木蔦の家

 口移しの果実。噛みしめれば蜜があふれ出す。レイの舌先に乗せれば、それをも彼は絡めとる。小さな吐息。満ち足りたような煽るような。
「ん……」
 そっと離れたレイが蜜に指先を浸す。そして唇にと塗り付ける。とろとろと蜜に光るレイの唇。普段の血の気の薄さが嘘のよう、赤かった。にやりと笑ってエドガーはその指を含んだ。まだ蜜に塗れた指を口にしたままレイを見やれば、仄かに顔をそむける。わずかに赤くなったレイの頬。
「レイ」
 呼べばこちらを向いて唇を重ねてきた。それに少しばかりエドガーは驚く。自分からくちづけようと思っていたのに、この積極さ。嫌ではなかったが、違和感がないわけでもない。
「エドガー。いま、何を考えた?」
 すぐさまそれとレイに気づかれた。こうして抱き合っていては当然かもしれない。それでも自分にはレイの考えていることはわからない、そんな自嘲を内心に押し込めてエドガーは彼を見つめる。
「……なんか」
「なんだ」
 こうして畳みかけてくるのも珍しかった。じっと見つめれば、ようやく彼は目をそらす。きゅっと噛んだ唇が、赤さを透かして噛み破ってしまったのではないかと案じられるほど。
「なんか、無理してないか、あんた?」
 なにをどう無理したらこんな振る舞いになるのか見当もつかなかったけれど、レイが無理をしているような気だけは漠然とする。そう言ったエドガーにレイは今度こそはっきりと唇を噛む。たしなめるようそこにくちづければ、小さな吐息。
「……君は、僕が欲しくはないか?」
「なにを急に。欲しいからこうやっていちゃついてるんじゃないのか?」
「からかうな。僕は……真面目なんだ」
 言いながらレイはエドガーの袖口に縋った。体を預けることもやめてしまって、ただ指先だけが。エドガーは黙って彼を抱き寄せる。一瞬の抵抗。すぐにやんだ。
「そりゃ、……まぁ。欲しいよ? 体の相性はいいしな」
 いままでこうしてやってきたではないか。そんな思いを透かせて見せるエドガーにレイは無言。ただどこかを見ていた。どこでもないどこか。あるいは過去。
「……僕は、君に、その気になって欲しくて。だから」
 無理をしているのはそれが理由だ、とレイにしてははっきり言った。驚くエドガーを彼は見上げる。揺れる夜色の眼差し。あまりにも真摯で目をそらすこともできなかった。
「――こうやって、誘うものだと、僕は。だから」
 咄嗟のことだった、レイの腕を掴んだのは。あまりに強く掴みすぎたのだろう、レイが顔を顰めてそれと知る。慌てて放せば、頼りなく笑ったレイ。泣きたくて泣けない笑顔というものをはじめて見た気がした。
「僕は……チャールズ卿に」
「言うな、レイ」
「でも――」
「あのな、いまここにいるのは俺だ。他の誰でもない。あんたが欲しい気分になったんだったら、俺はいつでも歓迎だ。だからな……そんな無理しなくていいんだ。わかるか」
「……わかりたいとは思う。思うけれど、……どうやって誘うのか――今更だけれど僕には――わからない」
 ここまで二人で来た。タングラス侯爵邸から逃亡し、イーサウは狼の巣を経てアリルカまで。こうしてきたからかもしれない。今になって、レイはどうふるまうのが正しいのかわからない、そんなことを言う。
「たとえば。いまのって好きでやってたか?」
 唇に蜜を塗り、わざと男に舐めとらせるような真似を。そんな風にレイを仕込んだチャールズが憎くてたまらない。震える拳をエドガーはそっと背後にまわして隠した。
「……好き嫌いで言うなら。好きではない……と思う」
「だったら、どうしたい?」
「それがわかれば――。ただ……君に欲しがっては、欲しいと……その、思う」
 ふっと顔を伏せたレイにエドガーは何を言うべきかもわからなくなる。口を開けば下手なことを口走りそうな自分がいた。だからただぎゅっと抱く。悪戯のよう、レイが痛がるまで。
「エドガー、痛い!」
「いや、悪い。可愛いなぁ、と思ってな」
「誰がだ! 僕は……そんな。可愛い……なんて。確かに僕は……君のような男らしい男ではないとは思う。でも」
「あぁ、別に女っぽくって可愛いとかは言ってないぜ?」
「だったら」
「深い意味はない、かな。あんたが可愛いなって思っただけ」
 さらりと笑って誤魔化した。できれば誤魔化されてほしいと思う。結果はどうだったのか、レイの溜息が聞こえた。
「……別に……それなら、それで。でも」
「うん?」
「君の感性は変わっているな、と思った。それだけだ」
 思わず吹き出したエドガーをレイはそっと睨んでくる。その目がほんのりと笑っていて、レイの傷がまた少し、浅くなった気がした。それで充分。何度となく呟くエドガーの内心での言葉はすでに祈り。
「あんたがその気になったときには、率直に言ってくれていいぜ、別に」
「それはそれで、君がそういう趣味ならばかまわないけれど……あまりにも色気がない、と思う」
「まぁ、そりゃそうだけどな。無理する姿は見たくない。それだけはわかってほしいかな」
「……その気が失せるというか、萎えるというか。そういうものか」
