ようやくレイを離したのはどれほど後のことだったか。エドガーは内心では渋々と、けれど見た目にはさりげなく彼を引き離す。 「……エドガー」 しっとりとした眼差しが見上げてきた。そんな目で見ないでほしい。どうにかなりそうだった。そして、どうにかなってしまうことこそを、エドガーは恐れる。 「こんなとこであんた――」 「だから、君を」 「待っててくれたってのは聞いた。そうじゃなくてな」 苦笑してそっと額にくちづければ、むっとしたレイがやはり、見上げてくる。それにもう一度苦笑し、軽くくちづければ漏れだす吐息。エドガーは聞こえなかったふりをして話を続けた。 「――大丈夫だったか、レイ? こんなとこに、一人で。怖かっただろうに」 それでもなお、待つ気になってくれたレイの気持ちがわからない。不安だったのだろうか、きっとたぶん、そうに違いない。それでもなお、不可解。不安と言うならば彼は、一人で誰かに会う可能性の方をより、不安に思うはず。 「……確かに。怖かったよ、エドガー」 きゅっと縋りついてきた手指。まだ震えていた。どれほど緊張していたのか。それでも待っていたレイ。 「ただいま」 繰り返してエドガーは彼を抱きしめる。そしてレイが憩うより先に離した。エドガーの視界の端に、軽く唇を噛んだレイがいる。何も見なかったことにしたい。レイの仕種が、表情の一つ一つが、怖い。誤解をしてしまいそうで、怖くてたまらない。 「――でも、待っていたかったんだ。君が戻るのを、一番に」 迎えたかった。レイはぽつりと呟く。エドガーは自分が軽やかにありがとさん、などと言うの聞いていた。どこか自分の心が遠くに行ってしまったような、不思議な感覚。それだけレイが怖い。レイに思われているのかもしれないと思ってしまうことが怖い。 「行こうぜ」 「どこに?」 帰るのではないのか、とのあからさまな不機嫌。レイがこんな顔をするようになった、と言えばエイメもカレンも喜ぶだろうな、ぼんやりとエドガーは思う。 「イメルさんとこ寄らねぇと。あんたを頼んだのは俺だし」 言ってエドガーはふとレイの顔を覗いてしまった。よもや、と思うがレイは一人で自宅にいたのかと。それが顔に出ていたのだろう、レイは黙って首を振る。少しばかり悔しそうだった。 「……君は、ああやって僕を預けて行ったけれど。――本当は、とても悔しい」 「いや……それは、その」 「わかってる。君が、僕を心配してくれているのは、わかっている。それでも……一人で君を待っていることもできないなんて。それが」 悔しい。零れた言葉が森の大地に沈み込んでいく。エドガーとレイ、二人の足が湿った木の葉を踏んで行く。ところどころ、何度か降った雪がもう解けもせずに積もっていた。 「いつかは、あんただって一人で平気になるさ。何も無理する必要はない。言ったよな?」 「……僕が言っているのはそういうことじゃ――いや、なんでもない。いい。忘れてくれてかまわない」 それでは覚えていてほしいようだ、エドガーは思う。言葉の先を推測してほしいようだ。そうも思う。けれどどうあっても、できなかった。あまりにも自分に都合がいい解釈しかできそうにない自分。 レイはエドガーが帰ってきた、それに安堵でもしているのだろうか。軽く腕を絡めたまま歩く彼は無言ながら静かだった。もの言いたげでもなく、先ほど言葉を止めたのすら嘘のよう。エドガーは片腕に彼のぬくもりを感じつつ、これでいい。これで充分。何度となく心に呟く。 「イメルさん、いますかね」 結局それからさして会話もないままにイメルの家。ちらりとレイを見やれば、なぜだろう、むっとしてそっぽを向くのは。また機嫌を損ねたらしいけれど、あてになどならない。ここにはすでに他人の目がある。 「あいよ、いるよー」 ひょい、と扉が開いてにこやかなイメルが現れる。が、驚いたことに彼は頬と言わず袖から覗いている腕と言わず傷だらけだった。 「イメルさん、それ」 「あ、これ? んー、ちょっと魔法で事故っちゃってさー。いやいや、俺じゃない俺じゃない。弟子がね。やらかして。その後始末でこのザマだよ。もうエリナードにさんざん馬鹿にされてさー」 入って入って、と笑うイメルにエドガーは苦笑する。それほど重傷ではないらしいけれど、怪我人のところに長居するつもりはない。 「いや、これ。もらってください。レイを預かってもらったお礼って言ったらあれですけど」 「やだなぁ。別に気にしなくっていいのに。俺に使う金があったら貯めときなよ? 次からはそうするんだよ、いいね?」 とはいえ今回はありがたくもらうね。イメルは微笑んでそう言う。せっかくの心遣いだから、と喜んでくれるイメルにエドガーも胸にぬくもりを覚える。 「……レイ。あのな、痛いから」 「痛いように踏んだ」 「だよな」 小さな溜息と共に言ってエドガーは爪先を振る。レイが思い切りよく踏みつけてくれた爪先はまだ痺れていた。