苦笑しながらティリアの腕をほどけば、娘もはじめから何事もなかったかのような顔をして先ほどまでメレザンドが腰掛けていた椅子に腰を下ろす。 まるでそれを見計らってでもいたよう、王女付きの侍女が茶を運んできた。ティリア好みのいささか香りの強い茶が、アウデンティースは苦手だ。 それでも可愛い娘が選んだ茶だからか、王はにこやかに微笑んで口にする。和やかな休憩の時間に見えてはいるが、実のところアウデンティースは仕事に戻りたい。 この目の前に溜まっている書類を片付けてしまわないことには気がかりばかりが増えてしまう。片付けてもいずれすぐ増えるのだ。できるときにしておかなければ、いつまで経っても終わらない。 「ティリア。メレザンドのことだがね」 とは言え、娘と過ごす時間もまた、貴重なものであることに違いはない。事件が起こって以来、こうして座って話すのも久しぶりのような気がする。 「お父様ったら、変なことに気を回しすぎだわ」 「そうか?」 不思議そうに言うものの、おかしなことを言ったつもりはなかった。ティリアがメレザンドに恋をしているのも、彼が娘を求めていることも知っている。なにを気にしているのだろう、と思わないでもない。 「お前はもう少し、王家の血と言うことを考えたほうがいい」 他の人々より、ずっと長い時間を過ごすことになるのだから。あるいは、それを気にかけているのかもしれない、とふとアウデンティースは思った。 「考えているわ」 「なら、何を悩む?」 「わたくしが若いうちにメレザンド伯爵が逝ってしまうことを」 少しばかり速すぎる答えだった。だからこそ、アウデンティースは思う。彼女はずっとそれを考えていたのだと。 いささか、忸怩たる物がないでもない。我が娘がここまで考えているのに己は、と思えば父として大人として情けなくもなるというもの。 「ならばよけいに」 「お父様」 「うん?」 「わたくし、女性ですの」 「それは見なくともよくわかってるが?」 今更なにを言うかと思う。彼女の体の半分は、自分の血でできている。生まれたばかりのころから目にしているもの。 不思議そうに首をかしげるアウデンティースにティリアはころころと笑った。口許を逆手で隠すものだから、どうやら父をからかっていただけらしい。 「お父様、女性と言うものは自分だけが取り残されるのがいやなものです。愛する人が先に逝ってしまうのは、悲しいですもの」 「それは男でも同じと思うが?」 「だからですの?」 ティリアはじっと父の目を覗き込むように首をかしげる。そんな仕種にふとアウデンティースは亡くなった王妃のことを思い出した。 「お父様が再婚なさらないのは、どうしてかと思って」 「それは簡単な話だ」 肩をすくめてティリアの視線から逃れた。脳裏に浮かぶのは、王妃の面影ではなかった。我知らず、アウデンティースは動揺していた。 「王妃の責務を担うに相応しい王家の女性がいまはいないだろう?」 「でしたら別に王妃になさらなくってもよいのではなくて?」 「無茶を言う」 思わず苦笑いがもれた。確かに歴代の王の中には公式の愛妾を持ったものもいたし、非公式となればほとんどが当てはまる。アウデンティースは当てはまらない貴重な例外だ。 「まだお母様を愛してらっしゃるから?」 「もう愛してないよ、とは言えないだろう?」 「言ってもよくてよ」 笑いながら言いつつティリアの目は笑っていない。悪戯な表情が亡き王妃を思い出させた。当然、政略結婚だった。 同じ王家の人間とは言え、王になると決まったアウデンティースと、傍系の王族との婚姻は政略以外の何物でもない。 それでも最初から「妻」として連れてこられた王妃をアウデンティースは心から愛していた。王妃も同じだった、と思う。 「お母様が亡くなって、ずいぶん時間が経ってますもの」 王家の者でも、病を得れば果敢なくなる。長寿であろうが若々しかろうが、同じ人間の運命だった。王妃は末の王子を産んでしばらくの後、亡くなった。 「いつまでもお父様が一人でいらっしゃるの、娘としても不安ですもの」 「父親のことなど放っておいてさっさとメレザンドのところに行けばいいだろうに」 「あら、邪魔者扱いなさるの」 「とんでもない。ただ、私が王位にある間に嫁したほうが都合はいいぞ」 「どうかしら。メレザンド伯爵は王の娘のわたくしでも王の姉のわたくしでも気になさらない気がするわ」 誇らしげに言うティリアの目の良さを、アウデンティースは褒めてやりたくなる。アウデンティースが見るところも、同じだった。 メレザンドは、頼りになる。有能で物堅く、頭の回転も悪くない。父親としては娘の結婚相手にもう少し難癖をつけるべきかとも思うが、メレザンドではその気にならない。 「お父様こそ、早くどなたかをお探しになって」 「それこそ一人身の父親は邪魔かね?」 