木蔦の家

 じっと見上げてくるレイの眼差しにエドガーは彼を見つめ返す。せめて自分はここにいる。それしかできないのだとしても。そんな内心など気づかなかったのだろうレイが小さく微笑んではうなずいた。
「どうしてでしょう。ファネルさんも、お二方も、あまり怖くはない」
 レイはゆっくりと彼らを見回した。自分に確かめるように。その言葉が嘘でも勘違いでもないのだと自らに確かめるように。確信を持ったのだろうレイがもう一度うなずく。
「そりゃなんでかねぇ?」
 気のなさそうなエリナードだった。どうでもよさそうで、エドガーは迂闊にも激昂しそうになる。すぐさまそれが彼の気遣いだと悟り得たのは幸いだった。
「えっと、その、さ。なんで怖いのかは――」
 イメルが言った途端に彼は腹を折って呻いた。じろりとエリナードを見上げる目つきは不穏なもの。それなのにファネルが大らかに笑っていた。
「もう少し人を慮るということを学んだらどうだ、イメル。それでさんざんフェリクスを怒らせたのだろうに」
「言わないでよ、ファネル。わかってるんだけどさ。やっぱり性分で……」
「粗忽なんだよてめぇは、昔っからよ」
 ぼそりとしたエリナードの怒りの声。レイはそれらを楽しげに聞いていた。それからエドガーを見上げる。
「やっぱり、怖くないんだ。それでも、立ち直ったとは、思えない」
「まぁ、そりゃ」
「でも。僕は立ち直りたいんだ。――いつまでも、君の迷惑になっているのは……嫌だから」
 呟いて眼差しを伏せたレイにエドガーは不意に違和感を覚えた。いつからだろう、彼が自分のことを君、と呼ぶようになったのは。前よりずっと親しげで、寄り添ってくるような心のぬくもり。気のせいだろうとは思う。けれど言葉遣いは勘違いではない。書記室時代は確かにお前と呼ばれていた。だからこそ、印象に残っていたのだから。
「偉そうに聞こえたら詫びるがよ、一応カレンの師匠として言わせてもらうぜ? ダチの師匠だと思って聞いてくれるとありがたいんだがな」
 にやりとエリナードが笑っていた。急な言葉に驚いたのだろうレイの眼差し。幼いほどに無垢で、エドガーは苛立ちが募る。そんな彼など知る由もなくレイは素直にはい、と返事をしていた。
「あのな、レイ。俺はあんたらのことは知らねぇも同然だ。でもな、建前だろうがなんだろうが、一緒に逃げてきたんだろ?」
「一緒に、ではなく、エドガーが僕を救ってくれたんです」
「だったらよけいにだ。あんたは迷惑がどうのなんて考えるべきじゃねぇと思うぜ? そりゃ立ち直んのは大事だ。生きてる限りはな、とりあえず歩けるときにゃ前向いて歩くのが筋だろうからよ」
 自分にも色々あったのだ、とエリナードは笑って言う。ばつが悪そうにイメルは顔を伏せ、ファネルはそっと微笑んでそんな彼らを見守っている。
「でもな、一緒に歩いてくれる人に対して迷惑だからってのはいただけねぇぞ。んなこたな、覚悟の上で歩いてくれてんだ。黙ってようが口出ししようが、そこにいるって決めてくれたやつに対してそりゃひでぇ言い草だぜ?」
「あ……」
「まぁ、若ぇからよ。まだまだそこまで気はまわらねぇわな。自分のことで手一杯、迷惑かけちゃだめだ、立ち直んなきゃだめだって気持ちは……まぁ、俺も経験はしてる」
 いずれ聞きたければ話してやる、エリナードは静かに笑っていた。その背を無言で微笑むファネルが支えている。体が不自由だから、などではなく、心に添うその姿。羨ましくて、胸苦しくて、悟られたくないエドガーはそっと眼差しを外すだけ。
「見ての通り、俺は足が自力じゃ動かせねぇ。魔法で補助することはできる。でもな、ファネルが迷惑だろうから何とかしなきゃならねぇ、なんて思い詰めることはねぇぞ?」
「その伝でいくならば、私はエリィの身の回りの世話をすることが少しも面倒ではない。むしろ楽しんでいる。――共に歩く、というのはよいものだ」
「な? 一緒にいるって決めてくれてる人がいる。だったらそれに縋るのは恥でもなんでもねぇんだよ。それに縋り過ぎて駄目になるって手合いじゃねぇだろ、二人ともよ」
 ぱちりと片目をつぶったエリナードを華やかにイメルの笑い声が彩る。その中でイメルは詫びていた。自分が気づいたほどだから、レイも間違いなく感じたのだろう。そっと彼に目を向けては微笑んでいた。
「その、とおりだと思います。――自分が男なのに、同性が怖い。これが……屈辱で。だから、僕は」
 ぎゅっと握られた拳。エドガーは黙って側に手を置く。縋ってもいい、どちらでも構わない。そんなつもりで。一瞬迷った末にレイは静かに手を重ねてきた。照れくさそうに微笑む彼に、エドガーは強張った笑みを返す。
「君の迷惑になりたくないという気持ちも、嘘じゃない、でも」
「エリナードさんがいま言っただろうが。俺は迷惑だとは思ってねぇよ。だいたい迷惑だったらとっくに捨ててた。捨てる機会はいくらでもあったろ?」
「あ……。確かに」
「な? だから、迷惑云々はここまでだ。それでいいよな?」
 話自体もそこまでにしておけ、そう言ったエドガーにレイは小さく微笑んで首を振る。本題は、ここからだとばかりに。