イメルがこれでもかとばかり大笑いしているのに、不思議と帰ってきた、そんな気になるのがおかしなものだった。 「へぇ、君みたいなって言ったらあれだけどさ。君みたいな剣の使い手が文具屋によく入れたね? 居心地悪かったんじゃないの」 土産をがさがさと音を立てて開けていたイメルが喜びの声を上げる。中身は単純な紙束だった。魔術師に紙と筆はつきものだと傭兵生活の長いエドガーは知っている。高価なものではなかったけれど、あって無駄になるものではないだけに喜んでもらえるだろう。そう思って買ってきたのが功を奏してエドガーはほっと息をついていた。 喜ぶイメルはもう一度次は要らないよ、と釘を刺して笑う。それは今後も頼っていいとの証。ありがたく頭を下げてエドガーはイメルの家を後にする。 「レイ?」 「なんだ」 「いや。なんか、機嫌悪いなと思ってな」 聞いていいことなのかどうか。ただここはまだ人目のある町中だ。嫌ならレイは戯言でもほざいてはぐらかすだろう。 「……羨ましかっただけだ。イメルさんが」 「はい!?」 「なんでもない! 帰る!」 一人さっさと歩くくせ、二三歩先でぴたりと足が止まってしまう。人通りがある場所はやはり、レイにとっては恐怖の塊。ずいぶん慣れはしてもまだ、レイは他人が怖い。そのレイが一人で待っていてくれた事実。意味もなにもどうでもいい。ただその事実だけを心の深くに染み込ませ、エドガーは笑ってレイに追いついた。 十二日もの間留守にしていた家。アリルカという国に来てからも、この家に住みはじめてからもそう時間が経っているわけでもない。それでもここは自分の家、あるいは自分とレイの家。そんな風に思うエドガーは内心でそっと微笑む。家の中は留守にしていたにもかかわらず、綺麗なものだった。人がいない家というのはすぐに埃がたまり黴の臭いがしだすもの。それがまったくない。 「……日に一度は帰ってきて、風を入れていたから」 「まめなやつだな。ほっといてもいいだろうに」 「……君が帰ってきて、黴臭い家は嫌だろう、と思った」 言い捨ててレイは台所に立つ。一息入れたいだろうから茶でも淹れてやろう。そんな彼の仕種にエドガーは目を細める。彼が背を向けているからこそ、じっとその背を見つめていた。ふと顔を顰める。少し、痩せた気がした。 「レイ。痩せたか?」 思わず口をついてしまってから臍を噛む。これでは見つめていたのに気づかれるとばかり。が、レイは無言のまま振り返る。その夜色の目に険がある。 「抱きしめておいて気がつかなかった君は、少しどうかと思う」 「いや、それは。あー、まぁ。やっと帰ってこれて嬉しかったからってことで」 茶化して頭を抱えて見せる。レイは誤魔化されてはくれなかったようだった。ふん、と鼻を鳴らす小さな音。それからことりと茶器を置くレイ。合わせてエドガーは鞍袋を引きよせる。 「ほれ、土産」 ひょい、と差し出したものにレイの目が丸くなった。驚く彼の手を引いて隣に座らせる。レイは手渡されたものを抱え、言葉もなかった。 「これ――」 レイが胸に抱いたもの。持ち重りのする板だった。正確には、板に挟んだものだった。いまだ包み紙すら破っていないレイだったけれど。 「開けろって。ぐだぐだ言うより早いだろうが」 「それは、そうだけれど。でも――」 言いながら、レイの指が丁寧に包み紙をはがしていく。自分ならばああはいかない、そうエドガーが思うほど慎重だった、レイは。それから中の板に目を留めて再び絶句する。 「あのな、中をちゃんと見てから驚けよ。そこで止まられたら俺はどきどきするばっかりだろうが」 なんなら自分が開けようかと手を出すエドガーからレイは必死に逃れた。その顔の真剣さに笑いだせば、レイの目も和んでいく。ゆっくりと板を外し、中から現れたものにレイはうつむいた。 「あー、その。気に入らなかったか?」 何も言わずにじっとしているレイだからこそ、エドガーは不安になってしまう。土産は、紙束だった。イメルと、それは同じだ。というより、レイの土産を買ったついでにイメルへの礼物を思い出して求めてきた。 「君は……」 レイの指が、紙に触れる寸前で止まる。汚してしまうのを恐れるよう。それでも嬉しくて触れてみたい、そんな彼の仕種にエドガーは心の中でだけ、歓喜に震える。 レイへの土産は白い紙ではなく、春のような黄色を裾濃に染めた優美なもの。いつか自分の好きな文章を筆写したいと言っていた彼だから。 「そうたいしたもんでもないからな。夢への練習に、なんか書いてみたらいいだろ?」 「君は……覚えていてくれたんだな」 「そりゃ。まぁ。そんなに変だったかな?」 変だろうとエドガーは自覚がある。他愛ない雑談でしかなかったのだから、夢の話は。それでもレイは嬉しそうに微笑んだ。ことりと肩先に預けてくる頭。エドガーはそっとレイの髪に頬寄せる。本物の恋人同士のように。違うとわかっていても。いまだけは、レイも許してくれる。そんな気がして。 |