それから二三日してのことだった、レイがイメルのところに寄ってほしい、と言いだしたのは。戦闘班の訓練の帰り、レイをエリナードのところに迎えに行ってみれば聞かされたのはそんなこと。首をかしげたけれど、深くは問わなかったエドガーだった。 「結局」 以来、二日に一度レイはイメルのところに寄っている。咎める筋合いではないし、レイは語らない。イメルはにんまりとしたまま、やはり語らない。これではどうしようもなかった。 「今日もまた、か」 イメルの家は町中にある。エリナードのよう、半ば森になった樹上の小屋、ではない。きちんとした、いかにも住み心地のよさそうな家だった。はじめて送っていった日のことを思い出す。 「イメルさん、エリナードさんから――」 「あいよ、聞いてる。待ってたよ、レイ」 「ご迷惑だとは――」 「気にしない、気にしない」 本当に、レイはイメルに恐怖を感じないらしい。どこから見てもイメルは男性だ。エリナードのような華やかな美貌でこそなかったけれど、男性的な精悍さも充分に持ちあわせ、なおかつ吟遊詩人らしい艶やかさも持っている。一言で言って魅力的な男性だ。それなのにレイはまったくイメルに対して恐怖を見せない。以前エリナードが言ったよう、彼は男女の均衡が自身の中で取れている、というものなのだろう、たぶん。魔術師でないエドガーにはわからない。ただわかるのは、レイが笑っている、それだけ。 「――レイ。その、待ってようか。それとも、迎えにこようか?」 言った途端、レイに見えないようイメルがにんまりとした気がした。気のせいのような短い微笑にエドガーもまた目を瞬く。 「あ……」 「あぁ、いいよ、エディ。俺が送ってく。わざわざ迎えに来ることないしな。ほら、たまには羽でも伸ばしてきたらいいだろ、君もさ」 両手を広げてイメルは言う、小首をかしげてレイに同意を求める。途轍もなく芝居がかっているのに嫌味ではなかった。 「あぁ……じゃあ、そうさせてもらおうかな。羽伸ばしてくるわ。――頼みます、イメルさん」 あいよ、と笑いながらイメルが顔を顰めていた。違うことを言うべきだっただろう、いまのは。そう責められているのだけはなぜか伝わった。けれど他に何を言うべきだったのか、エドガーにはわからない。 「エドガー」 「うん?」 「……夕食までには、帰るから」 「わかった。用意しとくよ。気にすんな」 ひらりと手を振ってイメルの家を後にした。むかむかとして、レイに当たり散らしてしまいそうな恐怖感。なぜだ、と思う。どうしてイメルだと。自分ではなく、イメルに何を頼んだのだろう。レイは。 以来、今に至るまでレイは何も言わない。律儀に二日に一度、イメルのところに通っている。それとなくエリナードに探りを入れれば「仕事じゃねぇな」とそっけない答えだけが返ってきた。 もっとも、レイはエドガーの食事当番、と決めた日の午後に出かけている。つまり、家にいても用はない。ならばレイはレイでしたいことがあるのだろう。それを妨害はしたくない。そう思いはするけれど、言ってくれないのは寂しいとも思う。 「……贅沢か」 所詮、仮初の本物ではない恋人同士の皮を被った同居人。レイには秘密にしたいこともあるだろうし、自分では頼りにならないと思ったのかもしれない。レイができる、したいことが一つずつ増えて行くのならば、それは喜ぶべきこと。思うけれど、やはり。 「なにが贅沢だって?」 ひょい、と顔を見せたのは戦闘班の長、ディアナ。一人で家にいても暇を持て余すだけのエドガーだ。かと言って一人で鍛錬をするほど仕事好きでもない。結果として、レイを送ったその足で居酒屋に腰を据えるのが決まり道になっていた。 「いーや、別に」 居酒屋と言ってもレイが戻れば夕食だ。しかも傭兵隊で鍛えてきた。陽のあるうちから飲んで騒ぐなどとてもできない。少なくとも、黒猫はそのような隊ではなかった。どうやらこの店にはそう考える戦闘班員が多いらしくて、エドガーとしては居心地がいい。頼めば葡萄酒くらいは出してくれるけれど、ほとんど茶が出てくる。 「だったら一勝負、付き合いなさいよ」 ディアナの言葉にエドガーは笑う。立ち合いではなく勝負、ときた。ディアナが求めているのは剣の勝負ではなく、遊戯盤での勝負と察するだけ何度も対戦したエドガーだ。 アリルカ独自の遊戯だった。骰子を使った賭博は簡単なものから複雑な遊戯までどこにでもある。黒猫隊にも隊独特の賭博があった。が、ここの複雑さは群を抜く。そもそも骰子を四つも使うというのがまず珍しい。しかも、三角錐に、八面体、二十面体などというほぼ球ではないかと思うような骰子、当たり前の六つの面を持つ骰子も使う。それぞれが火、風、水、大地を表すのだそうだ。そして骰子に対応する四種の駒を出た目に従って動かしていく。どれをどう動かすか、どの順番で何を動かすべきか、これが中々に難しい。「魔術師の賽」と呼ばれる遊びだった。 「私はこれ、戦略盤を使った架空戦だと思ってるわよ」 確かにディアナの言う通り、四種の駒をそれぞれ騎兵だの歩兵だの斥候だのと考えれば戦略を養うのに最適だ。 「それをなんで俺みたいな下っ端相手にしてやるかね、あんたは」 すでに気安い口を叩きあう間柄だった、ディアナとは。軽く肩をすくめて彼女は遊戯盤の用意をする。