アウデンティース王は書類に埋もれていた。先ほど席を外した間にまた一山増えている気がする。小さく溜息をつき、執務机につく。 「自業自得とは言え、たまらんな」 嘆きつつも書類に目を通し始めた。席を外したことが自業自得なのではない。海が飲まれている件に関しての全ての情報を上げるよう、アウデンティースは命じている。 重臣や賢者がそれぞれ検討をし、解決策を探っていることは知っている。普段ならばアウデンティースもここまでは命じない。 「ただこの件に関してはな……」 嫌な予感がしていた。単に海が飲まれているだけではない何かを感じる。海が消えていく。それだけでも重大な事件だ。 だがそれよりももっと悪いことが起きる気がして仕方なかった。なにが起きる、と具体的に指摘できるわけではない。それは統治者としての勘だったのかもしれない。 「確実に広がってるな」 情報を見れば歴然としていた。確かに目に見える速さではない。が、数ヶ月でじわじわと広がっている。 暗澹たる思いに駆られそうになった。いったい人間の身でなにができるのか。しなければならないと焦燥に駆られる反面、するべきことがわからない。 「まったく」 呟いて窓の外に視線を向けた。この目に見える限り、平和だ。昨日と同じ今日、今日と同じ明日が続いていく。そう言いたくなる。 そうであれと願う。祈りつつも、叶わないことをアウデンティースの体のどこかが知っていた。アルハイド王家の血が告げたのかもしれない。 書類に埋もれること数時間。控えめに入室を求める声がして、アウデンティースは思い切り伸びをした。強張ってしまった体の節々が痛む。 「入れ」 肩を叩いているところに、重臣の一人が入ってきた。顔を見れば良い報告でないことは明白だった。 「またか?」 飲まれた海の範囲が広がったかとの王の問いに重臣は首を振る。意外に思いアウデンティースは椅子を勧めた。 「陛下の御前で……」 「そうかしこまられては話にならん。いいから座れ。倒れそうな顔をしている」 「申し訳のないことです」 言いつつその重臣、メレザンド伯爵は浅く椅子に腰掛けた。背を伸ばし毅然とした態度を取ろうとするものの、果たせないでいる。 「疲れているな」 言うまでもないことだった。メレザンドは重臣の中でも際立って若い。ほんの数年前に父伯爵からその地位を継ぎ、三十歳の声すら聞いたばかりだ。 それなのに、疲労困憊していた。年齢よりも十歳は上に見える。この事件が起きる前はきれいに整えていた黒髪もいまは乱れがちだった。それでも王の前に出る前に身なりを整えたことを考えれば、彼の疲労具合がわかるというもの。 ここまで臣下を働かせておいて自らは多少とは言え休息を取ったことをアウデンティースは後悔する。 「すまん、詮無いことを言ったな」 「とんでもないことです。陛下こそ、少しお休みになりませんと」 「先ほど少し取った。問題はない」 「さようでしょうか」 遠まわしな非難にアウデンティースは自分もおそらく疲れた顔をしているのだろう、と思う。いざと言うときに役に立たなくては王たる者の意味がない。 「まぁ……これから少し気をつけることにしよう」 「是非ともそうしてくださいませ」 「それで?」 このままでは互いの体調に終始してしまいそうだった。事態を考えれば、そのような時間はないはずだ。 たとえなにができるとわかっていなくとも。だからこそ、時間は必要だった。できることが見つかったときのために。 「探花荘のことです」 「ファーサイトの賢者たちか?」 「はい。いったいなにをしているのか……。我々にも詳細がつかめません」 そのような不満があることをアウデンティースは知っていた。ファーサイトの賢者たちは秘密主義と言うのではないのだが、情報が確たるものにならない限りそれを教えたがらないという悪癖がある。 賢者たちの言い分もわかる。不確定な情報によって失われるかもしれない機会と人命を考えれば迂闊なことは言えないと彼らは言う。 もっともだ、とアウデンティースも思う。賢者たちが蔵する書物は多い。それを解することも、そこから情報を汲み取ることも、城の者たちには難しい。王ですら。 精一杯努めていると彼らは言うしアウデンティースも認めているのだが、重臣の中には何かを隠していると考えるものもいる。当然のことだった。 「お偉方に、使われたか?」 悪戯めいた口調で王が言えば、臣下は恐縮するよりない。事実だけに反論もできかねたし、見抜かれているのだからなにを言っても言い訳にしかならない。 「使われたわけでは……」 せいぜい力なく言えばアウデンティースは気にするなと笑う。 「爺様たちにしてみれば、お前は使いやすい素材だからな」 「なんということを、陛下!」 「事実だろう?」 アウデンティースに早くから仕えている重臣を爺様などと言われてしまってはメレザンドなど青くなるしかない。 「若いお前なら私が怒らないとでも思っているのだろうさ」 「そのようなことはありません」 「あるさ。