豪勢な夕食に、夕方の不機嫌が吹き飛んでいく。決して旨い飯のせいではない。膝の上、どういうわけかレイがいる。食後、居間の椅子にくつろいでいたエドガーの元、レイはやってきた。小さく笑って少しばかり照れくさそうな顔をしたまま、あろうことか膝に乗る。 「……おい」 体をずらせば、じっと見上げてくる眼差し。エドガーは苦笑して足を長椅子の上に投げ出した。そうしてもう一度レイを抱き寄せる。それに夜色の眼差しが微笑んだ。ことりと預けてくる頭。胸の上に温かい。 機嫌がよくなった理由もレイならば、不機嫌の理由もまたレイ。いずれ、本人には言えもしない。 訓練が終わったあと、いつもどおりエドガーはレイをエリナードの執務室へと迎えに行った。昨日はイメルのところに寄ったから、今日は真っ直ぐ帰るはず。だからどうと言うわけではないし、家に帰ったからといって話が弾む、というわけでもない。それでも二人でいれば、それだけでエドガーには充足をもたらす。 「――ありがとうございます。こんなにもらっても?」 「かまわない。もう各所、配ったあとだ。あとは我々の口に入るぶんが残っていれば充分だ」 「なら、ありがたくいただきます」 「こちらこそ。残してしまうのは、気が咎めるからな」 ファネルとレイが喋っていた。先ほどまで一緒に訓練をしていたはずのファネルなのに、と思えばそれがすでに忌々しい。 「レイ。迎えに来た」 言わずもがなのことを言えば、机の前でエリナードがちらりと笑う。それからにやにやとファネルを見ながら笑っていた。 「ここにも焼きもち妬きがいやがるぜ。なぁ、ファネル?」 「私はそれほど嫉妬深い質――」 「だろうが。え? 俺がお友達と仲良ししてんのが気に入らねぇってほざいたのはどこの誰だよ」 言うな、とファネルが声を荒らげる。それをくすくすとレイが笑う。仕事中の彼は、エリナードとこんな風にくつろいで話しているのかもしれない。思えば思うだけ、腹の中を焼き焦がされている気分だった。 「……待たせた、エドガー。帰ろう」 ひとしきり笑ってからレイはエドガーの傍らに立つ。それからファネルとエリナードを振り返っては手を振った。気安い仕種に、エドガーは言葉もない。同時に、跳ね上がってしまった鼓動。いつものレイだと、わかってはいる。人前での彼は、こうして必要以上に寄り添ってくる。いまもまた、腕に絡みついてくるレイの腕。 「じゃ、また明日な」 エリナードが手を振り返してきたとき、彼もまたファネルの腕に抱きあげられていた。彼らも自宅に戻るのだろう。 「エドガー?」 腕に感じるレイの頬。腕を組んで歩く、というより縋りついているよう。けれど以前のような切迫感のあるそれではなく、頬が赤らむようなそれ。 「いや、別に。何もらってたのかな、と思っただけだ」 「内緒だ」 「そうか」 それだけでうなずいて見せるエドガーにレイは不満を持ったらしい。じっと見上げてくるレイの目にエドガーは苦笑する。 「だって、言いたくないんだろ? だったら聞かねぇよ」 笑い飛ばしたエドガーにレイの溜息。ことん、とレイが頭を預けてくる。組んでいた腕が、縋りつく。 「……どうして君は。そこで引くんだ」 「はい?」 「いい。なんでもない。まだ、内緒だ」 ということはつまり、あとで話すということだろうと解釈してエドガーは肩をすくめた。レイの気持ちがわからなかった。思うのはただそればかり。突っ込んで尋ねていいと彼は言っている。むしろ、そうして話題を続けたい素振りでもある。けれど、なぜ自分にそこまで許す。それが、わからない。自分は仮初の、紛い物の、恋人のふりをした同居人に過ぎないというのに。レイに慕われているはずなど、どう考えてもあり得ない。イーサウでカレンに示唆された事実が、エドガーにはどうあっても飲み込めない。 やはり、人目が絶えるなりレイは腕を離した。そのまま黙って隣を歩く。それでも以前に比べれば、ずっと近いところを歩いてはいる、そんな気はする。 「……なにを」 「うん?」 「なにを、見ているのかと。思って」 ぽつりと言うレイにはじめて彼を凝視していたことに気づくありさま。うつむきがちに地面を見ながら歩くレイ。少し伸びた前髪が白い額にかかるさま。そんなものをただ見ていた。 「いや……。前髪、伸びたなと思って。書き物するのに邪魔じゃないのか」 「……少し、邪魔だ」 「俺でよかったら、切ってやろうか? あんまりうまくできるとは思えないけどな」 「やってくれるか? ……その、嬉しい」 よほど困っていたらしい、そうエドガーは思う。気づいてやれなかった自分を悔いるとともに、まだ他人に触れられるのは嫌なのだとも気づく。エリナードであっても、ファネルであっても、あるいはイメルであったとしても。それに喜びを覚える最低な自分だともエドガーは思う。 「あとでやってやるよ」 言えばほんのりと笑うレイがいた。少しばかり見上げてくる目を細めている。夕陽がまぶしいのかもしれない。 一度帰って荷物を置いてはまた連れ立って風呂に行く。これももう慣れた道のりだった。