木蔦の家

 翌日の夕暮れ間近、レイが不安そうにエドガーを見上げた。相変わらず、馬に二人乗りだ。ぽくぽくとした蹄の音が、いまだけは長閑。明るいうちには疾駆と速足を繰り返していた馬だった。
「カレン師は……大丈夫だろうか」
 呟いたレイの目にある色にエドガーは首を振る。カレンは確かに自分たちのせいで危険を背負った。けれどそれを案ずるレイなど見たくない。
「たぶん」
 そう言うしかなかった。無言でいるのも勘繰られるようで。そう思う自分の醜さをエドガーは真正面から見据える。
「それでも……」
「うん?」
「君が一緒で、よかった……」
 ほっと息をつくレイ。何を意図してのことかエドガーにはわからない。それでも言葉だけは、嬉しく思う。
「野営。準備するぞ」
 ちょうどもう少し先に木立がある。馬上からそれを見やっていたエドガーはそこまで、と馬を走らせた。元々休む必要はない、と言われてはいる。これは馬であって馬ではない、とも。それでも身についた習性というもので、時折馬の足を止めたくなる。
「エドガー」
 ふ、と見上げてきたレイの眼差し。淡く揺らいで小さく微笑む。エドガーは何も見なかったふりをして先を急いだ。不満そうな溜息も、いまは聞きたくない。
 二人きりの野営だ。それほど準備もいらなかった。水場を見つけ、焚火を作る。その程度で済んでしまう。デニスが準備してくれた荷物の中から毛布を引き出し広げればレイが手招く。
「お、いいもんがあったな。よく見つけたよ」
「少し、慣れてきたのかもしれない」
 照れて微笑む彼の手元には、去年の枯れた羊歯の一株。大ぶりで、かさかさに乾いていて、具合もいい。焚火の側に広げて毛布をかければ、座り心地のいい場所ができあがる。
「火、気を付けろよ」
 羊歯に燃え移って木立で火事を出す、などいう冗談のような被害は避けたい。言うエドガーにレイがむっとした顔をした。
「僕だって、少しは慣れた、と言ってるじゃないか」
 言いながら荷物を漁り、これもデニスが用意してくれた食料を取りだす。旅行用の携帯できる小ぶりな鍋に水と共に入れれば、立派な食事になるだろう。
 今頃カレンはどうしているだろうか。レイではなくともエドガーだとて、心配は心配だ。が、相手はあのカレン。むしろタングラス侯の心配をした方がいいような気がしなくもない。
 昨日、二人がカレンの家を出たのはまだ陽があるうちだった。狼の巣を走り抜けてしまおうと思っていたエドガーにカレンは言う。
「それじゃ追っかけてくれって言ってるようなもんだろうが」
 にやりと人の悪い顔でカレンは二人に幻影をかけた。エドガーはカレンの、レイはエイメの姿に。馬上にある二人は、誰が見てもカレンとエイメだ。
「丸一日で解けるようにしとくからな。とりあえずそれまでに距離稼げよ」
 ひらひらと手を振って、カレンは今度は自分たちに魔法をかけた。カレンはエドガーの、エイメはレイの姿へと。そしてその顔で二人は見送ってくれた。
「留守番はしといてやるからよ、さっさと戻ってくれ」
 カレンの言葉にエイメの姿となったレイが小さく笑った。腰を持って馬の上に押し上げていたエドガーは顔を顰める。レイが笑うのも無理はない、と自覚がなくもない。カレンがカレンとして喋っていても、この姿ではエドガーとして違和感がまるでない。
「気を付けて」
 レイではない笑い方だ、とエドガーは思う。エイメの内面が透けて見えるような、ゆったりとした笑み。エドガーは感謝と共にうなずいていた。
 馬上の二人の旅の外套にはエイメが施した魔法の文様。自分はカレンほどの腕がないから、獣よけ程度にしかならない、それでも気持ちだから、と言って描いてくれた護身の文様。二人の魔術師の旅姿、としては不自然ではなかった。
 アリルカまでの道は「馬」が知っている、とカレンは言った。大まかな陸標は聞いてきたけれど、エドガーはそれに関して心配はしていない。カレンがそう言ったならば、それは事実だ。
「エドガー」
 レイの呼び声に、ぼんやりと火を眺めていたエドガーは振り返る。そしてほっとしては彼を腕に抱いた。
「どうしたんだ、君は。なんだ……その、急に。驚く」
 ぼそぼそとしたレイの声に慌てて腕を離せば、そうではない、と甘く睨まれた。ためらいながらもう一度抱けば、すり寄せてくる頬。
「急に、どうしたのかと思ったんだ。今日は一日中、そっけなかったから――」
 それを気にしていたのか、と途端にエドガーは申し訳ない気持ちになる。いまならば許される、そんな気がしてレイの頬に触れれば、促す必要もないくらいすんなりと彼は見上げて目を閉じる。タングラス侯の訪れに憔悴してしまったレイの唇は、普段より少し乾いていた。
「あ……」
 腰を抱き寄せれば、思わず上げてしまったのだろう声。咄嗟に旅の途中と思い出せたのはよかった。それでもレイを離せば彼の引き締めた口許が見えてしまう。
「いや、その。ここで、それは。ないだろう、と。まぁ、そういう?」
「君は何が言いたい」
「お互い、いい大人だし。ここではじめるのは、ちょっと」
