勘違いをするのが怖かった。 その日以来、レイは以前より一層エドガーの側にいたがるようになった。家に帰ってからも傍らから離れず、今日は何をしたと話す。君は何をしていたのか、と聞きたがる。その間もずっと腕に腕が絡んだまま。寄り添って、体を預け。それなのに、ほんのわずかな緊張。改めて抱き寄せればほっとつく息。 一歩一歩とレイが立ち直りつつあるのだとエドガーは思う。それはそれで素晴らしいことだと思う。歓迎するべきことであって、厭うようなことではない。事実レイが笑みを見せればそれは充分すぎるほどエドガーにとっても嬉しい。 けれど。変わって行くレイが、怖い。いままでならば二人きりで家にいるときには少しばかり距離があった。うつむきがちで口ごもりがちなレイだった。それ自体はさほど変わってはいない。けれど完全に距離感が違う。心の距離が、近くなっている。否、レイが近づこうとしている。 それが、怖い。レイに慕われるのはたぶん、喜ぶべきことだとは思う。それを否定はしない。けれど、それ以上を望むのが、万が一にも愛されているなど勘違いするのが、怖い。口を滑らせそうな自分が一番、怖い。 レイがあるいは自分を慕いはじめたというのならば、それはここまで逃亡して生活してきた、その時間にすぎないだろうとエドガーは思っている。二人でここまで乗り越えてきた――と言うほどのことではなかったとエドガー自身は思うけれど――その時間がレイに変化をもたらしたのだろう。エドガー自身、幸運の黒猫隊で生死を共にした戦友たちとは遠く離れた今でも深い絆を感じる。それに近いものではないか、とエドガーは思っている。 思っているからこそ、勘違いはしたくない。決してしたくない。レイはただここまで共に来た男に親しみを覚えているのであって、エドガー・モーガンという男を愛したわけではない。そう思う。 そのせいかどうか。以前は訓練後に迎えに行っていたものだけれど、エドガーは少し遅れるようになった。焦れるのか飽きるのか、だからレイから訓練場に来る。いいことだ、エドガーは思っていた。少しでも一人で行動できる範囲が広がるのは、決して悪いことではない。そのぶん、自分がいなくては、という誇りめいたものも砕けるのだけれど。レイを思うのならばそれは歓迎すべきこと。 「エドガー。迎えに来た」 ふ、と笑みを浮かべるレイ。小走りに走り寄ってきてはそっと腕を取る。そして見上げてくる夜色の眼差し。家の中とは違うレイの態度ももう慣れた。 「おう、悪い――」 言いかけたエドガーが振り返る。向こうから呼ばれた気がした。案の定、呼んでいる当人がゆったりと長い足を進めてくる。相変わらず優雅だ、とエドガーは思った。 「――痛いからな、レイ?」 思い切り踏みつけられた爪先がじんじんと痺れる。それもエドガーにとっては甘い痛み。苦笑してレイを抱き寄せれば、そっぽを向いたままむくれる彼。 「あら、邪魔したみたいね。でも悪いけど、用があるのよ。ちょっといいかしら、レイ君?」 「――とっても邪魔ですが、あなたなら仕方ないので」 「感謝するわ」 笑いながら言い合うレイとディアナに、俺の意志はどこにある、など呟いてみはするけれど無駄なこと。すでにアリルカでは日常の景色となりつつあるおかげでそのあたりにいる戦闘班員の誰も気に留めもしていない。 「エディ。ちょっと人手が足らないの」 「ということは?」 「そろそろ雪が深くなるわ」 つい、とディアナが周囲を見回す。初雪が降ったのはすでに十日も前のこと。レイと二人、窓越しに雪景色を眺めた夜を思い出す。 「ちょっと、エディ? 思い出し笑いはよしてちょうだいな。気色悪いから」 「そんな顔してねぇわ!」 「してたわよ、思いっきり。それでね――」 「ちょい待ち、ディアナ。雪が深くなるって……」 くつくつと笑うレイはたぶん、あの晩のことを思い出していたのだろう、エドガー同様。二人きりで過ごした甘ったるい夜のこと。誘い方がわからない、どうしていいかわからない、そう言ったレイだった。察するように努力する、そう言ったエドガーだった。どちらからともなく寝台に倒れ込んだ晩。 「エディ? またにやけてるわよ?」 悪戯に睨んでくるディアナに天を仰ぐ。こらえきれなかったよう、レイが吹き出していた。思わずその頭をこつり、と叩く。小さな笑い声が傍らから。仕方ない二人だ、とばかりディアナが笑った。 「だからね、エディ。ここはリオンの杖の結界内だからかしらね。その辺は私にもわからないけど。外よりずっと雪が浅いのよ」 「はい?」 「積もりにくいのか降りにくいのか、そんなことは知らない。知りたかったらイメルかエリナードあたりに聞いてちょうだい。私は武骨な剣の使い手に過ぎないんだから」 「あなたはとても武骨には見えないと思う。ディアナ」 真面目なレイの言葉にディアナがにこやかに礼を言っていた。面白くないのはエドガーだ。レイがディアナと、とは考えにくいことではあるけれど、近づくものみな許さない、そんな風に思いたくはある。とてもそんなことができる立場ではなかったけれど。 「あー、とりあえず外は雪が深くなる。それで?」 二人がまだ言葉を交わそうとするのに咄嗟に介入した。