木蔦の家

 仕事の算段は後日、と言いおいたエリナードがファネルに抱かれて去って行く。その後ろ姿が見えなくなるまで見送ってしまったエドガーは、レイもまた同じことをしていると気づく。彼は二人の姿が消える間際、黙って一礼していた。
「あー、その。レイ」
「……なんだ」
「疲れた?」
 ここまで旅をしてきて、そして魔術師たちと長話をしてきた。疲れていないはずはない。それでも尋ねてしまう。ふ、とレイの口許がかすかにほころんだ気がした。
「……それほどでも。どうかしたんだろうか」
「いや。長旅だったし。元気なようだったらさっぱりしに行かないかな、と」
「あ……。うん。それは……」
「嫌だったら勧めない。別にいまじゃなくても――」
「行こう、エドガー」
 小さく微笑んだレイが見上げてくる。その夜色の眼差しに取り込まれてしまいたい。不健全な空想だな、と思いはしてもエドガーには止められなかった。
「あぁ、行こうか」
 そう言って背を返すだけ。ここで待っててくれ、と言って一度樹上の小屋に戻る。浴布の類がどこにあるかはファネルが説明してくれた。レイの下に戻ったとき、彼は手持無沙汰にぼんやりと木々を眺めている。
「レイ」
 呼びかければ、飛びあがった。手持無沙汰だなど、とんでもないことだったとエドガーは臍を噛む。レイは、あのレイ。佇んでいるだけでも、一人きりのいま、どれほど緊張していたことか。
「待たせた」
 けれどそれを指摘すれば、レイは嫌な気持ちがするだろう。せっかく立ち直ろうと努力をはじめたところだ。せめてここにいる。そう言った通りエドガーは何気なく彼の肩を抱く。
「……エドガー」
「うん?」
「その。嫌じゃない。とても……嬉しくはある。でも、少し……恥ずかしい」
 うつむいたまま歩みを進め、レイはぼそぼそと小声でそんなことを言った。思わず笑いそうになってしまった唇をエドガーは必死で引き締める。
「笑っただろう、いま」
「笑ってねぇよ」
「嘘だ」
 羞恥に耐えかねる姿を笑われた、と思ってくれたならばそれでよかった。本当は、違う。ただ、嬉しかった。レイが嬉しいと言ってくれたことが、嬉しくてたまらなかった。ゆえに緩んでしまった口許だなどと、決して言えはしないけれど。
 ファネルから聞かされていたとおり、公共浴場はすぐに見つかった。ずいぶん大きな建物で驚けばレイもまた目を見開いていた。そしてエドガーは更に驚くことになる。番人への支払いが、驚異的に安かった。本当にこれでいいのかと首をかしげてしまうほど。実際、一人分ではない、二人分だと確かめている。それでいいのだ、と番人は新参の住人に朗らかに笑ってみせた。
「あ、そうだ。小さい風呂があるんだったな? そっちが借りたいんだが」
「あぁ、いいよ。いまだったら空いてる。左の端だよ、扉があるからすぐわかる」
「それで――」
「追加料金かい? ないない、そんなもん。空いてりゃ誰でも使えるんだ。ほい、石鹸な。こっちはもらうよ」
 エドガーが求めた石鹸もまた腰を抜かしそうなほど安い。いったいどうなっているのだろうとわからないことだらけだった。ありがたいことに違いはないが。
「行こうぜ」
 レイを促せば、他人の、しかも男がいるときの常でレイはうつむきがちなままエドガーの袖をきつく握ってついてくる。番人はそんなレイの態度を少しも頓着しなかった。ほっと息をつくエドガーに、ようやくレイが顔を上げる。それに笑みを返してエドガーは浴場の扉を開ける。
「へぇ、すごいな」
 小さな風呂、と聞いていたからもっと小ぢんまりしたものかと思っていた。が、脱衣場だけでもずいぶんと広い。贅沢な造りでこそないものの、快適を通り越すような広さではあった。手早く脱いでしまえば、レイも背を向けて同じことをしている。隊の書記を務めていたレイはやはり外に出る機会の多いエドガーよりずっと白い肌をしていた。
「エドガー」
「う……なんだ?」
「じっと見つめられると、僕でも照れる」
 背を向けたまま言い放つレイ。声が笑っていた気がした。彼が見ていないからこそ、気を抜いて見惚れていたエドガーだ、さっとその頬が赤くなる。
「なんで見てるって……! いや、その……、だから!」
「熱い視線を感じた」
 言って今度こそレイは笑い声を上げては振り向く。困り顔でも、嫌悪に歪んでもいない。それにまずほっとする。エドガーは照れてどうしようもない、そう見えるようにと願いつつ浴室の扉を抜ける。途端にむっとした熱気。
「あ……すごい」
 背後から寄り添うようにレイが中を覗いていた。触れてはいないのに、レイの肌のぬくもりがぴりぴりと感じられるよう。何気なく一歩離れれば、黙ってレイが近づく。また一歩。同じことの繰り返し。じっとレイが見上げてきた。
「君は……嫌なんだろうか」
 真摯な眼差しで、言葉を失う。そうではない、と言いたくて、けれど言葉が喉に張りついてしまっていた。無言で腕を伸ばし、レイを抱きしめる。自分で事態をややこしくした気もしたけれど、腕の中のレイはほっと息をついていた。触れ合う素肌が、熱を帯びるより先、慌ててエドガーは彼を引き離す。
