木蔦の家

 降臨祭の晩はお祭り騒ぎがつきもの。ミラとレイは思いをかわしあうことになるのだろうか。そう思ったせいかもしれない、前の晩にきちんと家に帰る気になったのは。
「――おかえり」
 不満そうなレイも、もう見慣れてしまった。エドガーは肩をすくめて答えない。それでも今夜はレイの夕食当番。すでに支度のできている食卓に着けばほっと彼が息をつく。
「……最近は、忙しいのか」
「そりゃ、まぁ」
「――少し、寂しい。いや、君が、その。……何でもない」
 ミラとすごせばいいのではないか。口をつきそうになる言葉にエドガーは強いて笑う。そうすることで誤魔化せるようにと願う。レイはけれどじっとエドガーを見つめたままだった。
 以前と違うな、とどこかぼんやりとエドガーは思う。こんな風な真っ直ぐな目をして見つめてくることがあっただろうか。あるいはそれは、レイが立ち直った、という証なのかもしれない。ならばこれは喜ぶべきこと。
「今夜は、僕も飲みたい気分なんだ。――付き合わないか?」
 ほんのりと微笑んだレイが差し出してきた酒を、エドガーはなんの気なしに受け取った。軽く掲げて戯れに乾杯をする。小さくレイが笑った。

