足音を殺して歩いてくる音をアケルは聞き取っていた。舐めないで欲しい、と不意に不快になる。自分は禁断の山の狩人だ。草を踏む音ならば誰より速く聞きつける。
「よう。きてたな」
 いかにも驚いた、いま見つけたばかりでびっくりした、そんな体裁を取って男が姿を現した。アケルは振り返りもしないのに器用にそっぽを向いた。
「なんだよ?」
 不機嫌そのもののアケルの顔を覗き込み、ラウルスは不思議そうに首をかしげた。それにも彼はいっそうどこかを向いてしまう。
「なぁ、なんか気に障ったか?」
「あなたの存在そのものが気に障ります」
 ぴしりと言い返し、アケルは体ごと背中を向けた。そんな態度が妙に子供じみていておかしい、などと笑えばきっとアケルは帰ってしまう。
 だからラウルスは笑いを噛み殺す。思わず口許に当てた手だけは隠せなかったけれど、あちらを向いているアケルに見えはしないので都合はよかった。
「だったらなんできた?」
 昨日の今日だ。きているはずとの確信がラウルスにはあった。それがどこから生まれたものかはわからない。だがアケルはきている。この、秘密の花園に。
 そう思ったからこそラウルスもまたここを訪れた。ひっそりと、足音を忍ばせて。隠れたいと思ったわけではなかったけれど、多少の気恥ずかしさを感じていたのかもしれない。
 強引に誘ったのは、わかっている。それを受けてアケルがきてくれていると言う妙な確信。いずれも自分が不思議で、少し照れくさい。
 覗き見たアケルは、昨日食って掛かってきた青年と同じ男とは思えないほど、静謐だった。咲き乱れる花の中、しんと座ったまま膝に置いたリュートをいじっている。それだけのことがなぜか胸に迫るほど絵になっていた。
「別にあなたに会うためにきたわけじゃありません!」
 絵になっていたからこそ、からかいたくなる。そんなラウルスの心境などアケルにはわからない。わかっていたら間違いなく更に怒るだろう。それを思えばおかしくて仕方ないラウルスだ。
「そうか? だったらなんできたんだ。うん?」
 茶化して言って思わず振り返ってしまったアケルの目を覗き込めば途端にそらされた。それが驚くほどの素早さで、かえってアケルの純粋さを見た気がしてラウルスは新鮮な思いに駆られる。
「ここが気に入ったからに決まってるじゃないですか。あなたのその自信過剰さはどこからきたんですか。都の人はみなそうなんですか。まったく、手に負えない!」
「ははぁ、すでに口説かれたと見える。それも一度ならず?」
「ほっといてください!」
「ちなみに、単なる好奇心から聞くんだが、男女どっちに口説かれた?」
「ほっといてください、と申し上げてるんです。聞こえなかったんですか、それとも聞く耳持たないんですか」
 険悪な顔をしてアケルが振り返る。その彼が見たものは悪戯に目を煌かせているラウルスだった。知らず長い溜息が漏れる。
「……僕が悪かったんです」
「なにがだ? お前、黙ってれば美形だからな。どっちに口説かれたって……」
「そうじゃないです! あなたの相手を真面目にしようと思ったことが僕の過ちだった、と言ってるんです!」
「そう怒るなって」
「怒らせているのは誰ですか!」
 怒鳴ればいつの間にか隣に腰を下ろしたラウルスが笑い転げた。馬鹿馬鹿しくなってリュートを撫でる。何かを意図した仕種ではなかった。
 いつの間にか癖になってしまっていた。賢者に常に携えているよう言われているからこそ、従っているこのリュート。気に入っているわけでも弾きたいわけでもなかったけれど、気づけば愛着めいたものは生まれてしまっていた。
「アケル」
「なんですか」
「なんで怒らせてばっかりいるのか、俺にはわからんし、たぶん説明されても理解はできん」
「理解しようって気はないんですか、あなたには」
「あるさ。でもお前じゃなぁ」
 言ってのけてラウルスはにやりと笑った。そのように言われては、まるで自分が悪いみたいではないかとアケルは不快になる。
 そこが苛立たしいのだ、とラウルスに言って理解もできないほど頭の悪い男だとも思えなかった、彼は。
 もしもそのような男ならば自分はさっさと立ち去るだけだ、とアケルは思う。そもそもここにはこなかったはずだとも。
 気づいてアケルの表情が曇った。それではまるでラウルスに会うために花園を訪れたようではないか。そのようなつもりなど微塵もなかった。
 ならば、いったいなにを意図してここにきた。自分に問うてもアケルにはわからない。喧騒を逃れたかったからだと言う声に、探花荘は静かだと言い返す別の声。
「なぁ、アケル。怒らせちまった詫びと言うんじゃないが、よかったらリュート、教えようか?」
 ふ、とラウルスの声が胸に染みこんできてアケルは目を瞬く。何かを聞いた気がした。何かはわからない。聞き取ったのかすら定かではない。耳に聞こえた音であったのかも。
