安心したのか気が抜けたのか、レイは気を失ったように眠った。体を預けてくるレイの無防備が可愛らしくて、そのまま寝かせておいても、そう思ったもののさすがに思い留まる。 「とは言ってもなぁ」 苦笑を一つ。レイはもたれかかってきているだけで、自分の腕はいまだ縛られたままだ。とんでもないことをしでかしてくれた、とは思っても怒る気になどなれない。完全に自業自得以外の何物でもない。 まずはこの腕をなんとかしなくては、とエドガーは身をよじる。最初ほどきつく縛られていなかったのだろう縄は意外となんとかなりそうだった。 苦闘することしばし。手首の皮が若干剥けはしたものの、ようやく頭上から解放された腕に血が通う。痛い、と振ればなおのこと痺れる。もっとも、その方が早く血が通うだろう。 すやすやと寝息を立てているレイを抱え上げれば、引き抜かれて行く自分のもの。眉根を寄せてしまうのは、満足には至らないせい。達してもなお硬さを保っていたのだから我がことながら呆れてしまう。 「あんたも、だけどな。レイ?」 よくぞこの状態で眠れるものだと笑った。安心するとかしないとか、そういう状況ではない気がする。それだけ、レイの煩悶も深かった、ということなのかもしれなかった。 自分をこの地下室に放り込んでから、レイはどうしていたのだろう。悩んでいたのか。泣いていたのか。怒っていたのか。いずれともわからない自分はやはりどうしようもない男だと思う。 「俺なんかのどこがいいんだ、あんたは」 呟いても返ってくるのは安らかな寝息だけ。小さく笑ってだいぶ痺れも取れた体に活を入れ、レイを抱え上げる。 「マジかよ」 溜息ひとつ。細いとはいえ男の体を抱え上げたまま狭い階段を上るのはできれば勘弁してもらいたい。ファネルは立派だな、思った途端になぜか担いだレイが身じろぐ。 「あんたな――」 脳裏を巡った他愛ない思いにまで嫉妬をするのはやめてほしい。内心で呟いても、自分の顔が笑っているのをエドガーは感じている。いずれ似たもの同士ということかもしれない。ならば、これはこれで安定している、とも言う。それでいいことにする。 なんとか台所に戻ったときには、エドガーであっても息をつく。まだ肩の上、レイが眠っているのだけが救いだった。 「さすがに誰にも見せられねぇぞ、これは」 半裸の男が全裸の男を抱えたまま地下室から上がってくるなど、誰が見ても怪談だ。精神に傷を負わせかねない。エリナードあたりならば大笑いしてくれるだろうが。 「だから、妬くな」 ぴくりと動いたレイの体。変に敏くて笑ってしまう。いまだかつて知らなかったレイだった。あるいは、とエドガーは思う。自分が知ろうとしてこなかったレイだ、と。 レイを寝室に放り込み眠らせる。離れる直前、一瞬だけレイが目を開いた。それにぽん、とエドガーは胸元を叩くだけ。また安心したよう、レイは目を閉じる。 「さすがに体をなんとかしたいぞ」 薬を盛られて地下室行き、その上拘束されたまま番った体はなんだかよくわからないものにべたついている。睡眠薬による異常な発汗と、別の汗。それからレイの。 知らず赤らんでしまった頬をこすりながらエドガーは裏庭へ。ミルテシアのエドガーの生家にあったのと似て非なるもの。あの家には小さな井戸があった。ここには湖から引いているのだという水道がある。蛇口をひねるだけで水が流れ出す、などというのは大変にありがたい。殊にいまは。 「この格好で風呂には行けん」 何事か、と思われてしまうことだろう。それを思って含み笑いをするエドガーはゆったりと体をぬぐっていった。 どうやら投与された睡眠薬は、レイが魔術師からせしめたものらしい。エリナードと思しき筆跡でどれくらいの量を飲めばいいのか記した紙片が一枚、台所にあった。 「魔術師め」 眠りが浅くて、とでも言ってもらってきたのだろうけれど、渡したエリナードに文句を垂れる。こんなものは易々と素人に渡すものではないだろう。が、素人に渡せる程度のもの、であったからこそエドガーはこの時間に起きて活動ができている、とも言う。 降臨祭の昼だった。前夜からしっかり朝まで眠らされたらしい。それを思えばエリナードの調薬の腕のほどが窺われる。褒めたくはなかったが。 窓の外はもうずいぶんと騒がしい。夜になれば一層熱気が増すことだろう。レイは人混みを怖がるけれど、楽しみにしていたらしい祭りだ。それまでには少しは元気になって欲しい。 「ということは、と」 我ながらまめになったものだとエドガーは笑う。あの分では丸々一晩、レイは居間か寝室か、どこかで一人悩み抜いていたのだろう。夕食は共にしたけれど、レイがちゃんと食べていたかどうか記憶が怪しい。 自分も悩んでいたのだ、と言うことはできる。けれど言い訳だろうとエドガーは反省してもいる。守るのなんのと言っていながら、レイが食べていたかどうかも覚えていないなど。 溜息まじり、エドガーは粥を煮ていた。柔らかな麦の粥。たっぷりと干し果物も入れて、乳で煮る。よく覚えているものだな、と思ってしまった。 「あったっけな……」 生活の苦しかった生家で、年に一度降臨祭の晩にだけ食べさせてもらった粥だった。蜂蜜をかけて食べるそれが、どんなに旨かったことか。