禁断の山。それは人間がはじめて神に創られ生まれ出た場所だとアケルは聞いている。原初の人はその山の頂にある平和な地で過ごしたのだと。そのなだらかな山で怯えも不安もなく平和にすごしたのだと。
 神々がこのアルハイドの大地より天に還った後、人間は山を下り、大陸の隅々にまで広がっていった。
 だからこそ、だろう。人間は最初の故郷を聖なる場所として無用な者の出入りを禁じた。禁じたがゆえに伝説となり、いつしか事実は忘れられた。禁断の山の実態を世の人が知らない、それが理由だった。
 そして忘れられようともこの地を守るのが禁断の山の狩人だ。彼らは不必要に山に登ったものを、あるいは徘徊するものを言葉によって、また武器によって排除する。
 アケルはそんな禁断の山の狩人だった。彼には、山に登ってきたものを実力で取り除く権利と義務がある。
 だがここは。アルハイド王家の城。言うまでもなくアケルにはなんの権利もない。無論、彼にもそのことはわかっているだろう。わかっていて放った軽口だろう。
 そう思うのだが、ラウルスはあの一瞬の殺気が忘れがたい。鋭く、確かな武術を持つものの殺気だった。
 アケルの容貌は優しい。長い燃えるような赤毛をただ首の後ろで束ねているだけだというのにずいぶんと華やかな印象がある。派手だというのではない。むしろ野の花にも似た清楚さだ。
 覗き込めば青い目も北の海にも似た深い色をしていて、着飾れば人目を引かずにはいないだろうに、本人が強いてそれを拒んでいる気がする。一言で言うならば、はっとするほどの美貌のくせに奥床しい。
 それが禁断の山の狩人とは。ラウルスは不思議なものでも見るような目で彼を見ていた。
「なにじっと見てるんですか。僕の顔に何かついてますか」
 それなのに、口を開けばこれだ、とラウルスは内心で笑いを噛み殺す。もしかしたらアケルは自分相手だから苛立つのかもしれない。ふとそんなことを思ってはわけもなくおかしくなってくる。
「いいや、別に?」
「だったら、なんで見てるんですか。男に見られてうっとりする趣味はないんですが」
「禁断の山の狩人か、と思って眺めてただけだ。あれか? 北のほうにあるせいかな。お前の目も北の海の色だな」
「……そんなこと、よく言えますね」
「なにがだ?」
 また怒らせたらしいが、ラウルスには理由がわからない。首をひねればそれこそ北の海のよう、冷たい視線が返ってきた。
「城の人って、みんなそうなんですか。歯が浮くような言葉です」
「なんだ、お前。俺に口説かれたかと思ったか?」
「違います!」
 断固として叫んだアケルの頬が赤くなっている。もちろん、ラウルスは勘違いはしなかった。照れて赤くなっているのではなく、やはり怒っている。
「怒るなって」
「どうして怒らないでいられるんですか。僕には理由がわかりません!」
 互いに怒る理由と怒られる理由がわからないと感じているのならば世話はない、ラウルスは笑いたくなる気持ちを必死でこらえた。それを言えばきっと今度こそアケルは帰ってしまうだろう。
「相性ってやつかなぁ。俺はお前、嫌いじゃないんだがな。ちょいと生意気だとは思うが」
「初対面の人間に言いたくはないですが、あなたみたいないい加減な人、初めてです」
「どこが?」
「そこです」
「わかんないって」
「説明してあげる必要が僕にあると思うんですか?」
 そう言ってアケルはにやりと笑った。本人の言葉とは裏腹に実は楽しんでいるらしい。それを見てラウルスはほっとした。
「まぁ、ないだろうなぁ。で、続けていいか?」
「なにを……いえ。はい。続けてください」
「お前、今なんの話してたか忘れてただろ」
「僕は忘れてません! なんでどの人も浮き足立ってるのか教えてくれると言ったのはあなたです。忘れて話をどこかに飛ばしたのも、あなたです」
 全部俺のせいかよ、と小さく呟いたラウルスにアケルは一瞥をくれた。それに体を縮こませて恐縮する体を作って見せるものだから、いっそう本気かどうか疑わしい。
「それで、続けるんですか、どうなんですか」
「はいはい、続けますよ。浮き足立ってる理由な。なぁ、アケル」
「なんですか」
「そう刺々するなって。もしお前の目の前で海が消えていったら、どうする?」
「どうすると言われても……」
「潮の満ち干なんかじゃない。だいたい消えてるってのも、言葉が正しいのかどうか」
「なんですか、それは」
「俺だって自分の目で見たわけじゃない伝聞だ。なんて言ってたかな、海が目に見えない何かに飲み込まれているようだって言ってたかな」
「それが、理由ですか」
 少し背筋に冷たいものを感じたアケルではあったが、たかがその程度と思ったのも事実だ。それだけラウルスの言葉に実感がなかった。
「それだけ、と言えるかな? どうやらそれは広がってるらしいぜ」
「海だけではなく……?」
「いまのところは、海で止まってる。止まってるってのも正しくないんだろうな。いまは海で済んでる、と言うべきか。このままじゃいずれ陸にも達する」
