木蔦の家

 いまにも突っ走ろうするカレンをエドガーはなんとか止める。必死の努力で繋ぎとめ、クレアに向き直った。
「なんだ?」
 早くしろ、と言わんばかりの怪訝な顔。エドガーは小さく苦笑する。自分は落ち着いている、慌てているのはそちらだとばかりに。無論、本当はたぶん逆だ。
「隊長、清算をしてくれ」
 言われた途端、クレアが渋い顔をした。どうしてそのまま忘れて旅立ってしまわない、と。はたと気づいた表情のレイが生真面目にクレアを見つめる。
「すまないが、給金分だけじゃ借りが返せねぇ。馬売ってくれ」
 ミルテシア脱出の際に支給された様々なもの。働いて返すはずだった借金がまだかなり残っている。レイがこくりとうなずいている。
「僕の給金分を足しても、まだ足らない……とは思うのですが」
「足らないよ、レイ。それはね。だが……エディ、馬はだめだ」
「なんでだ?」
「あのなぁ、エディよ。今更お前に機動力の重要性を説く羽目になるとは思ってもみなかったんだが、私は」
 傭兵にそれを言うのか、とクレアは顔を歪める。エドガーにもわかってはいる。逃亡に際して何より大事なのは機動力。馬を手放すのは危険でもある。
「――なに、二人きりだ。動いてかわすより隠れてかわすさ」
 肩をすくめたエドガーにレイがそっと微笑んでうなずいた。クレアとヒューが黙って首を振る。それは嘆かわしげに。
「そんなことが――」
「クレア隊長。それはこっちで面倒見よう。とりあえずエディの馬は買い取って、そんで借金きれいになるのか?」
「なるよ、カレン師」
「だったらそれで終いだ。あとは私に任せてくれるかい?」
 任せよう。クレアが言ったのはしばらく経ってからだった。その間じっとクレアはカレンの目を見ていた。なにをどう納得したのか、エドガーにはわからない。それでもクレアが諦めたのではなく、納得したのだと感じた。
「エディ、レイ。二人とも、名簿には残しておくよ。ほとぼり冷めたら帰ってきな」
 そっぽを向いてクレアは言った。ぶっきらぼうで優しい手がレイの襟に黒猫の徽章を留める。エドガーは何も言えない。隣で無言のレイが頭を下げていた。彼も感極まるものがあったらしい。
「よし、行こうぜ。隊舎の前で待っててくれ」
 気楽に片手を上げたカレンが出て行く。扉の前、ヒューが送ってくれた。何も言わず代わる代わるに二人の肩を叩いただけ。かすかなヒューの笑みが二人を見送った。
「……あ」
 隊舎の前、カレンを待っていた。ふと気づいたエドガーが上げた声にレイが訝しげな目を向けてくる。何も気にしなくていい、と目顔で言えば目許が険を帯びる。
「……たいしたことじゃない。あんた、ヒューに触られても平気だったな、と思ったんだ。それだけだ」
「あ……。それはその。たぶん」
「仲間だから、かな?」
「――動揺してたから、だと思う」
 なるほど、と笑ってエドガーはレイの肩に触れる。それが不満だと言いたげにレイは寄り添ってくる。まだ動揺は深いのだろう、とエドガーは思う。そっと肩を抱けば小さな吐息。レイが彼を見上げて何かを言いかけたとき、カレンが戻る。そしてエドガーは深い溜息をついた。
「あんたなぁ」
 カレンは長身だ。男と並べばさすがに細いけれど、それでも細身の男性と見えないこともない。短く切った髪や厳しい目も柔らかさとは無縁に精悍だ。まして、エイメを抱き上げていたりすれば、なおのこと。どこからどう見ても色男が貴婦人を抱いているようにしか見えない。
「うっせぇ。言うんじゃねぇわ」
 自分でもどうやら自覚はあるらしい。渋い顔のカレンを抱かれているエイメが笑った。冗談のようその首に腕を投げかけているものだから、ここは芝居小屋か、と言いたくなってしまう。
「でもカレン様、素敵だもの」
「頼むからやめろ、エイメ。師匠にばれたらまた女の子だまくらかすのかって言われるじゃねぇかよ」
「騙したのかよ?」
「誰が騙すか!」
「あんたが?」
 他に誰がいるのだ。言ってのけたエドガーにカレンはさも嫌そうな顔をする。それから一転にやりと笑った。その笑みに不穏なものを覚え、エドガーはついレイを背に庇う。くすくすと彼が笑い自分のしたことに気づく有様。
「あー、その。カレン。代わろうか?」
 思えばこれでもカレンは一応は女性だ。信じがたい事実ではあるけれど、生物としては女性のはずだ。ならばこれでも男の端くれ、自分の方が力はあるだろうと提案したエドガーにカレンは嘆くよう首を振る。
「あんたな、考えろよ? 両手がいるだろうが両手がよ。エイメは私が守ってやるさ。だったらあんたは誰をどうやってどうするんだ? ちゃんと役目が別にあるだろ」
 はっとしてエドガーは緊張した。こんなところで馬鹿話をしていられる状況ではなかったと。どうにもカレンがいると調子が狂う。否、狂わしてくれている。よけいな力は抜けと。それでも勘が危ぶまれた。ゆっくりと呼吸をし、息を整える。これから戦場に立つように。それを見定めたカレンがにやりと笑う。