「違うっての。あのなぁ……レイ」
 なにをどう言ったものだろうか。愛する人の無惨な姿は見たくない。それだけのことなのだけれど、だからこそレイには言えない。少しばかり困ってしまう。その自分をただひたすらに見つめているレイの視線。更に困惑は深まった。
「あんたが好きでやってることだったら俺も楽しむさ、そりゃな。こういうのは合意の上でやりゃ遊びで済む話だけどな。どっちかが無理してんだったら。そりゃ違うだろ。抱き合って、一緒に楽しむから、遊びなんだろ? なんであんただけ無理するよ? そういうのは、正直言って好みじゃない」
 遊び遊びと連発すればするだけ、心の中がささくれる。それでもそうとしか言えないとも思う。レイがじっと見つめてくれば来るぶん、怖くなる。
 このままずっと、こうした曖昧なままの形で過ごしたい。そうも思ってしまう。ありえない、否定はするけれど最近のレイを見ていると可能性がないわけでもない気がしてしまって、戸惑う。
 アリルカに落ち着いたせいだろうか。このところレイはずいぶんと積極的になった気がしている。他人に対してではなく、寝室のことに対して。あからさまに誘うような真似もするし、媚態を見せつけるようなこともする。
 それがエドガーは怖かった。レイから離れられなくなる恐怖、ではなくレイを手放せなくなる恐怖にあるいは近い。思われているはずはないのに、彼の心が自分にあるような錯覚をするのが一番怖い。何かの弾みで思いを洩らしてしまいそうな、その恐怖。
「遊びってのは、一生懸命に楽しむから遊びなんだろ? あんたが楽しんでこそ、だと思うけどな」
「……君は」
「俺は根が淫蕩にできてんだ。誘われりゃ嬉しいし喜んでいつでも乗るぜ?」
 にやりと笑ってあえて野卑な顔を作って見せる。レイは乗っては来なかった。いつもならば困ったような、それでも少しは安堵したような顔で笑うのに。
「まぁ、あれだ。あんたがどんな風に俺を誘いたいのか考えつくまでは、そうだな。できるだけ察するようにするさ。それでどうだ?」
 顔を覗き込んで目を合わせる。夜色の目に吸い込まれ、飲み込まれてしまいたい。そんなどうしようもない馬鹿なことを考えている自分だとレイは知らない。せめて馬鹿だとは思われたくない。せめて、頼れる男だとは思っていてほしい。
「……君は、もてるからな」
 静かな吐息。溜息にも似た、それより深いレイの息。何を言っているのかわからなくてエドガーは再びレイを覗き込む。きっと鋭い眼差しがエドガーを射抜いた。
「誘われれば、ふらふらと誰にでもついて行くんじゃないのか」
 さすがにむっとした。そんな生真面目な顔でそこまでのことを言われる覚えはない。が、心の奥深い場所では歓喜に震える。レイが独占欲にも似たものを抱えていると知って。
「どうしてそうなるよ?」
「……だって。君は」
「あんたがどう思ってるのか知らないけど、俺はそこまでもてないっつーの」
「だって。エイメだって、言ってたじゃないか。タスだってユーノだって。どこに行っても、君はやっぱり、もてている。――少なくとも、僕はそう思う」
 きゅっと縋ってきた指先。それだけでは足らないのに、けれどそうしかできないとでも言うようなレイの指。エドガーは小さく笑って指を外させる。途端に傷ついたような顔をしたレイの額にくちづけて、腕の中に抱きしめる。
「あいつらの戯言を真に受けるなよ。だいたいな、レイ。あんたと一緒にいて、ここまで来て。俺が他でそっちの用事を済ませてきたことが一度でもあったかよ?」
「それは……ないと……思うけれど」
「けどってなんだよけどって! ないです、断じて一度たりともないです!」
 悲鳴じみたエドガーの声にようやくレイが小さく笑い声を上げた。こんなことでもなんでもいい。レイが笑っていてくれればそれでいい。
「……君は、その。僕で、足りているというか、満足できているというのか。その」
 不安そうなレイをエドガーは笑い飛ばそうとした。けれど唇がほんのりと笑みを刻んだだけ。嬉しさと苦しさとがない交ぜになった奇妙な顔。レイに見られなくてよかった思う。
「せめて……僕の体に執着してくれているのならいいと思う。君がいなくなるのが僕は……怖い」
「おい、レイ」
「だって、エドガー、君は」
「あのな、体に執着ってのはけっこう聞き捨てならないぞ、それ。あんたの体だけが目当てで俺はここまで来たのかよ? 稼ぎもいい安定した稼業を蹴り飛ばして逃亡して? それもこれも全部あんたの体だけ? どんな色魔だそれは」
「――君は。……いや、いいんだ。なんでもない。ただ……そう言ってくれて少し、嬉しかった。それだけだ」
 ことりと胸に頭を預けてきたレイの心がわからない。嬉しいと言ってくれて喜んでいいはずだった。それなのにやはり、エドガーは怖かった。ふと気づく。レイがこうして誘ってくれる理由も、寄り添おうとしてくれる理由もわからないからだ、と。




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