「エドガー」
「嫌じゃない。見ての通り、嫌じゃない!」
「……そうか」
 ぽつりとした呟き。うつむいたレイの口許は微笑んでいた。それにようやくエドガーは一息入れることができる。改めて浴室を見回せば、どこが小さな風呂か、と言いたくなるほど広かった。男三人が足を伸ばして充分に浸かれるだろう、これならば。洗い場も広々としていて申し分ない以上のもの。
「あー。入る?」
 言えばくすくすとレイが笑った。くつろいではいるらしい。そのことに安堵しておくべきだろう、とエドガーは苦笑する。
「まず、洗ってからにする。なんだか……綺麗で、申し訳ないから」
 旅に汚れた体だ、湯を濁すのは申し訳ない。言うレイにエドガーもまたうなずいていた。ふと壁に目を留めたエドガーは、湯船から湯を汲もうとしていた彼を止める。
「こっち」
 抱き寄せれば、そっと胸元に頬を寄せてくるレイ。その表情が見たい、そう思う。けれど顔を上げさせることはしなかった。見るのがやはり、怖かった。
「あ、わ……!」
 驚いたレイがぎゅっと背に爪を立てる。慌ててエドガーは大丈夫だ、と彼の肩を抱きしめる。おずおずと背後を振り返ったレイは、また目を見開いた。
「これは……」
「贅沢だよな? こんなもん貴族の屋敷でしか見たことないぜ」
 壁に備え付けられた器具から湯の雨が降り注いでいた。勢いよく降り注ぐそれがレイの背に当たり、髪に降りかかる。
「貴族の――」
 きゅっとレイの唇がきつくなる。内心でぬかった、と思いつつエドガーは石鹸を取っては泡立てていた。安い石鹸だったから泡など立たないかと思っていたのに、ふわふわの泡が立つ。その上香りまでついていた。
「俺も一度クレアの供で見たことがあるだけだけどな」
「隊長の?」
「あぁ。当時の隊長命令でな、リック隊長っていうんだが。俺を雇ってくれた恩人だ」
 一人前の隊員に育て上げてくれたのも、引退するときにタングラス侯爵家の武術指南役の職を斡旋してくれたのも、リックだった。リックがいなければすべての意味で自分はいない、そうエドガーは思う。
「情報工作とはいえ、傭兵を貴族の屋敷にぶち込むとは隊長も無茶させるもんだがな。まぁ、恩人だし隊長だし、逆らえねぇし。ちょっと貴族の屋敷に潜入して、な。クレアはあれで貴族の姫様だし」
「君は君で、騎士だし?」
「そういうこと。他のやつらだと礼儀作法から仕込まなきゃならないから。俺ら二人はその手間が省けるってリック隊長は笑ってたぜ」
 そこで見た、とエドガーは言う。たぶん、と心の奥では思っている、タングラス侯爵邸にもあっただろうと。レイもあるいは目にしたことがあったかもしれない。けれど話題に上げたのはそれではない、そんなものは夢にも知らない、エドガーはそんな態度を取り続ける。次第にレイの口許が緩んでいった。
「もしかして……」
 石鹸の泡を背になすりつければレイの気持ちよさそうな吐息。ことりと肩に頭を預けたままレイはされるままだった。
「隊長と……入浴したとは」
「言わない言わない! 絶対にない! エイメに女を感じないくらいない!」
「だって君は……もてると、兄弟も言っていたし」
「タスとユーノの戯言は頼むから忘れてくれ」
「忘れない。事実だと思う」
 どうしてそんなことだけはきっぱりと顔を上げて言うのだろう。溜息まじり、そっとレイの唇にくちづける。まるで彼がそれを待っていたような気がしたから。離れる唇を、名残惜しげに追ったのはレイだった。
「ほら、そっち向けよ。洗いにくいだろ」
「いや……石鹸」
「うん?」
 貸せと言われた石鹸を手渡せば、熱心に泡立てるその姿。あんまりにも熱心すぎてまるで子供が夢中になっているかのよう。もくもくと泡になっていく石鹸をレイは真剣に見つめていた。
「うわ」
 そしてそれをエドガーに塗りたくる。逃げていいだろうか。思ったけれど実行はできない。レイの手指が肌に触れて行く。石鹸の泡越しの、もどかしいような熱。不意にレイが抱きついてきた。
「レイ!」
 なんだ、と言わんばかりに見上げられた。抱きついた、のではなく背に腕をまわして洗っているつもり、らしい。天井を仰いでも、何をしても駄目だった。引き離そうとすれば、嫌がって縋りつく。
「頼む、レイ」
「……嫌だったんだな。やっぱり」
「嫌じゃない! 嫌じゃないけど……」
「でも、君は」
 言い訳を重ねるより早いとばかりエドガーの方が今度は彼を抱きしめる。そのまま体をずらせば敏感な部分が互いにこすれる。ふっと息を吐き身じろいだレイの顎先を捉えて見下ろした。
「嫌じゃないのは、わかってもらえたよな? ――ほしくなっちまう。だから、頼むから、やめてくれ」
「……やめたくない。君に求められるのはうれ――嫌じゃないから」
 嬉しいと、言いかけた気がした。つい、とそれて行くレイの眼差し。追いたくて追えなくて。エドガーは湯の雨を勢いよく降らせて二人の泡を押し流す。




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