五日ほど前からエドガー小隊は自衛軍の一部を連れて演習に出ている。イーサウはシャルマークの内。いまでも魔物が頻出する。自衛軍の訓練にはうってつけだった。 この演習を告げられた時、エドガーはクレア隊長の前、じっと立っていた。クレアはそんなときのエドガーが何を考えているか知っている。文句を言う気にもならないくらい彼は怒っている。話が違うと。 「だけどな。エディ? あの辺の面倒を見てるのはお前の小隊だろう?」 だからきちんと演習をして成果を上げてこい。間違ってはいない。けれどエドガーは黒猫に参加するとき、クレアに言ってある。レイの側を離れるような仕事はしない、と。 「エディ」 隊長執務室だった、当然そこにはレイもいた。無言のエドガーをレイは静かに見つめる。それからふ、と口許をほころばせた。 「僕なら、大丈夫だ。君は君の仕事をしたらいい」 そう言われるだろうことはエドガー自身、予想していた。あるいはだから、クレアの命令を聞きたくない。そこに思い至ってエドガーは苦笑する。 「――確かに仕事、だな」 我が儘勝手ができる立場ではない。いままでもレイのことを慮ってクレアは仕事を割り振ってくれていた。それを知らないでもない。 「そのとおり。君はきちんと仕事をする男だと僕は思うが」 だからこそ君を尊敬できる。小声で呟かれたレイの言葉。聞かせるつもりがあったとしか思えなかった。本当に言うべきではないと彼が決めてなお口をついてしまったとき、その声は誰にも聞き取れない。エドガーは溜息をつき、そして演習に出てきた。 さすがに大丈夫だ、と言ったレイではあったけれど、不安なのはエドガーも同じ。自分が留守の間はカレンに頼んだ。それはそれで不安はあるけれど、少なくともレイの身に危険はなかったし、彼も心安く過ごせるだろうことを疑ってはいない。 「エドガー……」 前の晩、睦み合うというよりは貪るように体を重ねた。レイの方から求めてきたのにエドガーはいまだ戸惑う。何度となくその名を呼ばれ、背に爪を立てられた。まだうっすらと爪痕が残っているかもしれない。馬上でエドガーはそんなことを思っては小さく笑う。レイの喉元につけたくちづけの跡はもう消えてしまっただろう。 「移動、再開します!」 自衛軍の若い兵が伝令に来た。この演習においてエドガーは指揮官だ。小隊の面々が軍の幹部、という役どころ。二日かけて移動し、丸一日演習を行った。そしてまた二日かけて戻ってくる。 「面倒くせぇよなぁ」 ぼやくタスをユーノがたしなめている。くつくつとエイメが笑う。いつもどおりの顔ぶれに、けれどエドガーの心は晴れない。レイが気がかりだった。今日の夕方には、狼の巣に戻れるだろう。だからよけいに気になるのかもしれない。 「小隊長、なんでこんな遠くまで演習に出てくんですよ?」 「タス。ユーノがうるさいって言ってただろうが」 「でもねぇ、ユーノ君?」 「気にはなりますわなぁ、タス君」 にやにやとする兄弟にエドガーはうつむいてそっと笑った。気落ちしている、とでも思っているのだろう。そして慰めてくれているのだろう。口は過ぎるし、よけいなことばかり言うし、慌てて取り繕えば墓穴を掘る。そんな兄弟ではあるけれど、気はいい。 「あのな、考えろよ。ここはどこだよ?」 「えー。野っぱら?」 「誰が地名を聞いてるか。つか地名ですらねぇだろうが。あのな、ここはシャルマークの内だろうが。隊商の護衛すんだって戦争すんだって、一番最初に立ちはだかんのは魔物だろうがよ」 ぽかん、と兄弟が口を開けた。今更その事実に気がついた、と言いたげに。ちらりとエイメを見やれば彼女はとっくに気づいていたのだろう、うなずいている。 「だから五日は短ぇんだよ、ほんとならな」 往復四日の移動中。なにも馬でぽくぽく散歩をしているわけではない。自衛軍はもっぱら魔物討伐に勤しんでいた。むしろ、そちらの方が本当の演習だ。どれほど実戦形式にしようとも、本当の戦いではない以上、気の緩みがないとは言えない。魔物が相手ならば、気を抜けば即死亡だ。その緊張感こそが、彼らの血となり肉となる。 「それより心配よね、エディ?」 エイメの仄めかしにエドガーは嫌な顔をする。それと気づいた兄弟がやんやと茶化す。だからよけいなことを言ってほしくなかった、とエイメを睨めばあからさまなまでの笑み。わざとやっていたらしい。 「レイ君、どうしてるかしら。浮気の心配とか、したりしないの?」 「……しねぇよ」 「あら、じゃあ逆に心配される方かしら? あなた、もてるものね」 うるさいな、と思う。思うけれど下手なことを言えば玩具にされるのがわかっているエドガーだ。むつりと前を見たまま馬を進める。 実際は、思い出していた。この演習に出てくる日。巣の門までレイは見送りに来てくれた。もちろん一人では無理だったから、カレン同伴で。だからだったのかもしれない。人前でのレイは二人きりでいるときとは打って変わって明るい恋人の顔をする。 「――僕から離れるからといって、浮気をしたりしたら許さないからな」 人目もはばからずすでに馬上にあったエドガーの腕を引く。