木蔦の家

 毎朝エリナードの執務室に送っていき、自身は裏手に回る。イーサウにいたときとさして変わらない段取りだった。それにレイは少し、安堵したらしい。変化が少なければそれだけ落ち着くのも早いのかもしれなかった。
 戦闘班の長は隊商の護衛に出ている、と言ったとおり今はファネルが訓練を見ていた。初対面のときには相当に使える、と思ったファネルだ。けれどあの優雅な神人の子が、とエドガーは少なからず内心で首をかしげてもいた。が、実際に剣をかわしてみれば驚くなどというものではなかった。
「私の剣はリオンの仕込みだからな」
 少しばかり照れくさそうに彼が言う。リオン、と聞いてもエドガーにはぴんと来ない。せいぜい湖の小島にある杖がリオンの杖、と呼ばれている程度のことしか知らなかった。
「リオン・アル=イリオ。元星花宮の魔導師で、アリルカ建国の重鎮の一人だ。エイシャ女神の総司教でもあった」
「神官さんが?」
「エイシャ女神は剣取るものにも厚い加護を下す、という。リオンの剣は実に鋭かったぞ」
 エドガーも知らないではない。ただ自分に信仰心があまりないせいだろう、隊の仲間が神殿に詣でる、と言っても聞き流していたせいでよくはわからない。が、仮にファネルを仕込んだリオンという魔術師が彼以上の腕だと言うのならば、物騒な神官もいたものだとは思う。
「アリルカ独立戦の時にもリオンは先頭に立って戦ったからな」
 やはり物騒だ、と思った。神官とは止める側だとばかり思っていたものを。しかし親近感は、湧いた。傭兵には相応しい女神とその神官だったのかもしれない、とはじめて思う。やはり、信仰はできそうになかったけれど。
 ファネルと剣をかわしたせいだろうか。戦闘班には順調に受け入れられているらしい。元々傭兵気質なのかもしれない、彼らは。
「多くはここで生まれ育った者ばかりだがな。お前の言う通りかもしれない」
 本をただせば傭兵の親を持つものが多いせいかもしれない、ともファネルは言った。親がどうのではなく、戦闘班にそういう性質がある、と言いたいのかもしれなかった。
 そうして三日が過ぎて行く。レイの方もエリナードにずいぶん慣れたらしい。面倒な雇い主だと本人は言っていたけれど、レイにとってはそのようなことは少しもないらしい。
「エリナードさんは字も綺麗だし、それほど手間のかかることが苦手にも見えない」
 たぶん自分を雇ってくれる言い訳だったのだろう、とレイは言う。その上で今は甘えさせてもらう、とも言った。
「生活が立ち行かないのは……困るし」
 エドガーとしても自分に任せておけ、とは言いにくい。本当ならば言いたいけれど、さすがにミルテシアから逃げ出してイーサウで暮らすにあたって借金をしている。隊での稼ぎとミルテシアでの蓄えで清算はしているけれど、おかげで懐がいい加減に寒い。レイに旨いものを食べさせてやりたいし、見苦しくない格好もさせたい。二人きりで入る風呂も気に入った様子だったから、それにも細々と金はかかる。
「……君と」
「うん? いや……悪いな、と思っちゃいるんだが」
「なにがだ? 僕だって、働いて稼ぐことはできる。――君ばかりに負担をかけるのは――」
「迷惑なんかじゃない」
「違う、そうじゃない。エドガー」
 ゆっくりと見上げてきた眼差しに射抜かれる心地。夜色の眼差しがエドガーをじっと見つめていた。
「僕だって君に好きなものくらい買ってやりたいと思う。――そう思うのは、だめなのか」
 胸の奥が詰まって喉が押し潰された。何も言えずエドガーは黙って首を振る。ぎゅっと腕に抱いたレイが小さく息をつく。安堵に聞こえた。
 だからレイはエリナードの下で書記を続ける。書類仕事ならば得手だから楽をして稼いでいるようで気は引けるけれど他には稼ぎようがないから。困ったように小さく笑った。
 エドガーは彼を執務室まで送り届ける間際、扉の前で一度レイの手を取る。大丈夫か、と尋ねるような気持ちでもあり、何かがあればすぐ駆けつけると知らせるようでもあり。レイは決まってうつむいたままそっと口許をほころばせた。それからエドガーは手首を掴む。そこにエリナードの腕輪があった。
「大丈夫だ、エリナードさんが一緒だからな」
 そう口にはする。が、内心は違った。せめて自分が贈ったこの飾りがレイの支えになりますように。祈っていた。レイはいつもそうだな、とうなずいては扉を見やる。その向こうで待つエリナードを見るように。
 訓練をしながらでもエドガーはそんなことを考えていられた。傭兵隊には若いころから所属している。自分が騎士階級の生まれだなどとは自分でも信じられなくなりそうなほど長く。だからこそ、多少の物思いはなんの問題もない。ちらりと横目で見やれば窓の奥、レイの仕事姿があった。そのときわっと戦闘班が沸く。
「ディアナだ。帰ってきたな」
 ほっと息をつくのはファネル。まるで班長代理からようやく離れられるとでも言いたげだったけれど剣をかわしていたのだ、エドガーにはわかる。無事に戻った仲間に安堵していた。
「ディアナ。新入りだ。エディと言う」
