木蔦の家

 それだけならば、逃げはしなかったものを。
 子鹿亭が迎えた客。レイだった。周囲を見回し、ミラに目を留めてはほっと微笑む。そしてエドガーを認めたのだろう、その目が丸くなる。驚きたいのは自分だ、とエドガーは呆然としていた。イメルのところでの用が済んだのは、わかる。ならばイメルは何をしている。送ってくれるはずの彼。レイがこんなところに一人で来ている。よもや店の前で待っている、とも考えにくい。
「レイ――」
 どうしたんだ。まさか自分を探しに来たわけではあるまい。ここにいるだろうとは何かの折に言ったから知ってはいるはずだ。けれど急用などさほどないだろう。そもそもいまのレイは少しも焦っていなかった。
「少し、待っててくれるか?」
 エドガーに言って微笑んで見せるレイ。しかしエドガーは見た。レイの目許が動いたのを。ひくり、と痙攣するようなその動き。目をそむけようとして、そうしてしまってはやましいと認めることになるとばかり耐えた動き。真っ直ぐと見つめてくるからこそ、疑わしいレイの眼差し。
「あぁ、いいよ」
 気にするな、とエドガーは笑って片手を上げる。そうとしかできない自分だった。レイが知られたくないと思うことならば。思った途端、問い詰めたくなる。
「あ、レイさんだ! 待ってたんだよー?」
 ぴょんと飛びあがったミラの嬉しそうな笑顔。すぐ戻るから待ってて、と言って奥に引っ込んでいく。エドガーが何を問う間もなく、本当にすぐ彼女は戻った。レイを、待ちわびていたのかもしれない。あの潤んだ眼差しを再び見たくなくてエドガーは視線を外す。それなのにまた、彼らを見ているのに気づかないまま。
「えへへ。嬉しいな、レイさん」
「僕もだよ。楽しみにしてたんだ。ありがとう」
「ほんと、ほんと? だったら次も絶対、約束だからね?」
「うん、わかってる。約束、だね」
 小さく笑ったレイにミラが何かを押しつける。見たくない。咄嗟に思ったエドガーは目をそらす。だからそれが何かは知らなかった。レイが知らせたいと思うのならば言うだろう。言いたくないのならば詮索するような真似はしない、そう嘯いて、本心は真相など知りたくないだけ。
「エドガー。待たせた。帰ろうか」
 そっと腕にかけてくるレイの手。ミラと話したいのではないか。問おうとした舌は喉に張り付きでもしたかのよう、動かない。
「エドガー?」
 なんでもない、と首を振って立ち上がる。レイの向こうにミラの姿。何も気づいていない彼女は楽しそうに笑っていた。
「今度はいつ来る、レイさん?」
 明るく笑ったミラが何気なくレイの肩に手を添える。一瞬だった。レイが身をすくめたのは。自分の腕に添えられていたレイの手が、ぎゅっと腕を掴んだのを感じる。
「レイ」
 嫉妬ではない。保護だ。何度も心に呟いてエドガーはレイを引き寄せる。そうしようとする。けれと微笑んだレイに止められた。大丈夫、そう笑っているのだろう、たぶん。信じられなかった。何もかもが。
「いつかな。ちょっとわからない。エリナードさんもいまは忙しいし。降臨祭が終わるまで、時間が取れないかな」
「あ、あれだよね! お祭りの企画! ね、ね。エリナードさんがなに考えてるのか、レイさん知ってるんでしょ? 教えて、ね、ね?」
「エリナードさんにね、言われてるんだ。――そう言われたら自分のところに連れて来いって」
「……それって」
「ものすっごい笑顔だったよ、エリナードさん」
「うわぁ……」
 天井を仰いで両手を広げるミラ。溜息をつけばレイが同時に大きく笑う。レイが、楽しく笑っている。それはそれで、いいことだ。彼がこの国に馴染んで、人々に立ち混じっていくだけの勇気を取り戻した。いいことだ、間違いなく。
 喜べないのは、エドガーだけ。
「エドガー、待たせた」
「いや。別にいいぜ。先戻ってるか? なんだったら――」
「あのな、エドガー。なぜ僕がここに来たのか、君はわかっているのか」
「いや、それは、その。ミラに用事が――」
「エドガー?」
 にっこり笑ったレイが戯れめいた拳を突き出す。思いの外に強い拳が腹に命中して、油断していたエドガーは咳き込む羽目になった。
「レイ、痛いだろうが」
「変なことを言う君が悪い!」
「いや。だってな」
「エドガー?」
 また、レイが笑っていた。人目のある時の彼の態度には慣れている。慣れているぶん、二人きりになど戻りたくない。反面このままでもつらいだけ。
「やっだ、こんなとこでいちゃいちゃして。妬いていーい?」
 ミラの戯言にぱっと頬を染めたレイ。慌てて振り返ったのは、何を言うつもりだったのだろう。聞きたくなかったエドガーはにやりと笑ってレイを引き寄せる。
「おぉ、妬けよ。お前なんざに渡すもんかよ」
 ふん、と鼻を鳴らせば振り向くレイ。戸惑った夜色の眼差しなど見たくない。だからそれとなく目をそらす。そっとレイが唇を噛んだのが視界の端に見えていた。
 それだけなら、逃げはしなかったものを。
 ミラとの一件を、レイは頑なに語ろうとしなかった。イメルのこともそうなのだから、エドガーとしては問い詰める無駄をすでに学んでもいる。そもそも、問い詰めたくなどない。このぬるま湯のような、嘘の時間までも失いたくはない。
