木蔦の家

 引越し当日こそ、煮売り屋で済ませたけれど翌日になって早速レイは料理をしてみる、と言いだした。
「適当に見繕って帰るから、先戻ってな」
 一度家にレイを送り、エドガーは買い物に出る。一緒に行きたそうにしていたレイだったけれど、さすがにまだ大勢の人々がいるところに出るにはためらいがあるらしい。イーサウでなんとか慣れたところで再びの逃亡だった。またレイは同じ努力をしなくてはならない。大変だな、と思う反面。
「また、俺を――」
 頼ってもらえる。そう思ってしまう自分がエドガーは憎くなる。そんなことはまったく思わない、自分は確固としてここにある。そう言えるような立派な男であれればよかったのに。思っても、どうにもならない自分がただここにいるだけ。
 町の活気の中に出れば、そんな惨いばかりの思いだけが募っていくよう。笑いさざめき、値切ったりおまけをつけてもらったり。そんなことがあるのに、心の中だけは索漠とした虚ろ。
「せめて」
 家に戻ったときには笑っていたい。何事もなく、買い物を済ませて帰ったと言いたい。明るくただいま、と笑いたい。
「遅くなっちまったな。ただいま」
 扉を開ければ明るい家。ふと家庭の色だとエドガーは思う。そんな思いなどついぞ感じたことがなかったものを。奇妙なほどに懐かしい、幼いころを思い出していた。
「――おかえり。エドガー」
「うん? どうした」
「……それは、僕の台詞だと思う。なにか、あったんだろうか」
 ぎょっとしたのをぎりぎりのところで顔に出さずに済んでエドガーはほっとする。なんのことだとばかり首をかしげて見せれば、レイはそっとうつむく。諦めたのか、それとも勘違いと得心したか。
「買ってきたぜ。肉とか、野菜とか。あとパンな」
 根菜だけは嫌と言うほどエリナードがくれたけれど、それでどうにかなるものでもない。と言いつつ、実はどうにかなるものだということをエドガーは知ってはいた。それこそ幼いころには、ほとんどただの湯の中に幾粒か微塵に刻んだ芋が浮いているだけのスープばかりだった。
「……ありがとう、でも」
 こんなにあっても自分に料理ができるだろうか。不意に不安になってしまったレイの几帳面さをエドガーは微笑んで見つめていた。困窮極まった経験のあるエドガーだ、無駄は忌むべきもの。ただ、レイの努力の糧になるのならば、たとえ料理としては無駄になっても無駄ではない、そんな風にも思う。
「せっかくだし、一緒にやろうぜ。なんか楽しそうだろ?」
「並んで?」
「並んで」
 問いににやりと答えれば、ほっとくつろいだ顔をしたレイ。そんな顔が見たいだけでここまで来てしまった、エドガーは思ったけれど本望だとも思う。
 台所は、元々一家三人で暮らしていたという家だけあって男二人で並んでもそれほど窮屈ではなかった。
「なに作る?」
「……そんなに大層なものはできそうにない。だから、スープを」
「あいよ、了解」
 自分は手伝いにまわるから、まずは好きにやってみろとばかりエドガーは鍋の用意をする。うきうきとした気分に自分で笑いが漏れそうなほど、楽しかった。
 覚束ない手つきでレイが包丁を握る。貯蔵庫から出してきた芋を怪しい包丁が剥いて行く。むしろ、皮を削り取っていく。危ないな、とエドガーは思うけれど口を挟めばもっと危ないことになりそうではらはらと見ていた。案の定。
「あ――」
 つい、と包丁がそれたと思ったときにはレイの手から芋が落ちる。芋などどうでもいいエドガーだ、咄嗟に取ったのは当然にしてレイの手。
「エドガー!」
 切ったのだろうレイの指、エドガーは何を言わせるより先に口に含んでいた。濡れて冷たい指先に芋の粉っぽさとほんのかすかな鉄の味。酷い傷ではなさそうだった。それでも顔を顰めてしまう。
「気持ち悪いだろう? そんなことをしなくても……」
「違う。痛いだろうに、と思ったんだ。大丈夫か」
「……そんなに、痛くは」
 エドガーの唾液に濡れた自分の指からレイは一度目をそらす。照れたのか、嫌だったのか。たぶん、嫌だったのだろうな、と思ったエドガーは無言でレイの指を水で洗う。もう血は滲んでいなかった。そのことにまずほっとした。
「そんなに目一杯切ったわけじゃないな、よかった」
「……すまない。下手だな、僕は」
「そんなに急にいきなり巧くなるもんでもないだろ。こういうのも練習だと思うぜ。所詮、刃物だしな」
「君の剣と一緒にするな。これは食べ物を作っているんだから」
「悪い」
 にやりとすれば、レイのほっとした笑み。それだけで充分だ、エドガーは思う。それからどうする、とばかりレイの顔を覗いた。
「もう少し、続けてみる。……だめか?」
「いいや? あのな、レイ。もうちょっと優しく包丁握んな」
「え?」
「あんた、力を入れ過ぎだ。そんなにぎゅっと握るもんじゃない。女の手でも握るみたいにするんだ。優しく、でもしっかりとってな」
 にやにやしながら言うエドガーを、なぜかレイはじっと見つめていた。思わず目をそらしたくなってしまうほど、真摯な夜色の眼差し。それから無言でレイはエドガーの手を取る。
「レイ?」
