なんとも言いがたい顔をしたエドガーを横目にエリナードがちらりと上空を見上げた。それに目を留めたのはレイ。何か、と問うまでもなかった。素晴らしい勢いでエリナードの元に舞い降りたのは一羽の隼。 「あ――!」 レイの驚きの声にエドガーもまた息を飲んでいた。隼に、ではない。隼が変化していた。猛々しくも美しい猛禽は、あろうことか一巻の縄梯子へと。 「頼むな、ファネル」 何も言わずエリナードはそれをファネルへと差し出した。訝しい顔をする彼へエリナードは大らかに笑う。 心底から羨ましくてならなかった、エドガーは。笑みをかわしあえる恋人がいる。それがこんなにもたまらない。隣にいるレイがふと手を握ってきた。何気なく見やれば目をそらされてしまったけれど。 「なにも俺が上がることねぇだろ。あんたが面倒見てやってくれよ。ここで待ってるからさ」 何か言いかけたファネルが小さく溜息をつく。それから致し方ない、と苦笑してはエリナードを小屋の傍らの木の根方へとおろす。そしてファネルは小屋へと向けてひょい、と手を振った。またも二人は驚く羽目になる。上から縄梯子が降ってきた。 「俺ら魔術師や神人の子らは魔法でなんとかしちまうんだけどな、あんたらじゃそうはいかねぇだろ? で、イメルが送ってきたこれの出番ってわけだ」 エリナードが言う間にもファネルはするすると縄梯子をのぼっていた。そして元の縄梯子を外し、新しいものへと取り換える。そのまま梯子を使わず飛び降りるに至って、レイが笑いだす。楽しくなってきたらしい、この国が。魔術師や、異種族の多いこの国が。エドガーも、それを楽しめたらいい、そう思う。否、楽しく思うだろう、いつもの自分ならば。けれどレイ。レイがいる。レイと、本物の関係を築くことのできない自分がいる。エリナードとファネルという仲のよい二人を目の当たりにしながらこの国に暮らすのはつらい、内心に呟く。けれどレイが楽しんでいた。だからこそ、ここに留まるだろう自分もいる。引き裂かれそうだった、己の心に。 「あ、また」 ファネルが仕種をすると、新しい縄橋子がまた樹上へと畳まれて行く。魔法なのだろう。魔法というものに憧れるレイだ、それにも目を輝かせていた。 たぶんそれはファネルとエリナードの心遣い。ある種の拷問を受けていたレイと知った彼らが、少しでもレイをくつろがせようとしてくれる温かい思い。嫉妬をする自分の醜さをエドガーは思う。 「やってみるといい。簡単だ」 梯子、と呼べば降ってくる、戻れと言えば畳まれる。ファネルはそう言う。言ってみれば魔法具なのだろう、この縄梯子は。唖然とするような贅沢だった。 「すごい。楽しいな、エドガー」 きらきらとしたレイの目。エドガーは無言で微笑んではうなずく。ふ、とレイの眼差しが翳った気がしたけれど、勘違いだったのかもしれない。 「あがるぞ」 言うファネルに従ってのぼりかけ、エドガーはレイを先にいかせようとする。が、彼は戸惑っていた。 「僕は――」 「ゆっくりでいい。落ちそうになったら支えてやるから」 「……うん」 ほんのりとした笑み。うつむいたその口許。ほころんだような、つぐんだような、なんとも言いがたい微妙なそれ。血の気の薄いレイの唇に一指しの紅が浮かんで消えた。 元々体を使うことのないレイだ、ファネルほど素早くもエドガーほど堅実でもない。何度か足をもつれさせながら上がっていく。小屋にたどり着いたときにはほっと息をついていた。 「こんなことじゃ、だめだな」 「慣れだろ? あんた縄梯子なんかのぼったことないだろうが」 「君は?」 「傭兵隊は意外と使うんだ。慣れてるぜ」 そうか、と言ったきりレイは口を閉ざす。嫌な沈黙ではなかった。辺りを見回すのに忙しくなってしまったらしい。 小屋の中はファネルが言ったとおり簡素なものだった。大きいけれど寝台は一台きり、作りつけの棚が壁にあり、そこには日用品の類がしまわれている。言ってみれば隊舎の部屋と変わりはないな、とエドガーは思う。違うのは火鉢くらいのものだろう。さすがに隊舎に火鉢はない。側に茶道具一式があるから、ここはやはり生活の場なのだと思う。 「いいな……」 ほっとしたレイの声。何よりここはレイにとってくつろげる部屋だろうとエドガーは思う。樹上であることから物理的に他人が入りにくい場所であるのも一つ、広すぎないことも一つ。そう悟っていて用意をしたのだとしたらエリナードに腹を立ててしまいそうなほど、レイにぴったりだった。 「説明するまでもないな? この通りの小屋だ、食事の類は先ほど言った通り。煮売り屋で買ってきて温め直す程度ならばこの火鉢でも可能だ。そこの棚には――」 しまわれている様々なものをファネルは丁寧に説明してくれた。こちらは人間で、傭兵隊員で、この手の物には馴染みがある。そう言ってしまってもよかったけれど熱心に聞いているレイがいたし、ファネルの好意を無にしたくもない。 「この家の借り賃は、誰に?」 