十日が経ち、二十日が経つ。エイメはカレンの手厚い看護もあり、なんとか持ち直した。それを誰より喜んだのはエドガーでもクレアでも兄弟ですらもなく、レイだった。ちりちりとした嫉妬を感じながら、エドガーはそれでもレイのために喜ぶ。せめて、そのふりはする。エイメの回復を喜ぶ気持ちは嘘ではなかったけれど、焦げつくような胸の奥の臭いもまた、嘘ではなかった。 そのレイは、エドガー小隊帰還より、エドガーの側を離れたがらなかった。夜はぴたりと寄り添って眠り、エドガーが起き出すと震えて目覚める始末。出勤前には玄関口でほんの少し立ち止まり、くちづけを求める。そのほんのりとした、含羞んだような眼差し。本物の恋人同士のようで、嬉しい反面、複雑でもあるエドガーだった。 「よう、エディ」 カレンが隊長執務室に現れたのは午後のこと。自衛軍の再訓練に忙しいエドガーはクレアとその相談の最中だった。 「おう。――顔色悪いな? まだ疲れが取れねぇ?」 エイメはまだ自室で療養中だ。ほんの二日前、カレンは自分の家に帰ったばかりだ。それまでエイメの側から離れず看病をしてくれた。 「まぁな。それもあるにはある。が、ちょっと、な」 ちょい、とエドガーだけを手招いた。クレアがそれに渋い顔をして見せながら笑っている。クレアの背後、仕事をしていたレイの眼差しがエドガーの背に刺さるよう。それを気にした風もなくカレンは部屋の片隅にエドガーを呼ぶ。 「悪い知らせだ」 それだけでぴんときた。さっと顔色が悪くなったのは、今度はエドガー。黙ってレイが立ち上がるのを彼は制する。 「待ちな、エディ。これはあいつの問題でもある」 「俺にだけ、知らせてくれって言っただろうが」 「知らせただろうがよ、最初に」 確かに一番に知らせてくれはした。が、それをレイが聞いていては意味がないではないか。エドガーの抗議は無視され、レイがそっとエドガーに寄り添う。 「カレン師」 真っ直ぐとしたレイの眼差し、声。カレンはそっと微笑んで彼を見ていた。それからエドガーを見やっては、これでも聞かせないつもりかと言うよう顔を顰める。 「レイ――」 「なんとなく、見当はつく。大丈夫、だと思う。その、君が、いてくれれば」 うつむいてレイは言う。怖いのか、それとも別の感情なのか、エドガーには区別がつかない。それにカレンが肩をすくめた。 「クレア隊長、巻き込んでもいいかい?」 そしてカレンがにやりとした。はっとエドガーが振り返れば、カレンとよく似た表情のクレア。隣に控えたヒューが処置なし、とばかり肩をすくめた。 「エディ。気にするな。お前はうちの隊員だ。クレアは、はじめから巻き込まれる気でいる」 「それを言うな、ヒュー。恥ずかしいだろう?」 「恥ずかしがるような柄か、お前が?」 片目をつぶったヒューに目許を険しくさせたクレア。小さくレイが笑った。どうやら二人してレイの心を慮ってくれたらしい。無言で頭を下げるエドガーを彼らは見て見ぬふりをした。 「さて、了承も得られたんでな、エディ。率直に行こうか。――ミルテシアのタングラス侯爵が、レイとエディを指名して面会を求めてる。まぁ、その名前じゃなかったけどな」 ぱちりと片目をつぶって言ったのは、クレアに向けて。事情は聞いている、と示すよう。クレアもまたそれにうなずいて見せた。が、エドガーは気づいてもいない。震えるレイの肩を抱きしめる。 「レイ……」 腕の中、無言で首を振るレイがいた。カレンの態度に察してはいただろう。けれどやはり、言葉にされれば怯える。 「レイ。どうする。会ってみるか?」 「おい、カレン!」 「あのな、エディ。私は言っただろうが。面会を求めているって、言っただろ、ちゃんとよ。向こうさんは喧嘩腰じゃねぇんだよ」 ならば話しくらいはできるだろう、カレンは言うけれどレイの気持ちを考えろとエドガーは言いたい。相手はタングラス侯だ。はたと気づいてエドガーは彼女を見る。黙って首を振られた。チャールズは来ていない。だが、かといって。 「……エドガー」 余人ではない、そこにいる全員が黒猫のエディとしてではない顔を知っている。そのせいだろうか。あるいは配慮する気配りすら消し飛んだか。レイの夜色の眼差しが揺れていた。 「一緒に、いてくれるか」 「おい。会う必要はないだろ。それとも――」 「会いたいわけはない。でも、このまま逃げ隠れするのはもっと、嫌だ」 名指しの面会に、恐怖など言うまでもない。だがしかし、拒むはずはないと侮られたのをエドガーは感じている。レイもまた。だからこそ、立ち向かおうとするレイ。 胸元に縋りつきながら、レイは言う。腹立たしい、と。仕種の甘さとは裏腹の男としての誇り。撃ち抜かれたかのようエドガーはうなずいていた。 「でも、君は」 「俺? 会う必要はないけど、別に会うことに差し障りはないだろ。だから、あんたの側にいる」 差し障りだらけだろうが誘拐犯、と笑うカレンの声にエドガーはひと睨みをくれる。が、悔しいことにそれで気が楽になる。 