「エドガー! 僕は……そんな気は……。なかったわけじゃないけれど、その!」
 冗談だったのに、生真面目に赤くなられてしまった。しないしない、と笑ってレイを腕に抱く。まだ文句を言いたそうな顔をして、それでも寄り添ってくるレイ。時折鍋の様子を見ながらずいぶんと長い間黙ったままだった。
「エドガー。もう一度、聞いてもいいだろうか?」
「うん? あぁ、悪い。今日はどうしてそっけなかったかって? そりゃ、あんたがエイメの顔してたからだ。さっきだろ、ようやく元に戻ったの。ほっとした」
「エイメと仲がいいじゃないか。そんなことで僕は――」
「仲はいい。それは否定しない。でもエイメとそういう仲になりたいと思ったことは一度もねぇよ!」
 からからと笑ったエドガーにレイは不思議そうな顔をした。腕の中から見上げてくる彼の眼差しが、夜に揺らいでいる。秋の日暮れは早く、もうとっぷりと暮れては焚火の明かりがちらちらと彼の目に映っていた。
「中身はあんただってわかってても、エイメの顔してるのに、こういうことはしにくいさ」
 ちゅ、と音を立ててくちづければ、そっと笑うレイ。それでもまた、不満そうな顔をしていた。あるいは何度もこんなことをし過ぎただろうか。決して本物の恋人ではない自分なのだから。思うエドガーの胸元をレイがわずかに握る。
「……僕は、顔が誰であれ、君は君だと思うのに」
「実はカレンが好みだったとか?」
「どうして君はそういうことを。人が真面目に言っているのに」
「すまん。ほら、そろそろできるぜ。食って寝よう。明日もまだ道は遠そうだ」
 レイが何かを言いかけた。黙ってしまったのは、なぜだろう。二人きりの道を、できれば楽しく過ごしたいと思ってはいるエドガーだ。レイのことが、知りたい。レイが何を思っているのか、知りたい。だからこそ、何も聞けなくなってしまう。どうしてそんなことが聞きたい、と問われれば答えられない自分だとエドガーは思う。
 二人きりの野営だ。完全に眠ることはしないエドガーだった。レイが同じ傭兵仲間だったなら、交代で見張りをした。が、レイは黒猫の隊員とは言っても非戦闘員だ。エドガーは眠るでもなく起きるでもない半覚醒状態に身を置いている。隣に横たわり、身を寄せて眠るレイのぬくもりを感じながら。
 もし、自分の本当の気持ちをレイが知ったならば、彼はどうするのだろう。不安と言うならばそれが一番不安だった。カレンでも、黒猫の将来でもない。タングラス侯の追手を撒く自信くらいならばある。レイ一人が、彼に知られることこそが、不安。
 かさこそとした夜の音。獣が立ち止まり、エイメの魔法にだろう、去って行く。熾火にした火のかすかな匂い。レイが身じろぎ、エドガーに縋りつく。
「大丈夫だ。ここにいる」
 耳元に囁きかければ、弛緩するレイの体。なぜ自分なのだろうとエドガーは思う。どうしてレイはついて来てくれるのだろうかと。翌日も遅くなって、その問いをレイにされるとは思ってもいなかった。
「聞いてもいいか?」
「なにを?」
「……どうして、君は僕をここまで守ってくれるんだろう」
 ぽつりとした呟き。馬上でうつむいたレイは、その拍子に体勢を崩す。静かに力強いエドガーの腕が彼を支えた。その実エドガーは慌てている。本音などとても言えない。
「だって、そうだろう? 君は、それは確かに問題はあったと思う。でも、僕と一緒に逃げなくても」
「それこそな、レイ。あんたはこうやって逃げ出すよりカレンに守ってもらった方がたぶんずっと安全だった。俺はしがない傭兵だ。この腕でしか守ってやれない。カレン、本人はああいうけどな、イーサウの重鎮だ。都市連盟あげてあんたを守らせるくらいはできるぜ」
「それでも僕は……君がいい。僕は、何もできない。自力で身を守ることもできない。同じ守られるなら……君がいい」
 ことりと預けてくる頭。甘くて、苦くて。エドガーは答えられない。それはどういう意味なのかとは、決して問えない。問えば、この時間まで終わってしまうような恐怖がある。せめて、これだけは死守したい。
「だから、守ってもらってる僕が言うのは、違う。それでもどうしてなんだろうとは、不思議に思う」
「……まぁ、成り行きと趣味、かな。ほっとけないだろ、一応は関係者だし」
「一応、かな」
「だろ。あんたを逃がしたのはそもそも俺だからな」
 馬上で肩をすくめれば、馬が嫌そうに振り返る。そんなところまで忠実に生きた馬を再現しなくともいいだろうに。
「――ほんの少し、あの家に生まれてよかった、と思うようになってる、いまは」
「こうやって旅に出られるから? まぁ、普通は旅なんかほとんどしないもんな」
「そう、かな。……あぁ、そうだな」
 タングラス侯爵家の庶子として生まれてよかったはずなどないだろう。レイがそう思った理由のわからないエドガーには、そう言うしかなかった。だからこそよけい、レイが落胆したのだろう理由もまた、わからなかった。




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