こんなものがあってもいいのでは、とレイが籐の籠を持ち帰ったのは昨日のことだった。何に使うのだろうと思うエドガーをよそ目にレイは窓辺の林檎を収める。 「なんだか、家庭の匂いだと思わないか?」 振り返り、エドガーの目を見て言ったのに、返答を聞く段になってレイは眼差しを伏せた。聞きたくないのか、別の何かか。戸惑うエドガーの前、レイが身じろぐ。 「あぁ、いいな。なんか懐かしい感じだよな」 自分にはさほど覚えがあることではないけれど。そんな風に匂わせた曖昧な返答。レイはうつむいたままほんのりと微笑んだ。 「……僕が」 なにを言わんとしたのか、言いさしてやめてしまったレイ。エドガーは促すでもなく黙って腕に抱く。それにほっと息をつくレイだと経験則として知っている。 「……その。ファネルさんに習って、やってみたんだ。うまく……できているかどうか、わからないけれど」 「籠?」 「籠」 驚いてしまったがゆえのそっけない問いに、同じ短い返事が返ってきた。思わず腕を緩めてまじまじとレイを見つめてしまう。唇を引き結んだままレイは目をそらした。 「いや……すごいな、と思ってな。器用なんだな、あんたは」 「そんなことは――」 「俺は無理だし」 笑って言って腕を離した。少しばかりその場にとどまり、レイは何も言わずに離れていった。いつものこと。エドガーは失望をしないよう心する。が、その日のレイは振り返る。 「レイ?」 「いや、その。……明日なんだが」 きゅっと結んだ唇に血の気が差す。エドガーはできるだけ穏やかに、そう内心に呟いて首をかしげた。明日がなんだと言うのだろう。エリナードの心遣いなのか、エドガーの非番の日に彼はレイにも休みをくれる。ちょうど明日はその非番。二人顔を合わせていても戸惑うばかりではあったけれど、戸惑いながらでもエドガーはレイの傍らにいるだけで充分。そう思っていたのに。レイ自身は知る由もないとしても。彼は明日、一人で何をしたいのだろう。 「――か?」 「え? 悪い、なに言った?」 「だから! その……森に、出かけないか、と言ったんだ。君が……嫌じゃなかったら」 唇がはっきりと赤みを増す。エドガーは口を開けなかった。開けば意味不明な悲鳴が漏れるに決まっている。きつく抱いたレイが小さく、けれど楽しげに笑い声を上げた。 そうして朝早くから森に来ていた。アリルカを包む森は深く、けれど明るい。危ない場所もあるから気をつけろ、とエリナードには言われているらしい。それを気にしながらレイは歩いている。腕にはファネルに習って作った、という別の籠。 「なんに使うんだ?」 「内緒だ」 「教えろよ」 他愛ない抗議にレイが笑う。冬も間近な晩秋の陽射しがちらちらと梢を抜けてレイを煌めかせていた。知らず立ち止まってしまうエドガーを不思議そうにレイは見上げた。 「あ、いや。なんでもない」 「エドガー。気になる。君は……いま、なにを」 「だから」 「――言いたくないことだったら、かまわないけれど。でも」 うつむいてしまったレイ。二人きりの時にはよく見せている顔ではあるけれど、こうして出かけてきて楽しそうだったレイに浮かべてほしい表情ではなかった。 「……綺麗だなと思っただけだ」 「なにがだ?」 「……あんたが! うるせぇな、ほっとけ!」 「僕は何も言ってない」 断言しながらくつりとレイが笑った。言ってしまってから青くなったエドガーの腕に、絡みついてくるレイの腕。思わず固くなってしまった体にレイは怪訝な眼差しを。 「こういう散歩が好きだとは思わなかった。言えば、いくらでも付き合ったのに」 ここは話を変えるに限るとばかりエドガーは周囲を見回して言う。大きな街で育ったレイだった。しかも書記という室内での仕事をしていた彼だ。外遊びが好きだとは思ってみたこともない。それをエドガーはちらりと後悔していた。 「……僕も、好きだとは思わなかったんだ」 「悪かったな。知ってりゃ、もっと早くに連れ出してたんだけど」 「いままでは、無理だったと思う……その、アリルカに落ち着くまでは、僕も……」 呟くレイにエドガーは臍を噛む。グラニット育ちのせいではない。仕事のせいでもない。レイには森の散策を楽しむ環境など、どうあってもなかったものを。 「あぁ、まぁ、緊張もしてたしな。そういや、ディアナがずいぶん明るくなったって言ってたぜ?」 強いて笑い飛ばすようそう言えば、だからなんだとばかりレイはそっぽを向いた。その目にだけほんのりと感謝と笑みと。まるで恋人同士の散策のよう。二人きりでいるのに他人のことなど聞きたくないと拗ねているかのよう。巡る空想にエドガーは苦笑する。そんなはずはなかった。 「エドガー」 「うん?」 「……来年は、だから」 ぽつり、レイが呟いた。胸の奥を掴まれたような気がしてエドガーは答えられない。来年もまた、こうしてレイの傍らに自分はいられるのだろうか。いてもいいのだろうか。アリルカに住んで実際レイは明るくなった気がしている。ようやくほっとして生きている、そんな気がしている。