「わかったらいいさ。行こうぜ。私の家だ」
 つかつかと歩いて行くカレンはエイメを抱いたまま歩調がまるで揺らがない。これでは手伝いを申し出た自分が馬鹿を見ただけだ、エドガーの内心をどう感じたか、レイが腕に縋ってくる。
「レイ?」
「あ……いや。邪魔か?」
「全然」
 ふ、と微笑めば、安堵して微笑むレイ。カレンの言葉がレイにも理解できていたのだろう。どこでタングラス侯の手の者が見ているかわからない。確実に、イーサウに、あるいは狼の巣の中にまで手勢は入ってきている。タングラス侯自身がどこかで見ている可能性すら否定がしにくい。
「――まさか、ご自身でお見えになるとは、僕は思わなかった」
 ぽつりとレイが呟く。前を歩くカレンとエイメは聞こえなかったふりをしてくれた。エドガーは黙ってレイの肩を抱く。腕から腰へ、縋る場所が変わるだけで、こんなにもレイが温かい。そのぶん、彼がどれほど震えているかも感じられた。
「不遜な言いぶりだとは、わかってる。それでも――気持ち悪かった」
「当たり前だ」
「そう、かな」
「当然だ。あのな、レイ。侯爵は、全然自分が悪いと思ってなかっただろ。自分がここまで下手に出たんだからあんたが帰ってくるのは既定の事実だって思ってただろ。気持ち悪くなかったら馬鹿だろうが、それ」
「……そうか」
 ほっとしたレイの吐息。肩先に添えられた頭。歩きながら揺れながら。レイが隣にいる。それだけで充分だとエドガーは思う。このまま彼を守り続けて行かれたならばどれほど。
「エディ」
 ふっとエイメが抱かれたまま振り返った。その笑みにどうしてだろう、胸が突かれた。何も言えないエドガーにエイメは微笑み続け、レイを見やる。
「レイ君。つらいこともあるけど、でも楽しいこともあるわよね?」
 そんなに簡単に言っていいことではないだろう。言い返そうとしたエドガー、けれどレイはエイメにうなずいていた。
「生まれたくなんかなかった。でも、タングラス侯爵の下にいたからこそ、僕はエディに会った。それは幸せだったと思う」
「ほらね、エディ? レイ君のほうがずっとしっかりしてるじゃない。あなた、いい加減に覚悟を決めなさいよ」
「覚悟?」
 そんなものならばとっくに決まっている。レイを守り続けること。それだけは何があっても決めている。
「エイメ、やめとけよ。そいつにいまなに言っても通じないぜ?」
「それでも言っておけば後で理解する日も来ますもの」
「来るかねぇ?」
「えぇ、きっと」
 ふふ、と笑ったエイメがカレンの肩に頭を預ける。話していて疲れたのだろうとはわかっている。なにしろ彼女は病み上がりだ。
「どうだ、エディ。羨ましいか?」
「なんであんたを羨まなきゃならねぇんだよ」
「私を、じゃないさ。こんなに風にしてみたいと思ってるんじゃねぇのかなぁと思ってな」
 喉の奥で笑ったカレンに緊張を見てとる。エドガーは周囲を何気なく警戒した。確かに違和感がある。普段ならば感じない視線。タングラス侯の手勢がどこからか窺っている。だからこそ、カレンがふざけている。エイメを抱いたカレンとレイの肩を抱いたエドガー。この組み合わせでここから逃亡の算段を付けるのだとは誰も思うまい。
「……エドガー」
 小さくレイが呟いて見上げてこなかったならば、カレンを褒めたい。傭兵仲間のような勘と心配り。目も鼻も利く素晴らしい仲間と。
「君は」
「あんたも知っての通り! エイメは仲間で女と思ったことは一度もねぇし、よってカレンが羨ましくもない!」
「あら、エディ? それはそれで失礼な言いぶりよ? 私、魅力ないかしら?」
「ある。だから、僕はとても不安になる。エディの側にはエイメがいる。カレン師だって魅力的だ。隊長だって、やっぱり素敵だ」
「ですって、エディ?」
「……だから、少し、ほっとしている」
 うつむいて、レイは肩を抱かれたままエドガーの胸に顔を伏せた。エドガーは何を言い出したのかと戸惑ってもいない。他人がいる場所でのレイの戯言はいまにはじまったわけではなかったから。
「そうなの、レイ君?」
「あぁ……だって、また、二人きりになれるから」
「惚気ね」
 くすりとエイメが笑う。カレンまで笑っていた。笑われてエドガーもまた苦笑を浮かべはする。けれどレイの本心はどこにあるのだろう、そんなことを思っていた。
 そして彼の本心がどこであれ、彼の言葉だけは自分にとっても事実だ、そう思う。また逃亡する。二人きりになる。どこまで行くのだろう。いつまで二人きりでいられるのだろう。不安がないはずはない。けれど心躍ってもいた。




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