 酷い頭痛で目が覚めた。二日酔いのそれと似ていて違う。頭の中で千人もの小人の鍛冶屋が仕事をしてでもいるような、最低の気分だ。
「なん……」
 呟いた自分の声が頭蓋に反響してエドガーは呻く。レイと飲んだ、それは覚えていた。久しぶりに楽しく会話をした、そんな気もする。いつになくレイが明るかったせいかもしれない。
 ぼんやりと、自分は春になったらこの家を出るのかもしれない、そう思っていたことも思い出した。が、記憶はそこで途切れている、不自然なくらいぷつりと。痛いほど体が冷えていて、一瞬だけ覚醒した。
「どこだ、ここ、は――」
 言いながら辺りを見回し、しかし暗すぎてなにもわからない。自分の寝台にいるのではないことだけは確かな様子。それきりまたエドガーは闇に沈んでいった。
 再び目覚めたときには頭痛もかなり楽になっていた。痛みの気配があるかどうか、という程度にまで治まっている。改めてこれは二日酔いなどではない、と気づく。そして周囲を見回せば、いつ持ち込まれたのだろう、小さな角灯が一つ。おかげでここがどこかわかった。自宅の、地下貯蔵庫だ。
「一服、盛られたか?」
 酒に薬を仕込んだとしたならば、それはレイだろう。これほど強烈な睡眠薬などいったいどこで彼は手に入れたのやら。苦笑が浮かび、頭痛に顔を顰めた。
「いや、それどころじゃねぇな」
 そもそも一服盛られる理由も、こんなところに放り込まれる理由もわからない。さすがに問いただした方がいいだろう、立ち上がりかけたエドガーは舌打ちをする。レイにではなく、己の馬鹿さ加減に。
「そりゃそうか」
 盛ったにしろ放り込んだにしろ、両方ともがレイの仕業であるにしろ、レイにはそれなりに理由があったことだろう。ならば自由の身であるわけもない。頑丈な棚に、これまた頑丈な縄でエドガーは両手を括りつけられていた。見れば足首もご丁寧に縛ってある。
「――情けねぇなぁ」
 現役の戦闘員がこれではもう笑うしかないというもの。ディアナに知られれば一生笑われるに違いない。カレンにだけは知られたくないものだ、とエドガーは思う。
 そんなことでも思っていなければ、混乱して叫びだしそうだった。レイが何を考えているのか、わからない。
「――いや」
 レイがしたことならば、いい。理由を聞けば済むことだ。けれど、レイが万が一にも誰かにやらされているのであったならば。脅されていたら。虐げられていたら。ここはアリルカという不思議の国。タングラス侯爵家ではない。それであったとしても。エドガーの焦燥だけが募っていく。
「さすがに我ながらお人好しだとは思うがな」
 何はともあれ、薬を盛ったのはレイに間違いない。それでも案じてしまう自分がいる。レイは今、どうしているのだろう。いまは何日で、レイはどこにいるのだろう。せめてミラと生きたいがために自分が邪魔になったのではないことだけを祈る。
「さすがにそれは、ない」
 いくらなんでも唐突にこんなことをする男ではない、レイは。言いだしにくかったならばイメルなりエリナードなり、いくらでも彼には手を貸してくれる人がいる。
「……なにが。ないんだ?」
 物音に、さっと緊張した。といっても縛られている身だ、何ができるわけでもない。けれどエドガーの緊張度合いは深くはない。レイの声。ゆっくりと階段を下りてくる彼の足音。破滅に聞こえた。
「とりあえず聞かせろ。薬盛ったのはあんたか? 理由は」
「……話して、どうにかなるのか? ならない。きっとならない。どうにもならない――!」
 ぎょっとするほど窶れた顔をしたレイが角灯の薄い明かりの中に現れる。思わず手を伸ばしそうになったエドガーの背後で棚がきしんだ。
「レイ――」
「あぁ、そうだ。僕だ。それがどうした。君に薬を飲ませたのも、ここに放り込んだのも、縛ったのも僕だ」
「あんた――」
 つ、とレイの頬に涙が伝っていた。それを強引に拳で拭うレイ。手首の銀鎖が頬にこすれて傷を作った。見ていられないのに、どうにもできない。
 エドガーはようやく気づく。なぜレイがここにいる。こんなところに、レイがいられる。ここは貯蔵庫。地下の、貯蔵庫だ。目にするだけで怯えるほど、レイが忌まわしく思っている、地下室だ。
「まず、不満があるならちゃんと聞く。それは約束する。だから、ほどけよ。上行こうぜ。あんた――」
「嫌だ!」
 言うなりレイがエドガーの前、かがみ込む。なにを、と思う間もなかった。縋りついてくるレイの腕。ぎゅっと首を巻かれて苦しいほど。震えるレイが、哀しいほど愛しい。
「レイ――」
「もう嫌だ。――このところ、君はずっと帰ってこない。帰ってきても遅い。僕を避けて、どこかに行って。――もう、嫌だ」
「それは」
「だから、決めた」
 腕が解かれた。目の前で綺麗にレイが笑っていた。涙が残る目をしたまま、幼子のように純に微笑んでいた。
「……もう、誰とも君を会わせない。ここに閉じ込めて、二度と外に出さない」
「おい、レイ。なんで――」
「言ってるじゃないか。――僕はこんなに君が好きなのに、君は少しもわかってくれない。どこかに行って、誰かと会って。僕じゃない人と話をして、笑顔を見せて。――僕のところには帰ってこない」
 だから決めた、もう一度言ってレイは微笑んだ。震える唇が、笑顔を裏切る。本当はこんなことは望んでいないと。チャールズの歪んだ独占欲と同じことをする自分を、その身に同じ血が流れているとまざまざと知ってしまった自分を。それでもレイは笑っていた。うっとりと微笑んで、エドガーの頬に指を滑らせる。軽くくちづけをされて、やっとのことで正気に返る。
「君が嫌がっても、もう知らない。こんなに好きなのに、何度も言おうとしたのに。聞く耳持たなかった君だから」
 ちゅ、と音を立てたくちづけ。戯れめいているのに、震えているレイの唇。抱きしめることもできずエドガーはそれをただ受け取るだけ。だからレイを額でそっと押しやった。嫌だと首を振るのに、笑ってみせる。
 じっと夜色の目を見つめていた。夢でも冗談でもないのだと、見つめていた。己の頭を叩き割りたい。もしそうすることで、すべてを最初からやり直せるのならば。馬鹿な己をエドガーは低く笑った。
 またもレイの頬に涙が伝い、銀鎖の傷に滲んだ血を溶かして赤く染まる。体を伸ばせばぎちりと縛られた腕が痛む。物ともせず、唇で涙を吸った。
「そんなに誰にも会わせたくねぇんだったら好きにしろよ。なんだったらどこにも出て行かないように足でも切るか? くれてやる。誰かと話すのが嫌なら、喉を焼け。耳? いらん。目を潰してくれてもなんの問題もない」
「――馬鹿な」
「俺はどこに行く予定もない。あんたの側にいる。だから、あんたがそうしたいなら、俺の足はあんたのもの。目も耳も、あんたが焼きついてる。他はもう聞こえないし見えない。あんたの気が済むなら、好きにしてかまわない」
 なにを言っているのか、とばかり呆然とレイはエドガーを見ていた。名残の涙がほろりと零れる。それを煩わしそうに払いながらも、まだレイはエドガーに見入ったままだった。
「ただ……腕だけは残しといてくれると嬉しいな」
「――なぜ」
「あんたを抱きしめられなくなるから」
「――どうして!」
「あんたに惚れてるからだ。他に理由なんかあるか。一緒に逃げたのも。ここまで来たのも、守りたいのも、何もかも全部! 惚れた男のためにやったことだ、悪いか!」
「な……」
 薄暗い中でもレイの頬が紅潮していく。それが手に取るようにわかった。見ているこちらが嬉しくなるほどの笑み。先ほどの無垢なのに、少しも嬉しくない笑顔などではなく。
「あー、レイ。とりあえずほどいてくれ。けっこう痛い」
「……エドガー」
「逃げないから。言い逃れでこんなことが言えるほど口のうまい男じゃないのはご存じのとおり」
「……口がうまかったら僕はこんな暴挙に出なかったと思う」
 まったくだ、笑うエドガーをレイは不思議なものでも見るような目をして見つめていた。ほどけば逃げられる、と確信しているかのよう、もう一度縋りついてくる。それから渋々とほどこうと努力するものの、慣れない手で何度も何度も固く縛ったのだろう、レイの指でほどけるようなものではなかった。
「俺の短刀持ってきな。あれだったら簡単に切れるから」
 言ったエドガーの腰をばつが悪そうにレイは探った。常に身から離すことがない短刀。それを取り上げることすらレイはしていなかった。
「笑うとほどいてやらない」
 文句を言いながらレイが縄を切ろうとする。それをエドガーは一度、止めた。じっとレイの夜色の目を覗き込む。
「なぁ、レイ」
「……なんだ」
「喉。掻っ切ってもいいぜ?」
 レイの手の中には、イーサウ産の魔法の短刀がある。こんな縄ですらあっさりと切れるほど鋭い刃が。
「あんたが望むなら、俺の命なんざァくれてやる」
 仰のいて、喉をさらす。薄ら寒くなった。喉に金属の感触。レイの鼓動に合わせるよう、刃はかすかに動いていた。
「……そういうことを、笑って言うな。馬鹿」
 刃は遠のき、ぶつりぶつりと縄が切られる。滞った血が流れはじめ、じんじんと四肢が痛みはじめた。




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