長じてエドガーは蜂蜜さえ入れなければどこにでもある、入れてすら珍しくはない、しかも普通は朝食だと知ることになるのだけれど。それでもあの日の嬉しさまで薄れるものではない。蜂蜜の買い置きがあったかどうか、確かめようと振り返りかけたエドガーの背後に気配。 「あのなぁ、レイ」 ぷつり、と背中が痛んだ。小さな痛みは何事か、と首だけ振り向ければ置いてあった包丁がない。とんだ早業で包丁を奪われ、背中に突き付けられているらしい。 「――目が覚めたのに、側にいてくれない君が悪い」 「ん? あぁ、そりゃそうか。だからな、あんた。とりあえずそれをどけろって。おはようのキスもできねぇだろうが。振り向けないっての」 「な――」 包丁が遠のいた気配にエドガーは振り返り、丁重にそれを奪取しては置きなおす。それから改めてレイを抱きしめた。 「おはよう。――少しは元気になったか?」 眠るレイの側に熱湯と水を入れた盥を置いておいた。そのせいだろう、レイもさっぱりとした顔をしている。その額にくちづければ、不満そうな眼差し。小さく笑ってエドガーはくちづけをし直す。 「……君は」 「なんだよ?」 「……怒らないのか。怒られても、仕方ないことをしたと思う。――嫌われても」 きゅっと縋りついてくるレイの手。胸元を掴み締めているそれを見て怒れるはずもない。苦笑するエドガーをレイが真っ直ぐと見上げた。 「怒られたのは俺だろ? 怒り返すってのはどうなんだ?」 「でも」 「――怖かったんだよ」 ふい、と顔を背けたエドガーの頬、レイがそっと手を添える。仕種だけは優しかった。けれど有無を言わせず。首を振りつつエドガーはせめて目だけはそらす。 「最初からだ。あんたに惚れてた。だから逃げた。下で言ったよな?」 「……聞いた」 「だろ? こっちは下心だらけだ。あんたが立ち直るまでのなんの言ったってな、離れたくねぇのは俺の方だ。捨てられたくないのは俺だ」 「馬鹿な。だって、僕はずっと――」 「あんたに好かれてるなんてちょっとでも考えられたならな」 「そのくらいは想像してほしかった、せめて」 むっとして見据えてくるレイの表情。豊かなそれにエドガーは目を細める。いままでどれだけレイが自制に次ぐ自制を重ねてきたのか、嫌でもわかってしまった。 「いや、想像はしたさ。というか、妄想?」 実現しないと思っていたからこそ、怖くて。言いにくかったエドガーの心を汲んでくれたらしいレイが、黙って唇を塞いでくれた。 「あのな……その。聞いてもいいか? イメルさんとこ、何しに行ってたんだ?」 いましか聞く機会はない気がした。ずっとはぐらかされ続けていた問い。レイの夜色の目がすっと細められた。 「――まだ、わからないのか、君は。僕は料理を習いに行ってたんだ! おかしいだろう、上達の具合が! 君に、おいしいものを食べさせたくて頑張ってたのに、君は少しも気づいてくれない。はぐらかしたのは……僕だけれど、それだって」 愕然とした。まさかそんな用事だったとは、思ってみたこともない。ならばどんな用事だと思っていたのかと問われてもわからない。きゅっと胸元を握るレイの耳にそっと詫びた。 「鈍くて、悪かったな」 こつりと額が肩先に当てられる。こんな自分のせいで、レイはしなくてもいい悩みを抱えてしまっていた。無言で抱きしめてくるレイの腕。それが緩んでふと見上げてきた。 「君は、あんまりにも鈍い。だから、念のために言っておく」 宣言と言うには拗ねてでもいるようで少し、可愛い。目が笑ってしまったのをレイの眼差しが笑って咎める。 「思い出したくもないことだけれど」 「レイ、待て。思い出したくないなら――」 「それでも君は言わなきゃわかってくれない。聞く耳持ってくれている間に言っておかないと」 子供のよう、唇を尖らせたレイなどはじめて見た。ずいぶんなことを言われているけれど、そこまで言わせた自覚があるエドガーだ。畏まって拝聴した。 「……あの晩、僕は言った気がする」 エドガーの顔が、さっと青ざめる。あの晩、とレイは言った。漠然としすぎているけれど、わからないはずはない。地下室に乗り込み、チャールズに凌辱されているレイを連れて逃げたあの晩。こくり、とレイがうなずいた。 「君にだけは、見られたくなかったと。僕は言ったと思う」 「――聞いた、かも?」 「最低だ、君は。あのな、エドガー。よく考えてほしい。どうして、君にだけは、見られたくなかったんだ、僕は? 君が好きだから、あんな姿を見られたくなかったんだ! その辺、しっかり反省してくれなかったら――」 「どうする?」 「刺す」 「即答するな! 洒落になってねぇよ」 冗談は言っていない、言いながらレイが笑ってもう一度エドガーに抱きつく。こんなに明るく笑う男だったか。思えば思うだけ嬉しくなってくる。 「そうだ、レイ」 ひょい、と自分の腰に手をやればあって当然のものがそこにある。外して渡せば、レイが驚いた顔。突然に短刀を渡されれば驚くか。エドガーはばつが悪くなる。 「やるよ」 「いつでも刺せ、ということか?」 「刺すなよ?」 「さて?」 ふっとレイが笑った。なんだかよくわからない。わからないけれど、今ここでレイと心が重なった。それだけは、わかった。それで、この上なく幸せだった。いままで心に唱えていた充分などとは比べ物にはならないほど。 |