メレザンド、賢者たちは放っておけ。不満があるのはわかっている。が、こればかりはどうにもならん」 「陛下にもですか」 不遜な口のききように、発言した本人が青くなる。それを面白く眺めながらアウデンティースは首を回した。まだ体が強張っている気がする。 「あぁ、私にも、だ。賢者は確かなことしか口にしない。それすら、本心では嫌がる。自分の言葉が世界に与える影響を考えすぎる。彼らもまたこの世界の一部なら、さほど気にすることはあるまいにと私などは思うが」 「私も、そう考えます。陛下のお言葉に力づけられた思いです」 「だがな、メレザンド。確かに賢者の言葉は正しい。賢者の一人に、お前がこの事態を解決する、そう言われたらどうする。信じないか?」 「……信じて、しまうと思います」 「だろう? その結果お前は命を落とすかもしれない。飲まれた海は回復するかもしれないが、大地が割けるかもしれない。賢者の不安はそこにある。らしい。私も彼らからの受け売りだ」 「でしたら陛下、いま我々がすべきことは」 「待つことだ」 「それだけ、ですか」 「あぁ、そうだ。とにかく賢者がなにを見つけているか、それにかかっている。見つけていることは確実だろう」 彼らがいま探花荘から動いていない。それがアウデンティースに確信させていた。賢者は何かを掴んでいる。 掴んだものの、彼らにもそれが何かがわかっていないのかもしれない。ファーサイトに誰かを遣わして、確認している最中かもしれない。あるいは掴んでいると見えるものは別件なのかもしれない。同時に様々なことを研究している賢者たちだ、ありえないことではない。ここまでわからないと、推測のしようも予測の立てようもない。 「……わからんな、何もかも」 呟いた王からメレザンドは視線をそらす。すでに充分重荷を担っている王に、更なる問題を押し付けてしまった申し訳なさに唇を噛んだ。 「そんな顔をするな。待つのも重要なことだからな」 慰めにしかならない。それはアウデンティースにも言われたメレザンドにもわかっていた。悪戯げに微笑む王にメレザンドは頭を下げる。 「陛下が、当代の王であられて、本当に良かった」 しみじみ呟いてからメレザンドは顔を赤らめた。知らずうち、独り言を口にしていた。 「そうか? 爺様たちは頼りないのなんのと色々言ってくれるが」 「とんでもない! 重臣方にとっても陛下は力強い王であられます」 「そう言うお前も、私の大事な重臣だ」 にこりとアウデンティースが笑う。はじめは多少、面倒だと思っていたメレザンドの訪問だったが、言葉を交わしてみれば少しだけ息抜きになった。それをありがたく思う。 「陛下?」 「なんだ」 「本当に、少しお休みになってください」 こんな会話が休憩になった、そう思っていることが顔に出てしまったのだろう。アウデンティースは後悔する。臣下に顔色を読まれているようではまだまだだった。 「あぁ、わかっている――」 言葉を続けようとしたところにまた誰かが訪ねてきたらしい。肩をすくめて入室を許可すれば、扉の向こうには若い娘が立っていた。 「メレザンド伯爵、お邪魔でしたか」 「とんでもないことです、姫様」 そうメレザンドはティリアに向かって一礼する。アウデンティースの長子にして唯一の姫だった。ティリアの他にアウデンティースには二子がある。末の息子もすでに二十代に達していた。 長子たるティリアは、二十代半ばになっている。ずいぶん前から婚礼のことを、と言っているにもかかわらず、いまだ嫁す気はないらしい。もっとも、王家の姫としては早すぎる婚礼ではあるのだが。 「お父様との大事なお話を邪魔してしまったのでなければいいのだけど。メレザンド伯爵、庭の薔薇が見ごろなの。よかったらお茶にお出でなさい」 父親はこのような時、いったいどんな顔をすればいいのだろうか。アウデンティースにはよくわからない。笑いそうになる表情を必死で引き締めるだけだ。 「喜んで伺います、姫様」 ちらりとメレザンドがこちらに視線を投げた気がするものの、アウデンティースは気づかないふりをする。ほっとした気配のメレザンドが退出するまで、王は神妙な顔をしたままだった。 「お父様ったら変な顔をなさってる」 「そうか?」 「お疲れになったの。それともメレザンド伯爵のことかしら」 娘が父に甘えかかるよう、椅子に座ったままのアウデンティースの後ろから首に腕を投げかけてくる。ごく幼いころから子供たちの中で最も触れ合うことを好むのがこの娘だった。 苦笑するアウデンティースとティリアはとても親子には見えない。親しい男女、と人には映るだろう。そもそもアウデンティースにこれほどの年齢の子があるようには見えなかった。メレザンドと同年配、あるいはメレザンドのほうが年上に見えてしまう。 原初の人間の、最初に立った者を源とするアルハイド王家。その血が若々しさと長寿をもたらしていた。 |