周囲にはもう班員が集まりはじめていた。 「そりゃ見どころがある若いのには教えたくなるのが人情って物じゃないの」 「若いのって言われるほど若くないだろうが」 「私より年下はみんな若いのよ」 にやりと笑ったディアナは年上ぶるほどではない、とエドガーは思っている。少しばかり上ではあるだろうけれど、熟年の長を気取るほどではないだろう。が、腕の方は充分にそれだけのものを持っている。買われていなせるほど経験を積んではいない、素直に喜べるほど純でもない。エドガーはだから同じように肩をすくめただけだった。 「最近、どうなのよ」 「なにがだよ」 「レイ君。少し明るくなったような気がして。来たばっかりのころはずいぶん緊張していたからね」 さすがによく見ているな、とエドガーは思う。ほぼ毎日、ディアナもまたレイを見かけてはいる。戦闘班の訓練はたいてい議事堂の裏手でしているのだからレイと顔を合わす機会も少なくない。それにしても、と思ってしまうけれど。 「まぁ……色々あったからな」 「聞かないわよ、中身は。ここはそういう国。もう理解してるでしょうに」 傭兵隊と同じだ、エドガーは思う。アリルカは、行き場を失くした人々の最後の拠り所。それまでの過去に蓋をして、なんとかやっと暮らせる最後の場所。だからこそ、聞かない。それがどこか傭兵隊に似ている、とエドガーは思う。傭兵隊もまた、過去を問うことをしない。戦う以外に生計の道がない、己の命を金に換えるより他にどうしようもない、そんな人間ばかりが集まるところだったから。 「その上でね、明るくなったなと思うの。あなたが側にいて、ここで暮らして、ようやくほっとしたのかしら?」 「――俺は関係ないだろ、たぶん」 「冷たいこと言うのね。大事な連れ合いでしょうに。ほら、それ、こっちにもらうわよ」 話に気を取られて駒の一つがとんでもない場所に進んでいた。魔術師の賽ではしかるべき手順を踏めば相手の駒を奪える。しかも自分の手駒にできる。ディアナはそれを捕虜の有効活用と笑う。存分に活用された駒がまた、痛かった。顔を顰めるエドガーを周囲がやんやと囃し立てる。 「あぁ、クソ。結局あの一手だな。あれに尽きる」 中盤で取られてしまった駒ひとつ。あれが勝敗を決したと言っても過言ではなかった。頭をかきむしり、エドガーはだらしなく椅子に背を預けた。 「集中してないからよ。戦いはどんな時でも集中よ」 「へいへい、仰せの通り。今日は帰りますよ、もう一勝負なんて言ってたら飯の支度ができやしない」 「本当にまめよね、エディ。そういう男はもてると相場が決まってるものだけど」 「もてなくて結構。俺にはレイがいる」 「言ってなさいな」 ふん、と鼻で笑ってくれたディアナ。げらげらと笑う班員たち。それにどれほど救われて、どれほど叩きのめされているか彼らは知らない。 「……レイがいる、か」 公言する。放言する。事実とは違うことを。耳にすればレイは照れたように、あるいは嬉しそうに頬を染める。真実ではないのに。 「いまごろ」 レイはイメルと何をしているのだろう。なにを話して、何を考えているのだろう。ゆっくりと家路をたどり、エドガーは首を振る。ふと思いたって買い物をした。 「……気に入る、わけもない、かな」 苦く笑って早摘みの林檎を一つ窓辺に置いた。まだ香り立つと言うほど熟していない。硬い果実がレイのよう。知らず果実に指を滑らせれば冷たい感触。 「なにやってんだかな」 馬鹿馬鹿しいとばかり背を向けた。拳を握って、もう一度振り返る。林檎は固くそこにある。熟していない果実が、やはりレイのよう。 「無理はしたくない。無茶をさせたくもない。いずれ――」 自分に言えることではない。そんな筋合いはない。言ってよい立場でもない。所詮、自分は同居人。脳裏を巡る思いを振り払いたくて、懐かしい行為をしてみる気になった。 「レイ……」 どう思うだろうか。以前、子供のころを懐かしく思い出すことなどないと思っていた、と語ったレイだった。タングラス侯爵夫人の小間使いを母とした彼だった。こんな所帯じみたことはしたことがないだろう、きっと。ならば珍しいと思ってくれればそれで充分。その思いを胸にエドガーは夕食の支度をする。大したものが作れるわけでもない。それでもレイには旨いものを食べさせたい。おかげで最近では班員だのディアナだのにずいぶんと料理の話を聞くようになった。 「ありがとうございました、イメルさん。お茶でも――。はい、では。……ただいま」 玄関先でイメルが帰っていく気配。エドガーはわざわざ覗きにはいかなかった。イメルも殊更それを求めてはいない。 「お帰り」 あとは仕上げだけ、という段になって戻ったレイだった。ほんのりと染まった頬に触れれば冷たい。外はずいぶん冷えたらしい。そっと撫でる指をくすぐったげにレイは笑う。その眼差しが林檎に。若い林檎に刺した乾いた丁子。林檎が甘くなるのよ、そう言ったのは母だった。エドガーは目をそらしかねてレイを見ていた。 「……懐かしい。母が、奥方様に作って差し上げていたよ。奥方様は僕にも、くださったんだ。あの林檎の甘かったこと」 林檎に触れ、レイはエドガーを振り返る。その笑みに息をつきエドガーは彼を抱き寄せた。腕の中に憩うレイ。いまだけだとしても。これで充分。何度となく内心に呟きながら。 |