あらかた説明が済んだころ尋ねたエドガーにレイが恥ずかしそうな顔をした。どうやら考えてもいなかったらしい。以前は侯爵家の書記だったのだ、知らなくても無理はない。そんなエドガーの目にレイが微笑む。 「借り賃は……いらないと思うが。いずれにせよ空家だからな。お前たちがここを出るときには、次の誰かが住む。その代わり、補修と補充は自分たちでやってくれ」 要はアリルカという国に働いて返せということだろう。エドガーは不思議な習慣だと思いつつありがたい。正直に言えば手元は心許ないにもほどがある。 「もし……」 「なんだ?」 「もし、出なかったら? ずっとこの国に住みたい、死ぬまでここに住みたいと言ったら?」 意外なほどに真剣なレイの眼差しにファネルが口許をほころばせ、けれど目許は逆に影を帯びる。なぜだろう。 「それはそれでいいのではないか? その頃にはお前たちが自分の家、と言えるほど自力で手入れをしているだろうしな」 からりと笑ってファネルは背を返した。エリナードが気になるのだろう、再び梯子を使わず飛び降りる。 「先にいくからな」 足下が危ないレイだ、万が一のこともある。エドガーは素早く下りて行く。上から覗いているレイは不安そうな顔をしていた。 「レイ、梯子使わないでいい。そこから飛んじまえ」 「え?」 「ほら」 両手を広げたエドガーに、ぱっとレイが頬を赤らめる。エリナードとファネルがにやにやとしていた。エドガーは気にも留めず笑みを浮かべ続ける。 本心を、見抜かれたくなかったから。エリナードとファネルが羨ましくて、だから自分たちもこんなに仲はいいのだと言いたくて。違うと知っている自分なのに、けれどだからせめて見せかけだけでも。その腕の中、意を決したレイが飛び降りてきた。当たり前のよう受け止めたエドガーを見上げ、息を弾ませて小さく笑う。 「……重いだろうに」 「そうでもないけどな。もうちょっと肉があってもいいと思う」 「……その方が、君の」 「うん?」 「いや。なんでもない。何も言っていない」 なにを言いかけたのか、レイはうつむいてしまった。首をかしげた先で間の悪いことにエリナードと視線があってしまう。向こうは仕方ないやつだとばかりにんまりとしていた。が、教えてくれる気はないらしい。 「どうだ、住めそうか?」 そんなことを言うエリナードはどうやら何も見なかったことにするらしい。顔を赤らめたままエドガーをレイは押しやる。まだ抱いたままだった。 「あぁ、悪い」 「かまわないけれど、少しは恥ずかしい」 「いいんじゃね? 俺なんて四六時中抱かれたまんまだしな」 「それは……エリナード、さんの体がご不自由だから」 「どうかな? そうでなくても離してくれねぇような気がするけどな、ファネル?」 そうだろう、と恋人に言うエリナード、返答をしないファネル。ぎゅっと胸の奥が掴まれた、と思ったときには手も掴まれていた。ちらりと見やればレイが手を握っている。そのまま何食わぬ顔をしてエリナードの側に腰を下ろす。 「今後は自分でやってもらうことにして。今日はおごりだ」 にやりとしたエリナードが手を閃かせればそこに大きな籠が現れる。くすりと笑ったファネルが次々と中身を取りだせば、温かい料理の数々。空腹だった、と思い出すような香しい匂いがした。 「腹減ったよな。あんたらの味覚に合うかどうかわかんねぇけど、俺はけっこう好きだぜ。ほとんど俺はラクルーサで育ったんだけどな。そっちとも味は違うんだ。ミルテシア風でもない。イーサウでもない」 「アリルカ料理、だな」 ふんわりとファネルの眼差しが和んだ。ここは多種族の国。ラクルーサとミルテシア、イーサウ同盟他シャルマークの味。そして神人の子らの好む味。いつの間にか入りまじりアリルカの味になった。それを見てきたファネルの語りがしみじみとエドガーの中に染みて行く。 「……元々この国は色々苦労した者ばかりだった。人間も、神人の子らも。その子らも魔術師たちも」 「俺もな、足がだめになって、ここに来た」 「当時の荒れようといったら目も当てられなかったからな」 ファネルの暴露にエリナードは彼の肩先を殴りつける。からからと笑って神人の子は相手にしなかった。 「そんなエリィもずいぶんと明るくなったものだ。無論、私がいるからではある」 「それを神人の子のあんたが言うな」 「慣れろ。――とはいえ、時が解決したことでもある。人の子の身に、時の流れとはかくも偉大なものだと、我々は羨ましく眺めているよ」 単に時間が解決する痛みだなどと言われればエドガーは反発しただろう。レイも聞く耳持たなかっただろう。けれどファネルだった。神人の子だった。彼らの種族は死ぬことがないのだ、と聞く。 「死にたくなるほどつらくても……」 レイの呟きにファネルは目を和ませたままうなずいた。それでも神人の子らは死ねないと。同時に、それほどの思いであったとしても、時が癒してくれることもある、隣を歩いてくれる人がいるのだから。そうも語っている、そんな気がした。 |