ならば一年が過ぎたとき、彼の側には誰が。 「エドガー、聞いているのか。……来年は――来年も、こうして。一緒に、その」 詰問が、途中から躊躇になった。ぎゅっと腕に縋りついてくるのは久しぶりのような気がした。以前は常にそうしていたものを。それだけ彼は立ち直りつつある、そういうことなのかもしれない。 「俺でよかったらいつまででも付き合うぜ? でもなぁ」 「なんだ」 「あんた、ほら。籠作ったり料理をやってみたり。けっこう家庭的っていうか」 「女性的、と?」 「んなこと言ってないでしょーが。男でも家の中のことが好きな野郎はいくらでもいるっての。聞いて驚け、ヒューは菓子作りが趣味だ。しかもめちゃくちゃ可愛いやつ」 「……ヒュー副隊長のことだよな?」 仰る通り、と重々しくエドガーはうなずいた。それに唖然としたレイだったがついで盛大に笑いだす。珍しいほどの明るい顔だった。 「だからな、その。俺でいいのかな、と思ったり」 「はい? どういう意味だ、エドガー」 「だからな。来年はいいさ。再来年でもいいさ。いずれあんたはちゃんと立ち直るだろうさ。そんときにはあんたはいい女見つけて主夫になるのかなぁ、とかな。エリナードさんの仕事しながらでもできそうだしなぁ。手際はいいだろ、あんた」 次第に早口になっていくエドガーを、レイはじっと見つめていた。明るい森にそぐわない夜色の眼差し。視線をそらしてエドガーは虚ろに笑う。 「痛ぇな!」 突然にして爪先を踏まれた。それも思い切り。痛いというより驚いてレイを見やればふん、と鼻で笑ってそっぽを向く。不愉快というほど重たいものではなく、気分を害したというあたりか。 「そう言う君こそ、どうなんだ。どこに行っても……もてるくせに」 ぼそりと呟くよう吐き捨ててレイは一足先に進んでしまう。息を飲んだエドガーが遅れたのを咎めるよう、一度だけレイは振り返った。 「……そんなにもてないと思うけど?」 何気なく隣に並べば、ためらいながら縋ってくるレイの腕。エドガーは内心で歓喜に震える。こんな風に隣で過ごせる。それだけでいいのに、と。 「どこがだ。誰がだ。グラニットの街でも狼の巣でもここでも! 君の周りにはいつも人がいる」 「それ、もててるって言うのか? 単に――」 「僕には同じことだ」 レイには珍しいきっぱりとした言いぶりにエドガーは笑う。またも鼻を鳴らされてしまったけれど、そうする他にどうしていいかわからなかった。幸い、レイが喜びの声を上げてぱっと駆け出す。 「ほら、ここだ。よかった……エリナードさんに聞いてはいたけれど。少し、不安だった」 森の中の道はよくわからないから、レイは呟いてエドガーを窺った。いったい彼はエリナードに何を聞いて、何を探していたのだろう。平素エリナードとどんな話をしているのだろう。浮かびかけた想念をエドガーは振り払う。 「お、すごいな。綺麗だ」 そうしてレイが示すものを見つけた。真っ赤に色づいた秋の果実。この時期ではもう最後の実だろう。熟しきってたわわに実っていた。 「ほら、エドガー。その、食べてみないか」 ちょんと、レイが果実を摘んだ。レイの指先に、親指の爪ほどの赤い実が。手で受け取ろうかと一瞬は思った。けれどレイが示唆したものにエドガーは従う、千載一遇の好機とばかりに。 「あ……」 唇に押し込まれたのはエドガーなのに、レイがほんのりと頬を染めた。それからぱっと視線をそらす。その隙にエドガーもまた実を摘み取る。 「レイ」 呼べば律儀に振り返る彼へと同じように果実を差し出す。目許まで赤くしたままかすかに口を開いたレイ。恥ずかしさをエドガーこそがこらえて果実を押し込む。指先に触れたレイの唇。 「つ、摘んでしまわないと。食べてもいいけど、その!」 こんなにおろおろとするレイなど見たためしがなかった。胸を鷲掴みにされたような気がして、エドガーは何を言うこともできない。レイが持ってきた籠にぽんぽんと摘んだ果実を放り込むだけ。 「エドガー」 無言に気づいたか、訝しそうな顔をしたレイがもう一度果実を差し出す。受け取ってくれるだろうかと不安そうな眼差しで。 「ずいぶん甘いな」 「……僕だって恥ずかしいことをしている自覚くらいは」 「違うっての。こっちこっち。よく熟してて甘いんだって。ほら、レイ」 ひょい、と無造作にレイの口に押し込んだ。レイはきっと何を考えたわけでもないのだろう。ただはしゃいだ自分が恥ずかしかったのだろう。彼がそう言い訳をするより先にエドガーは、止めた。聞きたくはなかったから。 「……甘い」 ふ、とうつむいてレイは言った。本当は酸いのにわざと甘いと言ってみせたかのような、そんな口調で。確かめたくて、思わずエドガーは彼を抱き寄せる。 「ほんとに甘かったな」 「……くちづけで確かめる君は、どうかと思う」 「嫌だったら詫びる」 「……別に、嫌では」 きゅっと胸元を掴んでいたレイの手。ゆっくりと背中にまわって抱き返してきた。すり寄ってくる彼が、近いのに遠くて、ただエドガーは秋の森を見ていた。 |