濡れた髪を切ってやればさっぱりしたのだろう、嬉しそうに微笑むレイ。まだ邪魔、と言うほど伸びていないエドガーの頭を触って小さく笑った。 そんな顔を見てもまだエドガーは腹の奥でくすぶる火種に苦慮していた。ファネルとなにを話していたのだろう。楽しげだったレイ。自分にはあんな顔は。思ったところで考えを止める。止めてしまうから、いつまで経っても苛立つままと気づいてはいる。が、どうにもならなかった。 「エドガー」 せっせと夕食の支度をしていたレイだった。手伝おうか、と言ったものの今日は拒まれる。それもまた、気分を落ち込ませる原因だ。どうやら一人でやりたいらしい、それがわかっていても。 「できたよ、食べよう」 いそいそと、けれど怯えながらレイが運んできたのは大皿に盛りつけられた鹿肉。添えられたのは茹でた芋を丁寧に潰して味付けをしたものに、先日来レイが凝って作っている果物の蜜漬け。 「おぉ、すごいな」 思わず目を奪われてしまった単純さにエドガーは内心で苦笑する。それをどう思ったのかレイは含羞んで肉を切り分けた。それにも感嘆する。なんとも美しい薔薇色だった。 「あっという間に上達したよな? 芋のスープが上手に作れないって言ってたのは誰だよ」 「それは……その。だから」 「だから?」 「もういい! 冷めないうちに食べてしまえ!」 ぷい、とそっぽを向くレイにエドガーは笑う。彼が見ていないからこそ、見つめられる。こんな風に料理の練習をして、レイはどうしたいのだろう。ふとそんなことを思いながら。 「もしかして、料理で身を立ててみたいとかか?」 「君は何を言っているんだ。僕は書記だ。それ以外のことはできないし、取り立ててしたいとも思っていない」 「だったら――」 これはなんだ、とエドガーは思う。めきめきと料理の腕を上げているレイ。エドガーとてレイには旨いものを食わせたいと思ってはいるから努力はしている。けれどとても及ばない。 「……ファネルさんに、いただいたのは、これだよ。エドガー」 「はい? これって、肉か?」 「そう。鹿肉。彼が狩ってきたんだそうだ」 何気なく言っているから、レイはたぶんわかっていない。ファネルは狩人としても素晴らしい腕を持っているのかとエドガーは呆れるばかり。 「数日前にいるかと聞かれて。だから僕は……その。たまには、君に……。いつもまずいスープばかりでは、悪いから」 「だから旨いって言ってるだろうが」 「嘘をつけ。絶対に美味しいはずがない」 むっとしながら言うレイにエドガーは笑ってみせる。本当だぞ、と顔を覗き込んでみせる。その裏側で、驚いていた。自分に食べさせたい、そう思ってファネルに頼んでくれたのか、レイが。旨いものを食べさせたい、そう思って作ってくれたのか、レイが。胸が詰まって、本当のことなど決して言えない。ただ笑い飛ばすだけ。 「蜜漬けを添えて食べると、より美味、と聞いた」 「誰に?」 「エリナードさんに。香辛料の使い方も、エリナードさんに聞いたんだ。魔術師は、薬草の類に詳しいらしい」 だから香草にも詳しい、とレイは言った。それから鹿肉には何、潰した芋には何、と教えてくれる。エドガーはうなずきながらまるで耳に残らなかった。そこまで努力している、レイは。それも、この自分のために。まさかと思う。嘘だろうと思う。レイの真意はどこにあるのだろうと思ってしまう。 「エドガー?」 「いや、すごいなと思って。あんたの努力が」 「……それは、その……。だから、君に。――君には、色々してもらっているから、礼の代わりになればと思って。それだけだ」 「妙なこと気にするなって何度も言ったよな?」 言いつつエドガーはほっとしていた。それが理由ならばうなずける、心の底からうなずける。うなずけてしまえることが悔しいけれど、逆に安心できる理由でもある。その他の理由など、とても考えられなかったから。 レイ渾身の鹿肉は彼自身が言っていたより遥かに旨かった。綺麗に食べつくしたエドガーにレイは満足げな笑みを浮かべる。 「酒にするか、それともお茶を淹れようか?」 「茶がいいな。あと――」 「わかっている。蜜漬け、だな?」 ふっとレイが笑った。気に入ってくれていると喜ぶようで、それもまたエドガーの心を騒がせた。そしてレイは小皿にいくつかの果実を取り、蜜もかけて持ってくる。可愛らしい銀の匙はレイが気に入って求めてきたもの。少しずつ、家庭の色が増えて行く。 「――レイ?」 そしてレイはエドガーの膝に座ったのだった。戯れのように、冗談のように。二人きりの時にはついぞ見せない姿だというのに。 「……少し」 「別に嫌がってるわけじゃない。ちょっと驚いた。それだけだぜ?」 「驚くのがそもそも失礼だと思う」 それはいったいどういう意味なのか。エドガーに判断はつかなかった。まるで恋人の不実をなじるかのよう。小さく笑ったレイがエドガーを見上げた。 夜色の眼差しに絡めとられる。見つめ合ったまま、レイは蜜漬けを口に含む。とろりと蜜に濡れた唇。重ね合わせてきた唇は、ぞっとするほど甘くて、泣きたくなるほど怖かった。 |