「君が、嫌だったら――」 ここで嫌だと言えば、レイは断念するだろうか。その方がいいだろうか。エドガーはじっとレイを見つめていた。 「良くも悪くも。決着はつけとくべきだと思うぜ? つかねぇかもしれないけどな。それでも対決したって姿勢だけで、生き方ってのは変わるもんだ。だろ、レイ?」 エドガーの腕のレイを覗き込んではカレンが笑う。それにほっと息をついて彼がうなずく。これほどまでにカレンが忌々しい、そう思ったことはなかった。 「エディ。私相手に妬くんじゃねぇよ」 「うっせぇわ。んなことしてねぇだろうが」 「……そうなのか? たまには妬いてくれると僕も嬉しい」 「おい」 そういうことを言ってくれるな、エドガーは内心でだけ落ち込む。冗談に紛らわされるには、あまりにもレイに心を寄せすぎている。 「馬鹿か、あんたは」 ぼそりとしたカレンの呟き。幸いにしてエドガー以外の誰にもその意味はわからなかったらしい。首をかしげたレイにもカレンは笑って誤魔化した。 「さて、じゃあ連れてくるか。隊長、ここ使っていいだろ?」 「悪いと言うとははじめから思ってないだろう、あなたも?」 「まぁね」 頼もしい二人の言葉に挟まれて、エドガーは頼りない気持ちになる。侯爵を迎えに行くカレンの後ろ姿をじっと見てしまった。 「エドガー。僕は――」 言いながら、胸元に寄せてくる頬。人目があるとも忘れてしまったレイの態度にエドガーは戸惑う。それでも彼を抱き寄せた。 「――なんでもない。すまない、忘れてくれ」 きゅっと唇を噛んだ気配。戸惑いが深くなる。何を言いかけたのだろう。何が言いたかったのだろう。レイは答えなかった。 「エディ。ちょっと相談だ」 そのままでいい、とクレアが口を挟む。それにレイがほっとした吐息を漏らす。情けないような、けれど安堵にも似た心持ちでエドガーは彼女を見やった。 「まず、交渉決裂した場合のことを考えておこう」 クレアの断固とした声にエドガーはようやく正気に戻る。遅いぞ、と言わんばかりの目でヒューが見つめていた。 「決裂――」 「今後仲良く一緒に暮らしましょうっていう風になると思うのか? それは無理だろうが。どこで決着をつけるかの問題でしか、ないだろう? だから完全に決裂した場合、最悪の場合を考えておけ」 クレアはそれに乗ろう、という。クレア個人としてではなく、幸運の黒猫隊として。さすがにぎょっとしてヒューを見やれば、はじめから決まっていたことだと彼は肩をすくめた。 「あんたは……」 「仲間は売らない。そう言ったはずだよ、私は」 「それにしたって!」 「なぁ、エディ。私たちはもうずいぶん仲間を失ってきたよな? できればもう失くしたくない。そうは思わないか」 そっと微笑むクレアの表情。柔らかな眼差しになにも言えなかった。そこまでの覚悟で、隊に置いてくれていたとは。震えていたレイが顔を上げ、クレアを見ていた。 「隊長――」 「私はね、レイも気に入ってるよ。とても有能な書記だ。それ以上に、人として、気に入ってる。だったら友人として、できることはしたい。何よりうちの隊にいたんだ、レイだって隊員の一人さ。隊を預かる私が守って悪いことはない。だろう?」 隊員だと言われたレイこそ見物だった。目が丸くなり、まじまじとクレアを見つめる。それからほろりと崩れるよう彼は微笑んだ。 「僕も、隊員でしたか。隊長」 「もちろん。違うと思ってたのかい、レイ」 「自分が傭兵だったとは、思わなくて」 「戦うだけが能じゃないさ。お前も立派な隊員だよ」 レイにとってそれがどんな風に聞こえる言葉だったのかはエドガーにも想像するしかない。けれど、エイメ負傷のあのとき、彼は言った。共に戦うことができればいいと。傭兵でありたいと。それがいつの間にか叶っていた、らしい。レイの嬉しげな顔にそれを読み取る。 「それで、エディ?」 雑談中に充分時間は与えただろう、とクレアはエドガーを促す。エドガーは一度レイを見やり、独断でしかないとまずは言いおく。 「交渉決裂した場合な……。あんたが守ってくれる気でいるのは嬉しい。正直、ものすごく嬉しい。だからこそ、俺は逃げるさ」 「一人でか?」 「俺が一人で逃げてどうするよ。レイ連れて逃げる」 「ってエディは言ってるがね、レイ?」 にやりとしたクレアに嵌められた気がした。けれどレイはなにも気づかなかった顔をしてクレアにうなずいている。 「僕はエドガーについて行きます。――ついて、とは偉そうだけれど。でも、彼の行くところにどこまでも」 エドガーはその言葉に、強いて平静を保った。エドガーの行くところこそ、自分がいるべき場所、そんな風に聞こえてしまった。呆れ顔のクレアにも気づかずに。 「ま、最悪の場合はってところだね」 言いながらクレアはすでに二人が再度の逃亡に移ると判断しているかのよう。エドガー自身、同感だった。いずれ、探し当てられるかもしれないとは思っていた。だがまさか、タングラス侯本人がここを訪れるとは。 |