木蔦の家

 エドガーの覚悟が決まるのを待っていたかのようカレンが扉を開いて再び現れた、その背後に壮年の男性を従えて。エドガーも無論レイも知っている、タングラス侯爵本人だった。
「待たせちまったかな?」
 にやりと笑ったカレンに侯爵はぎょっとした顔をした。イーサウ自由都市連盟の重鎮でもあるエリナード・カレンだ。このような無頼じみた人間とは思ったこともないだろう。
「いいや、カレン師。そろそろ飽きはじめていたところさ」
 同じような顔をして答えるのはクレア。いつもと同じよう、傍らにヒューを従えて。その側に、エドガーとレイは立っていた。
 エドガーは訝しい思いを隠せない。タングラス侯本人が現れたのもまず驚きではある。だがそれ以上に彼が一人でここを訪れるとは。おそらくはどこぞに私兵の一隊を待たせてはいるのだろう、それは間違いない。けれどここに、一人で、現れるなど。考えたこともなかった。
「カレン師と言ったな。彼らは何者だ」
 重々しい、けれど少しばかり憔悴したような侯爵の声。レイはじっと実父に当たる侯爵を見ていた。なんの感情も浮かべない目で。それでも時折ひくりと指先が動く。エドガーは無言でその指に触れる。繋ぎはしなかった。実父の前で弱みをさらしたくないレイだと気づいていた。
「幸運の黒猫隊、隊長のクレア殿と副隊長のヒュー殿だ。閣下が彼らの追討を依頼した傭兵隊の一つが黒猫だったはずだが」
「私ではない。息子のしたことだ」
「これは奇妙な。侯爵家において家督前の息子が父に勝るとはな。ミルテシアとはそういう国だったかな、クレア?」
「私も聞いたことがないね」
 カレンが矢面に立ってくれていた。イーサウにあるいは危機が降りかかりかねない、エドガーとしてはそこが不安ではある。が、カレンは個人の責任で押し通すつもりだと態度で語る。ありがたくて涙さえ出そうだった。
「――レイ」
 カレンとの口論を押しやって、侯爵はレイを見つめた。その目にあるものに再度エドガーは驚く。紛れもない父としての情愛。信じがたかった。
「お前に何があったか、聞かせてもらった」
 ぎゅっとレイが体の脇で拳を握る。エドガーはただそこにいる。そうすることで彼の力になれるように。レイが寄り添うでもなく、けれどそのぬくもりが側にある。
「今後お前に不都合は起こらない。私自ら監督しよう。屋敷に戻るといい。もう、心配は要らない」
 逃げ回る必要はないのだ、タングラス侯はそう言うのか。元凶であるチャールズをどうするのかは知らない。けれど侯爵自身が彼を守る、と言っている。レイは。思わず見やったエドガーが目を瞬く。それほど彼は厳しい目をしていた。
「――御前様は、ご存じでいらっしゃったのでしょう?」
 一転、眼差しを伏せたレイ。その場にいる誰もが彼の身に起こったことを知っている。だからといって語りたいことではない。
「まさか」
 淡々と返答する侯爵に、エドガーはきっと目を向けた。その声音は、確実に知っていた、と語っている。レイはけれど、苦笑しただけだった。
「ご存じない、と思いたかった。僕は――そう信じていました。でも、やっぱりご存じでいらっしゃいましたね」
 そっとレイの片手が上がり、静かに顔を覆う。泣いているのではない、笑っていた。嫌がるかもしれない、思いつつエドガーはその肩に手をかける。よろけるよう、レイは彼にもたれた。
「だが――」
「ご存じで、止めなかった。ご存じで、放っておいた。ご存じで、僕がいいようにされているのを眺めてらした! ……今更、御前様をどう信じればいいのか、僕には、それがわからなくなりました」
 激高し、揺らぎ、消えて行くレイの声。タングラス侯はそれに衝撃を受けたよう黙った。見てみぬふりをしていたのは確かなのだろう。それでも、ここまでレイが傷ついているとは考えたことがなかったのかもしれない。自分の息子が、もう一人の息子に何をしていたのか。あまりにも考えが足らない、エドガーは断じる。かつて指南役として侯爵を尊敬していた自分を殴り飛ばしたかった。所詮は貴族、と侯爵がどのような人間か深く考えることもなく表面だけを見て尊敬していた自分。侯爵と一緒になってレイを裏切った気分だった。
「お間が望むならばチャールズは」
「望みます。二度とお目にかかりたくない! 僕の前に二度と現れないでください、御前様も、チャールズ卿も。誰もかも!」
「レイ――」
 思えばタングラス侯はレイを彼の本名である「レイラ」とは一度も呼んでいない。ほんの少し、思わなくもない。彼には彼なりの情があったのかと。それでも許す気には到底なれなかったが。
「私自らここまで足を運んでもか、レイ。このような、下賤な者どもの同席を許しさえしてもか。レイ、頼む」
「頭を下げようが土下座をしようが僕はお断りいたします、閣下。あなた様がどなたであろうとも、僕の屈辱を見捨てた方に違いはありません」
「レイ、頼む。私は」
 揺らめく侯爵の足が一歩、レイへと踏み出された。悲鳴をこらえたレイの気配。喉の奥でこらえ、レイはエドガーに寄り添う。そしてはじめて侯爵がエドガーに目を留めた。
「モーガン。お前が我が子を守護してくれたことに感謝する。無論、咎めるつもりなど毛頭ない。以前のよう――」
「お断りいたします、閣下。指南役としてお仕えした日々は短いものでしたが、閣下のことは尊敬申し上げておりました。ですが閣下はあまりにもご家中のことに配慮が足らなすぎましょう」
