木蔦の家

 ほっとカレンが体を起こしたとき、エイメの部屋の中は血塗れの布でいっぱいだった。それだけ酷い出血で、よくぞここまで持ったものだと思う。エドガーは唇を噛みしめてカレンを窺う。
「神官を呼ばなくっても大丈夫だな。元が丈夫なんだろう。まぁ、なんとかなりそうだぜ」
 薬だらけになってしまった手を拭いながらカレンが言う。それにエドガーはどれほど安堵したことだろう。エイメの手を握り続けているレイも小さく息をついていた。
「レイ。ずっとついててやんなくっても平気だぜ。私がいる。それより帰ってエディの手当て、してやんな。こいつも傷だらけだ」
 言われてはじめてエドガーもまた傷だらけだと思い出したレイの表情が曇っていく。それでもエイメの手を離そうとはしなかった。
「平気だっつーの。ほれ、エディが妬くぜ? 行けって」
「カレン師!」
「嘘はついてねぇだろうが? 何があったか知らねぇけどな、マジな戦闘があったんだろ、エディ?」
「あぁ、言い訳はしねぇ。下手打った。それだけだ」
「自衛軍がなんかやらかしたな?」
 にやりとするカレンにエドガーは肩をすくめる。責任は自衛軍にある、と仄めかされたレイがさっと顔色を変えた。
「自衛軍の訓練してんのは俺ら黒猫だ。だったら俺らが責任は被るべきだ」
 きっぱりと断言したエドガーにレイが顔を伏せる。何を思うのかはわからない。ただ、懸念はされた、そんな気がする。それだけでほんのりと胸の奥が温まる。
「だからな、レイよ。だからエディたち黒猫の方が傷だらけなんだ」
「……え?」
「教導隊ってのは、そういうもんだからな。最後のところでヘマやらかした馬鹿どもを庇うのが仕事だ」
「カレン師は魔術師だ」
「怒るなよ、レイ。魔術師だけどな、私は昔を知ってる。まだイーサウが独立してそう経ってないころを知ってる。当時は暁の狼って隊がいた。私はそいつらをよく知ってたよ」
 そっと微笑むカレンにレイが目を伏せた。かっとなってしまった自分に気づいたのだろう。が、見ているエドガーにはレイが何に激昂して何に気を静めたのかがよくわからない。
「エディ小隊も、だから自衛軍を庇ったんだろ。だから傷だらけなんだろ。別けてもエディはエイメを除きゃ一番傷だらけだと思うぜ?」
 にやりとカレンがエドガーを見やる。そんなことはない、と咄嗟に顔を顰めてなんでもないふりをしたけれど、エイメの傍らから立ち上がったレイが眼前に。
「おい!」
 ぎょっとするほどの強さでレイの拳が腹を打っていた。所詮は書記の拳だ。さほど痛くはない。普段ならば。いまはさすがに小さく呻く。
「すまない、エディ。でも、そうでもしないと君は強がるから」
「実力行使の前に聞いてくれ」
「それで素直に吐くのか?」
 ふ、と笑ったレイの表情が強張っていた。その向こう、カレンがにやにやとしている。その手に魔法のように現れた――あるいは本当に魔法だったか――のは小さな薬瓶。
「やるよ、レイ。手当てに使ってくれ。お手伝いの礼ってやつだ」
 放り投げたそれをなんとか掴んだレイがかすかに口許をほころばせる。それからはっきりと頭を下げてエドガーの手を取った。
「おい……」
 それでもレイはエイメを見ていた。いまは静かに眠るエイメ。本当に、元気になるのだろうか。不安なのだろうとエドガーも思う。エドガー自身、不安ではある。けれど。
「ほらレイ。振り返ってみな、すげぇ顔してエイメを睨んでるエディが見られるぜ?」
「んな顔してねぇわ!」
「どうだかな?」
 言いながらカレンがひらひらと手を振る。さっさと出て行け、ということらしい。レイがそれに苦笑してはカレンに頭を下げていた。仲間の治療をしてくれてありがとう、と。それこそエドガーのすべきことで慌ててレイに倣う。
「行こう」
 エドガーはレイに手を引かれて部屋を出た。扉の外ではデニスがやきもきしながら待っている。もうエイメに服は着せたから、と言えば飛んで中へと入っていった。
「一応、心配してくれてはいたみたいだな」
 ぼそりとしたエドガーの呟きになぜかレイが顰め面。思わず見やれば黙って首を振る。つかつかと歩くレイに連れられ、エドガーは隊舎をも後にした。本気でこのまま連れて帰られそうだった。そう思ったとき、はたとレイが立ち止まる。
「……帰って、いいのか? もし、用事があるなら、先に済ませてくれてもいい」
 むつりとした言いようにエドガーの口許がほころんだ。すぐさま引き締めたつもりだったけれど見られてしまったらしい。厳しい眼差しのレイだった。
「いや、クレアにはもう報告が行ってるはずだ。大丈夫だ。それより――」
 返答を聞くなり再び歩きはじめたレイだった。本当に、心配されているような、そんな気がする。嬉しいからこそ、突き詰めて考えたくはなかった。
「なんだ」
 ぶっきらぼうなのはいつものこと。二人きりでいるときレイはいつもそうだった。ふと帰ってきたのだなとエドガーは思う。
「あんたの用はいいのか?」
「僕の用事? 特にはないが」
「だって、門のところにいただろうが。なんの用だったんだ。済んだなら、いいけどな」
