籠いっぱいに摘んだ実をどうするのかと思っていたエドガーだった。いくら旨くとも、さすがにそれだけで食べるのはつらい。 「エドガー」 家につくなりレイは籠を抱きしめるようにしながらエドガーを窺う。ほんのりと頬を染めていて、それでいてそっぽを向きながら。 「よかったら一緒――いや、その。手伝ってくれると、嬉しい」 なにをするのだろう。それより、何を言いかけたのだろう、レイは。エドガーは曖昧に笑って肩をすくめる。それからいいよ、とうなずいた。 「……助かる。では」 まず綺麗に洗う、とレイは言う。摘んできたばかりの実だ、埃もついていたし泥が跳ねたりもしている。 「虫食いは、取りのけておいて欲しい」 「あいよ。ここでいいか?」 「わかれば、どこでも。あ……」 ざっと洗った実をレイの口に放り込む。虫食いであってもこうして食べるぶんには何の問題もない。それどころか甘いくらいだった。にやりと笑うエドガーにレイの頬の赤みが増した。 「これ、どうするんだ?」 すべての実を洗い終わったレイにエドガーは何気なく問う。聞いてはいけないことではたぶん、ない。けれど何を尋ねるのも怖かった。そんなエドガーに気づかないレイは屈託なく笑う。そんな風に笑うようになったのも、最近だった。 「楓蜜に漬けるんだ」 「なんだ、それは。楓って、あの楓か?」 「その楓だ、たぶん。もう時期は終わってしまったみたいだけれど、秋になると真っ赤になるだろう? その楓の樹液なんだそうだ。とても甘くてよい風味のものだと聞いて」 「誰に?」 思わずすぐさま口をついてしまった言葉にエドガーは臍を噛む。レイは小さく笑って目を細めていた。何か、楽しい気分らしい、いまは。そのことにエドガーは内心でほっと息をつく。 「楓蜜をわけてくださったのはイメルさん。教えてくださったのは、エリナードさんだけど」 これだ、とレイは台所から瓶を持ってきた。そう言えば数日前に重たいものを持って帰ってきていた、とエドガーは思い出す。持とうか、と尋ねたのに拒まれた思いと共に。 「綺麗だな。金色で」 「春の陽射しのような色だと思わないか? もっと色が濃くて風味の強いものもあるんだそうだけれど、蜜漬けを作るにはこれがいいだろう、と持たせてくれたんだ」 午後遅い窓越しの光にレイは瓶をかざした。きらきらと、本当に春の陽の色。それに目を細めるレイこそが綺麗だと思っても言えないエドガーはじっと見つめているだけ。 「……春に。楓蜜を、作るんだそうだ」 「作る?」 「あぁ。北の森にたくさん楓があるんだと言っていた。樹液を取って煮詰めて、お祭り騒ぎだと言っていたよ」 北のこの国では春は遅い。だから樹液を取る頃になってもまだ雪が残っていたりもする。そこに煮詰めてできた蜜を流して子供たちは飴を作って遊ぶ、とも言っていた。そうレイは楽しそうに語る。 「――来年の、そのお祭り騒ぎには俺たちも参加するか?」 「いいのか? 是非、行ってみたい。できれば、その――」 言いさして、やはりレイはやめた。そっとうつむいて、何かを迷うよう。あるいは人混みにはまだ恐怖感があるのかもしれない。 「ちゃんと一緒にいる。怖くなったら、そこでやめればいいだろ。行ってみたいんだったら、やってみればいいさ。だろ?」 「……君が、いてくれるなら」 甘くて苦いレイの言葉。どういうつもりで言っているのだろう、思った途端に考えるのをやめる。意味などないに決まっている。エドガーは心配するな、と笑って見せてはもう一つ、果実をレイの口に放り込む。 「漬けるぶんがなくなってしまう」 きゅっと唇を噛みながらレイは笑っていた。水気を取った実を今度は彼がエドガーに差し出す。レイの指先にくちづけるようにして食めば、ほんのりと目許を赤くしたレイがいた。 「ほら、やっちまおうぜ。どうするんだ、これから?」 「――楓蜜でさっと煮て、あとは瓶に詰めるだけ。そう、エリナードさんに聞いた」 ならば難しくはないな、呟いてエドガーは鍋の用意をする。本当は、不快だった。このところレイの口からよく聞く名ではある。エリナードとファネル、それからイメル。いずれもレイと関係が深い人々だ、不自然ではない。が、どんな関係であれ、レイの口から他人の名は聞きたくない。己の狭量加減に笑えてくるほど。 「僕が」 エドガーの手から鍋を奪い、レイは慎重な手つきで蜜と果実を火にかける。そんなにじっと見ていなくとも逃げはしないし焦げもしない。思うけれどエドガーは言わない。真剣な顔をしたレイを見ているのが好きだった。 蜜漬けは、エリナードから聞いた、というとおり簡単にできてしまった。呆気ないほど簡単で、これで本当にいいのか、と二人して首をかしげたくらい。当然にして二人して蜜漬けなど作ったことがないから本当にあっているのかもわからない。 「明日、エリナードさんに見てもらう」 レイは大事そうに瓶を抱えてそう呟いた。まだぬくもりを残した瓶を見つめるレイの眼差しに、エドガーは目をそらす。どうしてそんなに大切そうなのだろう。考えたくなかった。 そしてレイは本当に翌朝、瓶を手に家を出た。