 ミラからレイは何を受け取ったのだろう。ミラがあれほどまでも嬉しそうだった理由。ミラの手を、レイが拒絶しなかった理由。いずれも一つだ、とエドガーは思う。
「……降臨祭、か」
 この国では子供たちに魔術師たちからの心尽くし、魔法の一幕が贈られる、と聞く。歌があり、花火があり、それはそれは見事だと聞く。エリナードもいま、その準備で忙しいのだろう。レイもまた、日常雑務を彼に代わって請け負っているため、忙しい。
「なにか」
 贈ってやれればな、とエドガーは思う。否、思っていた。ネシアの町で。レイに土産、と言って買ってきたあの紙束。本当ならば降臨祭の贈り物、と言って渡したかった。妙に勘繰られるのが怖くて、やめてしまった。
 正解だった、といまになってエドガーは思う。レイが眠ったあとの家は静かだった。ミラの件があって以来、エドガーは夜中に起き出すことが多くなった。むしろ、眠りにくくなった、の方が正しい。レイがそれでも気にするといけないから、彼が眠ってから、居間にやってくる。
「気にしてもらえないってのも、寂しいもんだしな」
 自嘲して呟いては息を吸い込む。肌からはまだ立ち上るレイの匂い。ミラとはどういう仲なんだ。本当は彼女と。問いたくて、問えなくて。それでもまだ、どうしてだろう。身を委ねてくれるレイ。
「信じるも、信じないもない」
 ファネルに以前言われた言葉が蘇り、脳裏を漂っては遠くなっていく。レイとはただ、体の関係があるだけ。レイに親しい人間がいる、それを許せなかったチャールズのせいでタングラス侯爵邸を逃げ出す羽目になった。あれを見てしまってレイを放置などできなかった。一緒に逃げて、逃げて、逃げて、ここまで来た。ただ、それだけだ。
「相性がいいってのがまた忌々しい」
 肌は合う。比喩表現ではない方で、確かに合う。けれど、それだけだ、たぶん。レイは自立できるようになれば、恋もするだろう。あのような境遇にあった彼だ、恋をするのは同性ではないだろう。エドガーは思う。だから、自分ではない。どうあっても、自分だけは違う。ただずるずると、ここまで来た。ついて来てしまったのか、強引に守るなどとほざいたせいか。レイが受け入れていてくれたからこそ。
「俺は――」
 出て行った方が、いいか。寝室に向けてそっと呟く。眠るレイがもし、出て行ってほしいと答えたならば自分はどうするのだろう。誇り高く出て行くか。それとも泣いて縋るか。少しもわからなかった。
 さすがにまだ引越し祝いに、ともらった酒があった。うちは酒屋か、と笑うほどあったのが、それでもずいぶん減った。酒量が増えているせいだったけれど、レイは気づいていない。地下の貯蔵庫から出してくるのも管理をしているのもエドガーだった。
 もう少し飲むか、と空になった瓶を振ってみる。考えるふりをしているだけで、すでに体は立ち上がっている。そんな自分に小さく笑い、エドガーは貯蔵庫へ向かおうとした。
「ん――?」
 ふと台所で白いものに目が留まる。薄暗いからこそ、妙に目立った。何か、と思えばそれはあの紙だった。レイが何かを書いて、そして隠そうとしたのだろう、食器棚の引き出しから少しばかりはみ出していた。
「見るなよ、俺」
 言いながら手は出ている。飲みすぎかもしれない。レイは眠っている。このまま戻しておけばたぶん、気づくこともない。盗み見にばつが悪くなりながらもエドガーは引き出しを引いた。
 血の気が引く音、というものが聞こえるとは思ったこともなかった。エドガーは薄暗い中、真っ青になる。
「……レイ」
 エドガーが贈った綺麗なぼかし模様の紙に丁寧に筆写されていた。レイの筆跡は知っている。タングラス邸での仕事の関係でよく目にしていた。けれどそれよりずっと美しい。それはきっと、書体に凝っているからとか、文頭の飾り文字だとか、そんなことではきっとない。レイの、思いのこめられた手蹟。数々の、恋愛詩。
「写したかったのは、こういうもんなのか」
 似合わないなどとは言わない。微笑ましいような、無垢な詩。胸をかきむしりたくなるような、切ない詩。どれもこれもがレイの心のように思えてしまう。
「これを……贈りたい相手は、誰なんだ」
 レイ自身の楽しみとして筆写したとは、不思議と思わなかった。彼が自分のためにではなく、誰かに伝えたいがために写した、それをエドガーは疑えなかった。
「ミラ、か」
 子鹿亭での彼と彼女を思い出す。レイの方がミラよりはずっと年上だ。けれどレイの時間は止まっていたようなもの。チャールズによって、歪められ、捩じられ撓められたレイの人生。ならばミラのような明るく大らかな少女は相応しいのかもしれない。レイに笑顔を、本物の笑顔を取り戻し、レイの本物の恋人になれるのは。
「俺じゃない」
 呟いて、エドガーは紙片に目を落とす。レイの思いの欠片。ゆっくりと読み下し、大切なそれを引き出しに戻す。
 以来、エドガーは毎日遊び歩いていた。子鹿亭から足は遠のいている。食事時に戻らないことも多くなっていた。




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