「エドガーは支えてくれる。――いままで確信を持ってなかったというのも、失礼な話だけれど。いま、よくわかる」
「ほんと失礼だな」
「すまない。いろいろ、あったから」
 くすりと笑ってレイはエドガーの手を離す。それなのに、そこに留まる彼の手。エドガーはそっぽを向いたままレイの手を取る。ほっとした気配がした。
「だから僕は、立ち直りたい。エドガーの側に、ちゃんといたいから。このまま、だめな僕でいたくない」
「レイ……」
「男の矜持、と思ってくれて構わない。僕が言うと、妙だけれど」
「どこが妙だ?」
 真剣に不思議だったエドガーの素直な疑問にレイの口許がほころんだ。それを微笑ましげに三人が見つめている。むしろその視線にこそ居心地が悪くなってエドガーは咳払いをした。
「そもそもの、事情をお話ししようと、思い、ます」
 レイは決心したはずだった。自分の側にいたいからどうのというのは言葉の綾だとしても、決心だけは嘘ではない。それでも彼は息を詰まらせる。舌がもつれる。エドガーはぎゅっとレイの手を握り返し、引き寄せる。真っ直ぐと魔術師たちを見やった。
「捕虜になった傭兵に起こりがちな拷問、と心得てくれればいい」
 鋭いエドガーの声に突如として厳しくなったエリナードの藍色の目。痛ましそうなイメルが視線を外し、ファネルが眼差しを伏せる。
「……拷問、だろうか」
「あれが拷問じゃなかったらなんだってのか。まず拷問って言葉の定義から変えなきゃならないだろうよ」
「エドガー、君は」
「あのな、レイ。なにからなにまで全部話さなきゃならないほど察しの悪い人たちじゃないだろ? だから、これでいいと思う。あんたが立ち直りたいのはよくわかってる。でも、隅々まで話すのは、自分で傷口に塩塗り込むだけだぜ? そりゃ別の拷問だろ。そんなことがしたいんじゃないだろ、あんたは」
 じっとレイを見つめた。揺れる眼差しが、笑みを浮かべるまで。ことりと額が肩先に預けられた。震える肩をエドガーは黙って抱く。言いたいことがあるかとばかり、魔術師たちを見つめた。
「そのとおりだ」
 ただ一言。エリナードの言葉だけ。それが重く響く。憤りであり、エドガーの言葉の肯定であり、立ち直るための時間があるという励ましでもある。レイはまだ震えていた。
「――昔、俺も傭兵隊にいたことがある。だから、その手の拷問は知らねぇでもない。話す必要はねぇからよ」
 ぼそりとしたエリナードの声からは先ほどの厳しさが綺麗さっぱり拭われていた。まるで洗い流したかのように。ほっと息をつくイメルとファネルにエリナードが小さく笑っていた。
「傭兵隊に?」
 レイの心から激情が去るまでの少しの間、自分はただここにいる、それを知らせたくて雑談をしかけるエドガーに、エリナードがにやりと笑いイメルが片目をつぶる。思わず苦笑してしまうほど息が合っていた。
「あぁ。青き竜って隊にいたぜ」
「黄金の悪魔、なんて呼ばれた最強魔術師だったんだよ、こいつ」
「当然だろうな。星花宮の魔導師が傭兵隊に所属していたのでは、在野の魔術師の迷惑というものだろうに」
「そりゃねぇぜ、ファネル! 俺だって当時は若かったんだっつーの」
「若すぎて色々やらかしたよねー」
「……だからな、イメル。お前は」
「あ……。ごめん」
 冗談だ、とエリナードがイメルを殴りつけながら笑う。が、先ほど言っていた経験、というのは傭兵隊時代のことだったのだ、とエドガーにも見当がつく。
「お前はどうしても一言多いな」
 ファネルにまでたしなめられるイメルの青い顔。それでもすでに二人ともがイメルを許している。見ているエドガーにですらわかるそれが、羨ましい。
 羨んでばかりだ、そんな自分にエドガーは嫌気がさす。どうにもならない、こんな自分がいるばかりかとも思う。投げやりな気持ちはだがしかし、レイに戻っていく。
 言葉の綾であれ、自分の側にいたいからこそ立ち直りたいと言ってくれたレイ。それだけを胸に抱いてでもかまわない。その言葉に相応しい自分でありたい。夢でも、幻でも、一時の綾であれ。
「もう、大丈夫だ。ありがとう、エドガー」
「あんまり無茶するな」
 顔を上げたレイの目許、かすかに涙の名残があった。人目が気にはなるけれど、エドガーはそっと指先でぬぐっていく。ちらりとレイが魔術師たちを見やり、けれど嫌がりはしなかった。
「僕が一線を越える無茶をしそうになったら、きっと君が止めてくれる。そんな気がするから」
「そりゃそうだけどな。まぁ……無茶するなってのは、常套句みたいなもんだ。止めるってわかってくれてるのは嬉しいけどな、それでも言う気持ちもわかってくれ」
「……ありがとう」
 もう一度レイの額が肩先に。イメルに茶化されるかと思った。が、思いの外イメルは無言で微笑んでいるばかり。はたと気づく。隙のある言葉もまた、イメルの心遣い。完全無欠の生き物などどこにもいない、完璧に立ち直る必要などない、そうレイに言ってくれているのかと。自分より先にレイはイメルの心を受け取っている、そんな気がしてたまらなかった。




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