「それは――!」
「な? 大事だろ」
 片目をつぶって言ったラウルスにアケルは真剣な視線を向けた。冗談なのか、それとも事実なのか。目顔で問うたアケルにラウルスははじめて真顔でうなずいた。
「世界の終わりかもな」
 花園の中で、温かな陽だまりの中で。アケルは寒気を覚えた。気温すら、本当に下がった気がする。
「なにか……手は、ないんですか」
「なんで俺がそんなこと知ってるよ?」
「それはそうですが! でも!」
「禁断の山の狩人ってのは責任感が強いんだな」
「責任感の強い人間は嫌いではない、そう言ったのはあなたでしたよ。何か、知らないんですか。できることは」
「さてな。ファーサイトの賢者が動いてるって話は聞いたがね。それこそお前、賢者の護衛なんだろ。なんか知らないのか?」
 力なくアケルは首を振った。突然理由もわからずファーサイト賢者団の本拠まで呼び出され、王城へ同行するように命ぜられた自分に、いったいなにがわかるというのだろう。
「賢者たちは、何しにきてるんだろうな」
「僕も、知りません」
「そうか……」
「知りたいですか?」
 いつの間にか視線を落とし、膝の側に咲いていた花を見つめていた。アケルは鋭く視線を上げたことで自分の仕種を知る。
「そりゃ、知りたいさ」
 気負いもせずラウルスは言った。そんな彼を射抜くよう、アケルは見据える。
「だからですか」
「なにがだよ」
「僕に声をかけたのは」
 膝の側で咲いた小さな花を引きちぎる。思い切り握りつぶして投げ捨てた。捨ててから、こんな花園でも王家の庭園の一部であることを思い出したが、アケルは後悔しなかった。それより強い、苛立ち。
「あのなぁ」
「だから、声をかけたんですか。僕から何か聞きだそうという魂胆だったんですね!」
「ちょっと待てって」
 誰が待つものか。アケルはすっくと立ち上がり、後ろも見ずに走り出す。腹が立った。自分ではそう思っている。
 苛ついている。間違いなくそう感じている。だがもしいまのアケルが冷静に己の心の奥を覗けば、違うものが見つかったことだろう。
「こんなもの……」
 捨ててきてしまえばよかった。不意に律儀に握り締めているリュートに視線を落とし、アケルは立ち止まる。
 理由を聞かされず、弾けと命ぜられたリュート。賢者に渡されたリュート。いまのラウルスの話とかかわりがないとはとても思えなかった。
「まさか」
 言葉の上で一蹴しても、予感めいたものは去らない。このリュートが、おそらく飲み込まれつつある海となんらかの関係があるのだ。
「でも」
 なぜ自分なのか。禁断の山の狩人が必要だったならば、自分より適任はいくらでもいる。腕の立つものなど更にいる。楽器を能くするものも、特にリュートが巧いものもいる。
「どうして、僕が?」
 賢者のすることを凡人が理解できるはずもない。それでも問いたい。なぜ自分なのかと。ぎゅっとリュートの首を握り締め、アケルは視線の彼方にあるはずの探花荘を見つめる。
「アケル」
 背後から、呼ばれた。驚いて振り返る。そんな名で呼ぶのは無論、ラウルスしかいない。
「怒るなら怒るで人の話は聞け。俺はお前がどこの誰か、当然賢者とのかかわりも何も知らなかった。お前と話しててはじめてわかった」
「だからなんです!」
「だから、怒るなら理解してから怒れって。お前が何者かも知らないのに、どうやって俺はお前からなにを聞き出そうって言うんだ?」
「あ――」
 信じたわけではなかった。ラウルスのとぼけた口調に真実味はない。ただ、ぽかんとした。嘘のような事実。
 アケルはラウルスが嘘をついていないと、知った。そうあればいいと願いながら信じるのではなく、そうであると知った。
「な?」
 どこをどう追いかけてきたのだろう。今更ながら不思議だった。自分は怒りに任せて無茶苦茶な場所を強引に走ってきたはずだ、とアケルは疑問に思う。
 見れば少しだけラウルスの息が上がっていた。飄々とした態度をとってはいたけれど、思いの外に真剣に自分を捜してくれたのかと思えば、なぜか少し嬉しくなる。
「俺はただ、散歩仲間が欲しかっただけだよ」
 まるで心の隙を狙ったかのようなラウルスの言葉。思わず気を引き締め、アケルは目の前の男を睨む。
 睨んだものの、気が抜けた。どうにも勝手が違ってやりにくい、とアケルは思う。怒りが空回りしている、そうも感じた。
「……散歩仲間ですか。要りませんよ、そんなの」
「俺が欲しいんだって」
「僕は――」
「賢者の護衛って言っても、城中じゃ暇なんだろ? 探花荘には探花荘の衛士がいるしな。暇つぶしの喧嘩相手、欲しくないか?」
 いけ好かない男がにやついていた。アケルは即座に首を振り、背を返して一目散に歩き去る。
 少なくとも本人はそのつもりだった。が、アケルの体か心か、どちらが裏切ったのだろう。気づけば強引な誘いに乗ってやるのだといわんばかりにうなずいていた。




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