仕事の合間に見てもらうつもりなのだろう。エドガーはもう、聞かなかった。なぜそんなに大事そうなのか、口を開けば問うてしまいそうな自分が怖い。できればそのまま忘れたいな、とも思う。楽しい秋の散策だった一日。最後だけが、苦かった。 「――さすがに、今日はきつかったぞ」 以後数日、エドガーは決して荒れていたつもりはない。が、さすがディアナの目は誤魔化せなかった。訓練に身が入っていないと見做されたのだろう、こてんぱんにやられた。それこそ傭兵の誇りが木端微塵になるほどやられた。体をひねればあちこち痣だらけだ、きっと。 「エドガー」 幸い今日はレイが夕食当番だ。食事ができるまで居間で伸びているつもりだったエドガーの元、おずおずとレイが寄ってくる。 「うん?」 首だけ振り向けば、顔を顰めてしまった。背中が痛い。筋でも違えていたらどうしてくれる、思っても悪いのは自分であるだけにディアナは責めにくかった。 「これを……」 噛みしめた唇に血の色。血の気の薄い唇がいまはほんのりと赤い。そのレイが差し出したのは、一匙の。彼の緊張を表すよう、エドガーが贈った銀鎖の飾りが手首で揺れていた。 「これ――」 赤みを帯びた金の蜜。あの蜜漬けに違いなかった。見れば手に持った小皿には漬けられた果実も乗っている。とろりと蜜に光って艶めかしいほどだった。 「その、嫌じゃなかったら、食べてくれないか」 「味見か? あいよ、俺でよかったら。――あ、旨いな、これ。思ったほど甘くないって言うか、なんだ、風味がいい?」 「気に入ったか?」 「あぁ、すごく旨い」 言いながら、レイは誰のために作ったのだろう、詮無いことを考えてしまう。教えてくれたエリナードのためか、それとも二日に一度通っているイメルのためか。 「……君が。その、エリナードさんに、聞いたんだ」 「なにを?」 「だから……、その。――エリナードさんの、亡くなった伴侶は傭兵だったと言っていただろう?」 この国に来たばかりのころにさらりとエリナードが話していた。それ以前からエドガーはカレンに聞かされていたものの、印象が薄い。おそらくはエリナードが若い男に見えるせいだろう。その彼に長く連れ添った「亡き伴侶」がいるという事実はやはり、飲み込みにくかった。とはいえ、今更どうしたというのだろう、レイは。不思議そうな顔のエドガーをきっとレイは見上げた。 「だから、エリナードさんは体を動かす男がどんなものを好むのか、知っていると思って。ファネルさんには悪いと思ったけれど、尋ねさせてもらった」 そうしたら笑われたんだ、とレイは唇を尖らせる。子供じみた表情が、いつになく目に楽しい。荒んでいた気持ちがすっと穏やかになっていく。単純だな、と内心でエドガーは自分を笑っていた。 「ファネルさんと亡くなった人とは友人同士だったから気遣いは要らないといって、笑われたんだ。でも、僕は……」 「レイ?」 「僕だったら、大切な人の、たとえ昔のことであったとしても、大切な人が愛した人のことは、聞きたくない」 「実はすごい焼きもち妬きだったか、あんたは」 「知らない。でも、そうだと思う」 真っ直ぐに見つめてくる夜色の眼差し。嫉妬をしたいのは自分の方だとエドガーは思っているのに。わざわざ果実を摘みに行き、自分の手で蜜漬けを作ったレイ。泣きたくなってくるからこそ、エドガーは笑う。笑って話を戻してしまう。 「それで、なんだって言ってたんだよ?」 レイの眼差しが歪んだ気がした。何かを言いたくて、言いかねて、それで歪んだ、そんな気がした。できれば聞きたくなかった。レイがどこかに行ってしまいそうな気がする。 「……エリナードさんの亡くなった人は、甘いものが好きだったんだそうだ。蜜がけの揚げ菓子が大好物だった、と言っていた。でも自分ではそんなものは作れないだろう? だから時々こういうものを作ったんだと、エリナードさんは言っていたんだ」 それがこの蜜漬けか、とエドガーは思う。確かに自分たちにもできたほど簡単だった。これを彼はその愛した人のために作ったのか、と。ならばレイは。考えた瞬間、思いを退ける。 「へえ、意外と可愛いところあるんだな、あの人も」 「……エドガー、君は。エリナードさんには」 「そんなつもりじゃないっての! そういうことする男に見えなかっただけだ!」 「実は同感だ、それには僕も」 小さく笑ってレイは蜜漬けの果実を匙に乗せ、エドガーに差し出す。果実などよりその行為の方がよほど甘いものを。 「いい出来だよ、これ。本当に旨い。――で、レイ。誰にやるんだよ?」 甘いからこそ、聞いてしまえと思うのは自棄だろう、たぶん。無言のレイがもう一つ、果実をエドガーの口にねじ込む。 「……だから! 君は戦闘訓練をしているんだろう! 傭兵だった、エリナードさんの亡くなった人みたいに! だから、僕は」 うつむいてレイは声を荒らげる。体の脇で握った拳。背を返して逃げようとするレイをエドガーは咄嗟に抱き寄せる。言葉もないのはあまりにも嬉しかったからだとは、きっとわかってはもらえない。それでもいまは何も言えなかった。 |