 名前を聞いていたからエドガーにも長が女性だとはわかっていた。が、思いの外にすらりとした人だった。戦闘の束ねをしているとは思えないほどに。
「ディアナよ。よろしく」
 にこりと笑って差し出してきた手を握り、エドガーは外見を裏切られたことに気づく。ディアナは確かに細身だった、けれど鍛え抜かれたしなやかさだった、それは。
「私が言うのもなんだが、よいのか、ディアナ。試しはどうする」
「あなたが試したんでしょう、ファネル? だったら私が文句を言える筋合いじゃないじゃないの」
「言えばいい。――というより、いい加減に私を頼るな。お前が束ねなのだから」
「そうは言ってもね。まぁ、いいわ。――エディだったわね、ちょっと付き合ってちょうだい」
 にやりと笑ってディアナは帰ってきたばかりだというのに剣を抜く。エドガーは無論付き合うつもりだった。むしろその方がずっと助かる。長に認められて初めて仲間だ。傭兵であるエドガーはそう思う。
「ファネル!」
 窓の向こうからエリナードが手を振っていた。どうやら手を貸せ、と言っているらしい。苦笑しながらファネルがそちらに向かいエリナードを抱いて戻る。
「……窓から飛び降りることになるとは思わなかった」
 一階とはいえ、まさか腰高窓を乗り越えたことなどレイはないだろう。エリナードに言われてついてきた彼もまた観戦をする。
「いいわね?」
「いつでも」
 エドガーの言い分に戦闘員がさっと歓声を上げた。して見ればディアナの腕は相当なもの、とエドガーは予想する。あっさりと予想は覆された。さすが現役の長、鋭いなどというものではない。はじめこそ防戦一方だったエドガーだったけれど、少しずつ呼吸が飲み込めてくる。おかげで三本のうち一本はエドガーのものだった。
「ここまでにしましょ。いい腕ね。――女に負けて、悔しい?」
「いいや、少しも。腕の良し悪しに男も女もない。俺の隊長は、やっぱり女だったしな」
 肩をすくめるエドガーにディアナは笑う。抜身の剣のようなしなやかな女だとばかり思っていたけれど、笑顔は驚くほど華やかだった。
「そういうことを衒いなく言えるなら、あなたはうちの仲間よ。ようこそ、戦闘班へ」
 再び差し出された手をエドガーは握る。ほっと息をついていた。これで正式に戦闘員だ。給金が出ると思えば涙ぐましい努力だとも思ってしまう。
「本当にいい腕してるわ。いまは私が勝ったけど、長期戦だったらどうかしら。ちょっと危なかったかもしれないわね」
「さあ、どうかな」
「腕に男も女も差はないかもしれない。でも体力には差があるからね。女の私は男の体力には勝てないわ」
「そこまで持ち込まないのが腕、とも言うけどな」
 エドガーの言ににやりとディアナが笑う。もちろんそうするだけの腕はある、という強烈なまでの自負。エドガーはこういう人間が嫌いではない。思わず笑みが浮かべば、二の腕が痛む。
「……レイ。あのな」
 握りしめられた二の腕。レイがじっと見上げてきている。ファネルに抱かれたエリナードが腹を抱えて笑っていた。
「……だって」
 きゅっと口をつぐんだレイの唇に指先で触れる。噛み切ってしまうと。それにレイは更にうつむくばかり。
「俺は危ないからだめだって言ってるの。わかるか。一応俺もディアナさんもまだ抜き身を持ってるんだからな?」
「ディアナで結構よ。そちらも新入り君?」
「レイだ。まぁ俺の……連れ合い?」
「……エドガー」
「だから! 人様にご説明するのに照れるの。その辺は汲んでくれると嬉しい」
 ぽ、とレイの頬に血の色が差す。冗談のようだった。人前でのレイはこんなにも素直だ。それが真っ直ぐな感情の表出だとはとても思えなかったけれど。もっとも、自分も同じかもしれない、とエドガーは思うようになっている。レイがそうしているよう、エドガーもまた他人の前では仲のよい恋人同士を演じて見せるのだから。
「あら、仲良しさん」
 くすりと笑ってくれたディアナに戦闘員たちが追随するよう笑う。ほっとした気配が漂い、仲間に気を使わせてしまったことに気づいたエドガーはばつが悪くなる。
「レイはエリナードさんの書類仕事をさせてもらってる。――それで」
 一度エドガーはレイを見やった。何事もなく見上げてくる眼差しに、心の奥が温かくなる。演技をしていない素に近いレイの目。それがどれほどの喜びか。
「ちょいと訳ありでな。もう少しでいい。レイが落ち着くまででいい。俺は護衛から外してもらえると、ありがたい。我が儘言って本当に申し訳なくは思う」
「あら、そんなこと? かまわないわよ。あんまり気を使うことないわ。この国は基本、訳ありばかりだもの」
 ぱちりと片目をつぶったディアナは屈託なくレイにも微笑みかける。それにほっとしてエドガーは長く息を吐いていた。戦闘班に加わると知ってそれだけが気がかりだった。
「……すまない、エドガー」
 ぽつりと聞こえたレイの声。うつむいたまま言う彼の索漠とした声。それがなければもっと安堵できたものを。ただ無言で抱き寄せるしかできなかった。




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