
「いつまで人の手を握ってるんですか!」
「離しただろ」
「これは離させた、と言うんです!」
 怒るアケルにからからとラウルスは笑う。あまりにも屈託のないその表情に、アケルは思い出す。この男と真面目に付き合っているのは馬鹿馬鹿しい、そう何度思ったことかと。
「それで、ラウルス。教えてくれるんですか、どうなんですか」
「教える気はあるがなぁ……」
「なんですか。さっさと言ってください!」
「お前、言っても言わなくても怒るから」
 にこりと笑う。無邪気なのかそれをつくろったのか。考えようとして、アケルはやめた。そしてラウルスのようにっこりと笑う。
「とりあえずやってみたらいかがですか。たぶん怒ると思いますけど」
 その表情に、ラウルスは声を上げ高らかと笑った。仰け反った拍子に背中についた手が花を散らす。草の香りと花の匂い。それを吹き散らしていく風を見た心地で一瞬アケルは言葉に詰まる。
「どうした?」
「すごく、綺麗だったんです。いま……。なんだったんでしょう」
「なにを見た?」
「香り……いえ、違うかな。風を見たような、そんな気がして。――馬鹿なことを言いました」
 自らの言葉に照れたかのようアケルは首を振った。そんな彼を見つめてラウルスは思う。アケルの性根の素直さを。驚いたあまり呆然としたのであってもいい。アケルはいま、問いに反論することなく答えた。この声の響きが悪くない、そうラウルスは思う。
「さぁ、はじめるか」
 一度気を引き締めたのはなんのためか。ラウルスは自らの思いに気づいて内心で苦笑する。何事もなかったかのよう、ラウルスは微笑んだ。
「構えてみな」
「ですけど」
「いいからやってみろって。こっちで直してやるから」
 間違いなくアケルは怒る。それが覚悟できているからラウルスはなんとも思わない。怒鳴られようが睨まれようが飄々たるものだった。
「なにをしてるんですか!」
「だから怒るって言っただろ」
「そう言う問題じゃないです!」
 リュートを構えたアケルの背後にまわったラウルスは、彼ごと腕に抱くようにして手直しをした。途端に上がった怒鳴り声がこれだった。




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