「えぇ、邪魔ですわ。お父様が大事になさる方がいらしたら、その方はきっとこんなにお忙しそうになさってるお父様を放っておくはずがないと思いますもの」 「ではしばらくは無理だな」 「だって、お父様……」 「大変なのは、わかっているだろう? ティリア」 「わかっています、でも」 「わかっていないよ、ティリア・ロサ。王は国の大事に働くもの。そうでなければ王たる者の資格はない」 きっぱりとアウデンティースは言った。ティリアも、それを感じる。父が自分の正式名を呼んだときは、これ以上なにを言っても無駄だと経験上、知っていた。 長い溜息をつくティリアに、すまないとアウデンティースは思う。本当は娘の意を容れてやりたい。自分自身としても、楽はしたいし気を抜きたい。 ただ、それでは王ではないともアウデンティースは思う。これまで長い間王位にあってそれなりにのんびりすごしてきたのは、ここで働くためであったのだとすら思う。 ここで安易に逃げては、自分が自分であれない、そう思う。 「お父様」 「うん?」 いささか口調が厳しすぎたと感じていたアウデンティースはにこやかに微笑んで茶を口にする。 ティリアはだから見抜いていた。父がこの茶を好きでないことも、忙しさに苛立って、無理に微笑んで見せたことも。 「わたくしも色々聞いてはいますけれど、でも本当のところはなにが起こっているのかわからないのです。教えていただける?」 「教えてやりたいな、とは思うよ」 アウデンティースの言葉にティリアはまるで子供のよう唇を尖らせた。父親の前でだけ見せる表情にアウデンティースは顔をほころばせる。まるで嫁してきた当時の王妃のようだった。日に日に亡き妻にこの娘は似てくる。 「教えてやりたいけれど、私にも良くわからないのだから仕方ない」 「お父様にも?」 「私にも。海が飲まれている、消えているとは言うものの、原因が何かはわからない。原因を掴もうとみなが努力している。もしわかったところで人間の手でどうにかできるものなのか……」 最後は呟きだった。ティリアに聞かせるつもりであったことより多くを語ってしまったアウデンティースは苦笑してまた茶を口に運ぶ。冷めた茶は強い香りが和らいで飲みやすかった。 「お父様がなさるの、全てを?」 「さてな。やりたいとは思うが、私にできることなのかもわからない」 「なさりたいの?」 「忘れていないか、ティリア。ここは私の国だぞ。私が責任を持つのが当然と言うものだ」 「どなたかにお任せになればいいのに」 「任せるにしろ自分でするにしろ、責任は私にある。ならば自分でしたほうが気楽というものだ」 「そう言うものかしら?」 「お前もちゃんと領地の経営をしてご覧。私の言っている意味がわかるから」 子供たちにはそれぞれ領地を与えている。が、王女付きの家臣に任せて領地の巡回もしていないらしい。熱心なのは末の王子だった。 「お父様がご存知ないだけよ。ちゃんとしているわ」 つん、と顎を上げて言うティリアにアウデンティースは苦笑してまだまだ幼い、そう思う。むしろ、思いたいのかもしれない。 「こんな幼いお前に愛する男がいるとはな」 「ですから、そのことはもう仰らないで」 「そんなに嫁したくないのか」 「先ほど申し上げたとおりです。わたくしは今すぐ嫁す気はありません」 その口ぶりに、ティリアの心が揺れていることを感じた。ゆっくりと息を吐き、アウデンティースは何気なく窓の外を見る。ただティリアから視線をそらしたかった。 「こうなってみると……」 「なにか仰った?」 「ん……。いや、な……」 逡巡した、アウデンティースは。いまだ若い娘にこれを言うべきかどうか。言っていいものかどうか。ただ自分よりも遥かに王家の血というものについて考えたらしいこの娘にならば、話してもいいかもしれない、そうアウデンティースは覚悟を決める。 「王家の血も良し悪しだと思ってな」 溜息交じりの言葉をティリアは正確に理解したのだろう。しっかりと真顔でうなずいて見せた。 「私には、原初の人間に与えられた祝福ではなく、呪いのようにも思えるよ」 嘆声にも似た響きに、なぜかティリアは小さく笑った。瞬きをしてアウデンティースは娘を見つめる。 「わかったわ」 「ティリア?」 「お父様、好きな方がいらっしゃるのね」 「なにを……!」 「王家の血を引いていなくて、先に逝ってしまうとわかっている方。だから迷ってらっしゃる。呪いだなんて仰る」 「なにを根拠に――」 言ってから、すでにティリアが根拠を述べていることに気づいて思わず天井を見上げた。違う、と自分では思っている。が、そちらのほうの根拠はどうやら、みつからなかった。 「ほら、やっぱり」 若い娘らしいティリアの朗らかな笑い声を聞きながら、アウデンティースの脳裏には消しても消せない面影が浮かんでいた。 |