「ならば、それも含め――」
「いいえ、閣下。ご覧になりませんでしたか、レイの顔を。閣下が我が子とお呼びになったときの、彼の表情を、ご覧になりませんでしたか。――この世の終わりのような顔をしていたものを」
 隣にいた、ましてタングラス侯を真正面から見ていたエドガーだ。レイの表情などつぶさに見ているわけはない。けれど気づいていた。気づかれている、とレイもおそらくは気づいていた。
「……エドガー」
 見上げてきた眼差しが、濡れていた。ほんのりと浮かぶ泣き笑いのような夜の色。黙ってエドガーは首を振る。何も言わなくていいと。
「万が一、僕が戻ると言えば、モーガンはついて来てくれることでしょう。……たぶん」
「たぶん?」
「言葉の綾だ」
 眉を上げたエドガーにレイが小さく笑う。少しでも気が楽になればいい、そんな思いは伝わったらしい。クレアとカレンが顔を見合わせて肩をすくめていた。
「そうなったら、モーガンは犯罪者になってしまう」
「私はモーガンを咎めぬと」
「いいえ、閣下。違います。お屋敷に戻れば、その日の内にモーガンは閣下とチャールズ卿を手にかけかねませんから。僕はモーガンを犯罪者にしたくはない。だから戻りません」
「あー、レイ? そういうことは言葉にしちゃだめだぞ? それだと思いっきりエディが疑われるからな?」
 頭痛をこらえるような、それでも笑っているカレンだった。きょとんとしたレイの顔、それからまずかったか、と見上げてくる目。エドガーは肩をすくめて答えない。そのとおりだ、と思っていた。
「両名は我が麾下。隊を預かるものとして、閣下。二人とも隊を離れる気はないと言っている。どうぞお引き取りを」
 にこやかなクレアの言葉にタングラス侯が顔を顰める。その顔を覗き込んだのはカレン。いったいどんな顔をしていたものか、侯爵が青ざめた。
「念のために言っておこう。二人は黒猫隊の隊員であり、クレア隊長の保護下にある」
「レイが傭兵など――」
「事実は事実。もう一つ。二人は我が友。このエリナード・カレンの友だ。両名に不都合があればこの身を敵にまわすと思うがいい。リィ・サイファの塔の後継者を敵にまわす覚悟があるかな?」
 にやりと眼前で笑ったカレンにタングラス侯が下がった。魔法に疎いミルテシアだからこそ、リィ・サイファの塔の存在はある意味では知れ渡っている。伝説に彩られたものとして。
「戻りたくなれば、いつでも戻るがいい。レイ。私はいつまでも待っている。最愛の我が子よ」
 カレンへの恐怖を押し隠すこともできず、侯爵は言った。レイの返答はない。肩を落とし、それでも彼は去って行く。出て行く前、もう一度レイを振り返った。彼は何も見ていなかった。
「レイ――」
 タングラス侯の姿が見えなくなった途端だった。レイの膝が崩れ、口許を押さえる。えずきかけ、腹を折る。
「我慢するな、レイ。エディ、背中!」
 吐き気に耐えるレイに、耐えさせるなとクレアの声が飛ぶ。戦場で聞くようなその声に咄嗟にエドガーは従う。エドガーが背中に触れた瞬間だった。吐かせようとするまでもない。レイがその場に吐いたのは。ぜいぜいと荒い息をつく。真っ青な顔のまま、クレアを窺う。
「汚してしまって――」
「とりあえず黙っとけ、レイ。まず始末しちまうからな。ちょっとじっとしてろよ」
 カレンの言葉の意味などわからなかっただろうレイは、けれど動くなと言われたことには従った。その目が見開かれる。汚れた床も服も口許も、カレンの操る水が辺りをさっと撫でただけできれいに消えてなくなった。差し出された水を口にしたレイは血色を取り戻しつつあった。魔法に憧れがある彼だとカレンは知っていてやったのだろう、たぶん。立ち上がらせるために。次の行動に移るために。いずれ、エドガーは自分にはできないことだと自嘲していた。
「カレン師、お手数をかけて申し訳ない」
「気にするようなことじゃねぇよ、隊長。――ったく、いけすかねぇジジイだな、ありゃ。さっさと逃げた方がいいぜ、エディ。諦めるかどうかわかんねぇぞ」
「言われるまでもねぇ」
 なんとか立ち上がったレイに手を差し伸べれば、今度は嬉しそうに縋ってきた。やはり心細かったらしい。まだ頼ってもらえる、そのことに何より安堵した。
「で。行先に当ては?」
 クレアの鋭い声にエドガーは背を伸ばす。事態の急変にまだ頭がついて行っていないのは事実。どこと言われても当てなどない。
「――エドガー。僕のことなら気にしなくていい。どんなに大変な道でも、君がいればいい」
 どうやらレイは自分の負担を考えて悩んでいる、と解釈してくれたらしい。ありがたいより申し訳なくなるエドガーの内心を汲み取ったのだろうカレンがにやりと笑う。
「だったらちょいとお使いを頼もうか、エディ」
「使い? どこの、誰に、何を」
「畳みかけるんじゃねぇよ。隊長、エイメの手が借りられるかい?」
「あなたが大丈夫だと思う範囲内でなら。言うまでもないがね」
「ありがたい。借りるぜ」
「ちょっと待て、二人とも。何を考えてるんだ!」
「そりゃ、お前らを救う方法を」
 声を合わせた二人の女性にエドガーとレイ、双方が唖然とした。笑いだしたのはレイ。頭を下げたのもレイ。エドガーは何もできず呆然と彼らを見ていた。




モドル   ススム   トップへ