 肩をすくめてエドガーは追及はしないけれど、と態度で示す。それを見上げたレイの目は夜の闇を濃くしていた。
「……君を迎えに行ってたんじゃないか」
「はい?」
「だから!」
「あぁ……クレアから聞いてたのか。悪かったな」
「あのな、エドガー。隊長がそれを言うと思うのか、君は。いくら僕にであったとしても知らされているわけがない」
 ならば、なぜ。どうしてあの時あそこにレイはいた。混乱するエドガーにレイの方が肩をすくめる。繋がれた手が、奇妙なほどに温かかった。
「……毎日。君が出陣してから、毎日。仕事が終わると門の前で待ってた」
 呟いたレイの言葉の意味がわからなかった。誰を待っていたというのか。問いそうになったところでようやく思い留まる。
「怖かったんだ」
 ぽつりとレイはそう言った。うつむきがちなまま、地面だけを見て。それでも手を離そうとはしなかった。
「悪い。だよな、怖かったよな」
 一人では過ごせないレイ。出かけるにも帰るにも、誰かが付き添っていなくてはレイは身動きが取れない。そう思ったとき、訝しい思いが立ち上がり、エドガーは追って気がつく。門の前で見かけたレイの側には誰もいなかった、と。カレンもデニスも、クレアさえ。レイは一人で待っていた、この自分を。
「わかってない、君は」
 たどり着いた家の中、物も言わずに引っ張り込んだレイが黙々と手当てをはじめる。着ているものを剥ぎ取られて顔を顰めれば、傷の酷さにレイの方が今度は眉根を寄せる。エイメのような重傷ではない。エドガーには細かい傷があるだけだ。数が異常に多いだけで。血を拭い、薬を塗り、包帯を巻く。肌に手を滑らせるレイの手。それだけで傷など治る、そんなことを思う自分を内心で笑うエドガーに向け、レイは唐突にそう言った。
「なに?」
 聞いていなかったわけではないけれど、手の感触に気を取られていたのもまた事実。唇を引き締めたレイの眼差しにエドガーはすまない、と視線を伏せる。
「君はわかっていない、と言ったんだ。なにがわかっていないか? 僕が何を怖いと言ったのかが、わかっていない」
 一人でいるのが怖いのだろうとしか思っていなかったエドガーだ。それ以外に怖がる理由が思い当たらない。そしてそれをレイは違うと言うのか。あるいは勘違いなのか。小さくレイが溜息をついた。
「……君がいない。その方がずっと怖かったんだ」
 ぎょっとして、危ういところでレイを覗き込んでしまうところだった。なんとか自制したけれど、レイは気づいてしまったかもしれない。肌に触れているのだから。強張った体に気づかれてしまったかもしれない。
「僕は、はじめて剣を習いたいと思ったよ」
「剣?」
「そう。それで、君と一緒に従軍してたら、どれほど気が休まるだろうと思った。わかってる。僕は戦いに向いていない。何より体がそれ向きじゃない。そんなことは、わかってる。戯言だ。忘れてくれてかまわない」
 ほっそりとした指が残りの傷に丁寧に薬を塗っていた。エドガーならば放っておくような傷にまで、丹念に。
「せっかくの綺麗な指だろ? いかにも書記って指だろうが。剣なんか握ったら胼胝だらけになるぜ?」
 もう平気だ、とエドガーはレイの手を取る。振り払い、レイはまだ手当てを続ける。傷は残っている、と。じっと見つめてくる眼差しからは逃れられなかった。逃れたくなどなかった。
「でも、そうしたら、君と。……そう思った」
 まるで睦言だ。思うそばからエドガーは否定する。レイは怖かったと言ったけれど、それはたぶん寂しかったと同義だ。それに違いないとエドガーは思う。少なくとも、寂しさを紛らわせる相手にだけはなれているはずだから。
「酷い傷だな。カレン師に見てもらわなくていいのか。せっかくその……、カレン師に、僕が……」
 これ以上その話題を続けたくないとでも言うようレイは顔を顰めて傷を見る。その眼差しが不満そうに剣の輪へと流れた。強力な護身呪と言っていたはずのカレン。それなのに傷を負った。レイの鬱憤が見えるようで思わずエドガーは微笑む。
「慣れてるからな。こんなもんは放っといても平気だぜ。それに、あんたがカレンに頼んでくれたんだろ、護身呪。おかげでこの程度で済んでる。カレンを恨むなよ? これがなきゃ、俺は重傷だった」
 ちらりと見上げてきた眼差しは夜の深い闇の色。まるで他人がそこにいるときのレイだった。かすかな嫉妬にエドガーは苦笑して何も考えない。
「――あんたが剣を持てば、あんたもこういう羽目になる。だから剣は持たせたくない」
 真っ直ぐなエドガーの言葉にレイは驚いたよう。エドガー自身が誰より驚いていた。言うつもりなどなかったというのに。
「あんたは俺が守る。だから剣なんか持とうとするな」
 いっそ言ってしまえとばかりエドガーは言いきった。レイはどんな顔をしていたのだろう。眼差しを伏せてしまったレイの表情は窺えなかった。その代わり、握ってきた手が。レイの指がエドガーのそれに絡んではしばらくの間、離れなかった。




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