 柔らかな手が、自分の手を握っていた。そっと、けれど離すまいと。水仕事をしていたせいでいつもより冷たいレイの手。覗き込めば、かすかに仰のく。何を考えるまでもなく、その唇にくちづけていた。
「……君が、そう言ったんじゃないか」
「うん?」
「だから、君の手を、その。……君の手じゃ、だめなのか。僕は――」
 包丁のことか、とようやくわかった。女の手でいいのに、とエドガーは苦く笑う。そのぶん、歓喜に染まってもいた。手を握るように、そう言われてレイが思い、取ったのはこの自分の手だと、誰彼かまわず叫んでまわりたいほどに。
「いや、別に。あんたがそれでわかるんなら、それでいいと思うけど?」
 口から出たのはそっけない言葉。レイに、気づかれる怖さが先に立つ。喜んでいるなど知られたら、レイがどれほど気分を害するかと思えばこそ。それでも何かに気づいてしまったのだろう、レイは黙って手を離し、わずかに視線をそらした。
 分厚く皮を剥きすぎて、それなのにところどころ皮の残った不恰好な芋だった。大きすぎたり小さすぎたりして、火の通りのおかしい肉だった。それでも、レイの作ったスープ。
「……すまない、あまりおいしくないな。と言うより、はっきり言ってまずいな」
 食卓でうつむいてしまったレイ。一匙口にして、自分で顔を顰めていた。それを眺めつつ、エドガーは微笑んでいる。視線に気づいたレイがきっと顔を上げた。
「俺はけっこう旨いと思うけどな」
「味覚がおかしい」
「そうか? なんだろうな……あったかい手料理って、それだけで旨くないか? 家庭の匂いって言うか――すまん。忘れてくれ」
 迂闊な言葉だった。レイにそんな温かい思い出などあったはずはない。むしろ過去のことなど。後悔するエドガーに、レイはほんのりとした笑みを浮かべた。
「あまり気にしてくれるな。――確かに僕はこういう家庭の味、というものに縁はないけれど」
「だろ? ……その、おふくろさんは」
 聞いていいことだろうか。思ったときには口にしていた。レイは気にした様子もなく、かすかに目を細めていた。
「母の手料理、というのも食べたことはないな。そういうものは本の中のものだと思っていたよ。――母は、奥方様の小間使いだったから」
 タングラス侯爵夫人付きの小間使いだったのか、エドガーははじめて聞くレイの母に何を思っていいのかわからなかった。大変だっただろうな、とは思うが、口にすれば薄っぺらにしかならない。それと察したのだろうレイが首を振る。
「奥方様は、優しい方だったよ。体が弱くて、ほとんど横になって過ごしてらした。……母は、そんな奥方様に本を読んで差し上げたり、摘んできた花をお見せしたり」
 ほとんど一日中奥方の側にいたのだとレイは言う。そして自分もまた、そこにいたのだと。本が好きなのはきっとその影響だ、レイは笑う。
「――優しい奥方様は、母のこともお怒りにはなっていなかったみたいだ。それどころか、騎士の養女にでもしてきちんと側室に直すべきだ、と侯爵様に勧めていた」
「よくできた奥方だな、それは」
「たぶん、とてもいい人だったんだと思う。……いい人ほど、早く死ぬと言うしな」
 だからきっと自分は長生きだ、戯言めいたことを言ってレイは笑った。それならば自分の方こそ長生きだろう、思ったエドガーは言わなかった。言えなかった。
「奥方様が亡くなって、あとを追うように母も亡くなった。畏れ多くも姉のようにお慕いしていると、生前奥方様のことを思っていた母だから」
 そしてレイは一人になった。父もいる、異母兄もいる。けれど一人の方がどれほどましだったか、そう思わざるを得ないほどレイは一人だった。
「侯爵様は、奥方様が亡くなったのがとても衝撃だったらしい。がっくりと落ち込んで、それで家裡のことに興味を失くした」
 だから自分がどんな目にあっていたか、気づいてはいたかもしれないけれどタングラス侯は興味を持てなかったのだろう、そんな風にレイは言った、他人事のように。エドガーの拳がぎゅっと握られる。
「……ろくでもない男だな、タングラス侯は。だろ? そんなに愛した奥方だったら、なんで他の女に手を出すよ? 他に手を出せる程度だったら、なんでそんなに落ち込むよ? 所詮その程度の男なんだろ、あの侯爵は」
「……エドガー」
「好き嫌いで語って悪いけどな、レイ。俺は、そういう腰の据わってない野郎が真人間面してるのを見るのが一番嫌いなんだよ」
 レイがどんな目にあったかと思えば。タングラス侯を憎んでも余りある。怒りを抑えようと深呼吸するエドガーをレイはじっと見つめては仄かに微笑む。
「……そんな君だから、僕は。……その、こんな話ができるほど、元気になった。あの屋敷でのことを、たとえ奥方様や母のことであったとしても、あの屋敷のことを懐かしく思い出す日が来るなんて、思ったこともなかった。君が、いてくれるから、僕は」
 ぽつりぽつりと呟いて、レイは何を思ったのか一息に残りのスープをかきこんだ。そしてやはりまずかったのだろう、思い切り顔を顰めてはエドガーに向かって小さく笑う。照れていた、はっきりと。エドガーにもわかるほどに。




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