 その音が、なにかの始まりのように思えてしまってアケルは首を振る。しばし黙ってリュートを撫でた。
「――弾けないんですよ」
 ぽつりと呟き、アケルはリュートから視線を上げる。そこには変らずラウルスがいた。組んで座った膝に肘を乗せ、頬杖をついて微笑んでいる。自分が黙っていた間、じっとそのまま待ってくれていたのを感じた。
「だからな」
「そうじゃないんです。音が出ないんですよ、このリュート」
「出ない? 壊れてるようには見えないがなぁ」
「疑いますか。別にいいですけどね。ほら」
 戯れに思い切りよく弦を弾いてアケルは息を飲む。目を瞬き、同じことを繰り返す。
「どうやら、いまはじめて鳴ったらしいな?」
「ラウルス」
「なんだ」
「あなたは……」
 もう一度弦を弾けば澄んだ音。このリュートはこんな音がしたのか、と聞き惚れてしまいそうになる。楽器を奏でることに熱狂的な興奮を覚える質ではなかったけれど、このリュートには惹き込まれそうになる。賢者がこれを自分に持たせた理由はわからない。が、特別なリュートなのは理解した。
「――疑わないんですね」
「なにをだよ?」
「僕の言葉を」
 それだけを言えばラウルスは明るく笑った。まるでリュートに重なるような、互いに共鳴するような笑い声。
「お前のリュートはいままで鳴らなかった。そうなんだろ、アケル」
 短い言葉に返ってくる即答。やはり頭の悪い男ではないとアケルは思う。ならば苛立たしい態度はこの男の性質か、と思えばやはり帰りたくなった。それなのに、帰れない。帰りたいと、どうしてか思えない。
「そうですよ。でも、あなたは馬鹿にすると思って」
「お前なぁ。俺をちょっと舐めてないか?」
「だってそうじゃないですか。全部冗談みたいにして! 僕の言葉だけ信じてくれるなんて、それこそ信じられない」
「まぁ、俺の態度が悪かったなら謝るって。でも全部冗談ってわけでもないがな」
「どこがです?」
「お前が口説かれたかは、真剣に知りたいかな」
 それを片目をつぶって言って見せたりするものだから、アケルはこの男を殴りたくなるのだと知った。
「知ってどうするんです。口説きますか」
「口説かれたいか?」
 にやりと、実に人の悪そうな顔をしてラウルスは笑った。少し似合わない、とアケルは思う。もっと純な笑顔のほうが似合う、そのほうがリュートの音にあう、そんなことを思った自分に動揺する。突然湧いてきた考えに、まるで支配されでもした気分だった。
「おいおい、そこは言い返すとこだろ。真面目に動揺されたんじゃ甲斐がない。なんだか本気で口説かなきゃいけないような気がしてくるだろうが」
「……ます」
「うん?」
「そんなことしたら本気でぶん殴りますからね!」
 きつくリュートの首を握り締め、わなわなと唇を震わせ、その上真っ赤になって叫ぶものだからラウルスは腹を折って笑いたい気持ちでいっぱいだった。さすがに自重する。
「ちょっと待てって! 禁断の山の狩人の本気って、俺はかなり怖いんだがな。顔の形が変わりそうだ」
「変えてあげますよ、きっちりと」
「やめろって。口説かねぇよ」
 ひらひらと片手を顔の前で振って言うラウルスに、妙に苛立った。苛立ちの理由がないことにアケルはいっそう苛立つ。
「それで?」
「なにがですか!」
「リュートだって」
 呆れ顔を作って見せたラウルスの気持ちを察しないでもないアケルだ。いまはそのわざとらしさに多少の感謝をしなくもない。
「教えようか?」
 思わずアケルはうなずきそうになった。賢者の理由はわからない。たぶん、教えてもらえないことにも理由がある。それならば、黙って従うが賢明と言うもの。
 賢者が弾けと言うならば、弾かねばならない。それは、わかっている。だからここでラウルスに教えてもらうことになんの障害があろうか。
 それでもアケルはうなずけなかった。ラウルスが、引っかかっている。この男の存在が、棘のよう刺さっている。リュートに、あるいは自分の心に。
「いえ……けっこうですよ」
「なんでだ?」
「探花荘にも、教えてくれそうな人はいますから。それにラウルス。巧いんですか、あなたは」
「ま、人に教えられる程度には、かな」
 肩をすくめて言うのだから、それなりに自信はあるのだろう。ラウルスと言う男がわからなかった、アケルは。
 どう見て戦士風の装い。それほど裕福にも優雅にも見えない。その男がリュートに自信を持つと言うのは。
「あなたと言う人が、わかりません」
 言い捨ててアケルはリュートを手に立ち上がる。振り返りもせず花園を後にした。それなのに心はずっとラウルスの傍らに残っている、そんな気がして仕方なかった。




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