馬鹿らしいとばかり笑うディアナ。レイの顔は、見なかった。呆れられるのが、怖い。 「それだけわかってればあとは簡単でしょ。人手が足らないって言ってるじゃない」 「つまり。俺も外に出ろ、と」 そういうことだ、とディアナがうなずいた。それから申し訳なさそうにレイを見つめる。そっと覗き込んだレイがエドガーの視線に応ずるよう、顔を上げる。真っ青だった。 「ディアナ――」 「いいんだ、エドガー。僕なら大丈夫だ」 「でも」 「……少し、驚いただけだ。いつまでも君の行動を束縛しているばかりでは、申し訳が立たないし。慣れるべきなのは、僕だと思う」 「俺は――」 「……ちゃんと」 「うん?」 「……ちゃんと、帰ってきてくれるなら。それで、いい。僕は、大丈夫だ」 きゅっと縋りついてくる細い指先。胸が詰まって言葉が出ない。さすがにディアナも黙って見守ってくれていた。じっとレイを見つめ、抱きしめ。そしてエドガーはディアナを見やる。 「わかった。俺も戦闘班の一員だ。働かせてもらうよ」 この国にいる限り、国のために働くのは当たり前のこと。ここに住み暮らす人たち皆でこの国を守っているのだから、ただ住みただ暮らしはできない。そこまで甘えられるほど破廉恥ではない。 「感謝するわ、エディ。レイ君」 「よしてくれ。俺の役目だってだけだ。いままで我が儘聞いてもらってたんだからな、それだけでもこっちはありがたかったよ」 レイが落ち着くまで隊商の護衛は免除してくれ。そう言っていたエドガーの言葉をここまで守ってくれたディアナ。戦闘班員の誰もそれを責めなかった。みなが、レイを見守ってくれていた。それがありがたいより、少し寂しい。レイを守れるのは自分一人ではなかった、その思いが。 「急で悪いんだけど、夕方には出るわ。急ぎの護衛仕事なのよ」 ディアナ自身も仕事があるのだろう、もう一度ごめん、と言って隊商の行き先と集合場所を伝えたあと去って行った。足早加減にディアナの多忙具合を思う。 だからこそ自分に話がまわってくることになったわけだ。エドガーは納得して、しばし考えに耽る。じっと見つめられたレイが居心地悪そうに身じろいだ。 「――あんたは平気だと思うし、実際そう言うだろ?」 「なにがだ」 「ネシア行きの隊商の護衛って言ってただろ、ディアナ」 「それが――」 訓練場の片隅だった、まだ。エドガーは腕をほどいて歩きはじめる。その腕にレイが縋りついた。それこそを、待っていたのかもしれない。 「行って帰って十日だな。それほど離れた町じゃないとはいえ、向こうで商売するんだから、待ち時間もある」 十日。聞いた途端にレイの体が強張った。痛みを感じるほど掴まれる腕。エドガーは体を傾けてレイの頭に頬を寄せる。そっと漆黒の髪にくちづければ嫌がるよう首を振る。 「エドガー……」 不安そうな眼差しが見上げてきた。縋りつく腕をほどいて抱き寄せる。肩を抱いたまま歩けば、うつむくレイ。それでも果敢に大丈夫、そう呟いた。 「あんたは一人でなんとかできるかもしれない。大丈夫かもしれない。仕事の行き帰りはまぁ、ファネルさんにでも頼めばいいかとも思う」 「そう、だな。頼まれてはくれると思う」 「普段ならな」 「あ――」 エドガーの苦笑にレイが声を上げた。レイという一人では身動きのできない男がいる自分ですら駆り出される事態だ。たとえエリナードという自力で移動ができない男の伴侶だとしてもファネルが暇にしているはずはない。 「だからな、レイ。ちょっと他にあてを考えてる」 言っているうちに、エドガーの足が進む方角。それでレイにも見当がついただろう。ますますうつむいてはエドガーの胸元にすり寄るよう。それでもちゃんと歩いているあたりにエドガーは苦笑のような、甘いような思いを抱く。 「ごめんください。エディです。イメルさん、いますかね」 気軽に扉を開けながらなのは、二日に一度レイを送ってくるから。いい加減イメルの家にも慣れている。もちろん当人にも。 ひょい、と顔を出した魔術師にエドガーは事情を話した。イメルは当然にしてディアナの、と言うより戦闘班の事情を知っていたのだろう、なるほどとうなずく。 「それで俺になんか頼みがあるって顔だけど?」 「レイを預かってほしいんですよ、俺が戻るまで。レイは一人で大丈夫だとは言うけど」 「あぁ、まぁ。心配、だよね? でも俺に預けていいの? そっちは心配しないわけ?」 二日に一度レイがこの家で何をしているのか、いまだエドガーは話してもらえない。にやりと笑うイメルに顔色を変えたのはレイの方。 「心配? しませんよ、そんなの。レイの心がどこにあるか、俺はちゃんと心得てますからね」 にやりと笑って見せ、レイをそっと離した。イメルに向かって押しやるよう背を押せば、心許なさそうな顔をしたレイが振り返る。唇を噛んでいたのだろう、ほんのりと赤かった。 「じゃ、頼みます。行ってくるな、レイ」 片手を上げて去って行くエドガー。レイの見送りの言葉はなかった。あるいは、聞こえなかった、エドガーには。 ――そんなことを言って。少しも君は振り返ってくれない。 そう呟いたレイの言葉はエドガーの背に届かなかった。 |