そして彼自身は伸び上ってはかがんだエドガーにくちづけをした。華やかにざわつく自衛軍。囃し立てる小隊の面々。エドガーとしてはなにをどう言った物か迷っているうちに、出発だった。 「誰がするかよ」 結局そう言っただけで出てきた。レイが満足そうに微笑んだのを彼の目はいまもまだ鮮やかに覚えている。カレンが何かを言いたげに、それでも慎むよ、とばかり片目をつぶったのも。 「……よけいなこと吹きこんでねぇだろうな」 思わず呟いてしまってはエイメに怪訝な顔をされた。カレンは以前エドガーに言った。レイから愛されていると。エドガーとしては間違っているとしか言いようがない。レイは他に頼るものがどこにもない、誰もいない。それだけだ。せいぜいがところ気の合う友人だろう、とエドガーは思う。 「なるほど。だからか――」 人前でじゃれついてくるのは。からかっているつもりなどレイはないだろう。あるいは一人が怖いであったり、寂しいであったり、そんな思いの表明なのかもしれない。 「あら、エディ? 思い出し笑いっていやらしいわよ」 「別にやらしいことなんざ考えてねぇよ」 「嘘。だってもうすぐレイ君と感動の再会じゃない?」 「感動ってほど離れてねぇだろうが」 たった五日だ。そう言ってのけたエドガーだったけれど本心はエイメの言うとおり、と思っている。レイの顔が見たかった。同時に、レイの方はどうなのだろうと思ってしまう。 「小隊長!」 空想に漂っていた意識が完全に覚醒する。隊員の緊迫した声に覚醒しなかったら傭兵などやってはいられない。 「どうした」 が、緊張など微塵も窺わせないエドガーだった。その様子に隊員がほっと息をつく。そして報告をはじめた。 「前方に魔物の集団あり、だそうっすよ」 「ったく。斥候は何してやがった、こんな近づかれるまで気づかなかったってなぁ、訓練のやり直しだな、こりゃ」 「ぼやいてないで行くわよ、小隊長殿」 「あいよ、姐さん。小隊、続け!」 剣を掲げれば隊員がそれぞれの役目に従って散っていく。続け、と言ったわりに散開するのを自衛軍兵士が訝しげな目で見ていた。 「ぼさっとしてんじゃねぇぞ、仲間を見殺しにする気か!」 エドガーの叱咤に背筋が伸びた。そして次々と駆け出して行く兵士たち。それをばらばらにならないよう取りまとめるのがエドガー小隊の役目だった。 魔物の集団はすでに前衛と交戦していた。人間ではありえない皮膚の硬さに兵が怯んでいる。あるいは恐慌状態に陥って泣きながら剣を振りまわしている。集団はあまりにも数が多すぎた。 「エイメ!」 本当ならば神官の手助けが欲しいところだった。神官の操る神聖呪文は味方の士気を鼓舞したり身を守るための魔法の盾を展開したりと傭兵隊にとってありがたいことこの上ない。が、いないならばいないなりの戦い方というものがある。 「タス、ユーノ!」 エイメの声に合わせて兄弟が飛びだす。その三人だけは常にエドガーの側にあった。そして兄弟がいま、エイメを守るために剣を取る。魔法を紡ぐ間、魔術師を守るために。 「気をつけてくれよ……」 できれば自分も前線に出たいエドガーだ。が、演習の形を取っているのが災いしている。ここで戦闘に身を投じれば、軍の形が崩壊しかねない。クレアはいつもこんなじりじりとした気分を味わわされているのか、不意に気づいては彼女への尊敬の念が高まった。 突進していくエイメの左右、兄弟がいる。エイメはさほど高位の魔術師ではない。エドガーの傍らにあって魔法を撃てるほど到達距離が長くない。結果として、彼女は前線に出ざるを得ない。何度となく魔術師との連携を訓練してきた自衛軍だ、さすがにエイメを重点的に守る。それだけはほっとした。 けれど魔物もまた、それを見ていたらしい。彼らに人間的な知能があるのかどうかは誰も知らない。けれど守られている人間が自分たちにとって危険だ、程度の認識はある。 「右翼! まわり込め!」 エドガーの指示に従って自衛軍が動く。魔物の背後に回ろうと。が、相手も命がかかっている。さすがに容易にそうはさせてくれない。エドガー自身も少しばかり馬を進める。押している、その形が必要だった。 「ちっ。出るぞ」 エイメを守る自衛軍の一角。魔物の群れに押し込まれた。このままでは戦線が崩壊しかねない。エイメも危険だが、何より兵が多量に死ぬ。ここはエドガー自身が、というより本陣が動く必要があった。 戦場に颯爽と飛び込んでくる黒猫の精鋭。自衛軍を取りまとめていた隊員たちがいつの間にか戻ってきていた。ここぞ、と彼らもまた感じていたのだろう。そのことに安堵しエドガーは彼らとともに突進する。その視界の中央。 「エイメ!」 魔物と自衛軍と。戦場の混乱が立てる土煙の中。ぱっと散りしだく血煙。エイメが落馬していくその姿をエドガーは嫌と言うほどまざまざと見る。 魔術師陥落に、自衛軍が浮足立った。万が一、エドガーの到着が一歩でも遅かったならば、完全に崩壊していただろう。戦闘には勝利した。けれどエイメは。 |