カレンの家の地下室だった。以前レイが何を考えたのか探しに来たことがあって以来、エドガーは仕事を終え、レイを家に送り届け、それからきちんと「カレンのところに行ってくる」と言いおいてここに来る。 レイがカレンと出かけてからすでに数日。エドガーはいまだ混乱していた。彼の剣の鞘には艶やかな飾りが。剣の輪と呼ぶ傭兵が好む飾りだとレイに教えたのはいつだったか。 彼はそれを買い求めに行ったのだ、とあの日帰ってきてそう言った。ぼそぼそとした小声で、カレンの転移の衝撃が薄れていないのかもしれない、エドガーはそう思っていたけれど、あるいは照れているのであったらどれほど嬉しいことか。ありえないが。とはいえ、エドガーはそのことをほとんど覚えていなかった。レイがおかしな顔をしていなかったから、たぶん普通に受け答えをして礼を言ったのだろうと思う。しかしどんな顔をして彼がこれを手渡してくれたのか、さっぱり覚えていなかった。それほど歓喜の極みにあり、同時に混乱していた。 今夕もまた、カレンと共に戦闘訓練をする。彼女の呪文の実験であり、エドガーのための鍛錬でもある。カレンの要請ではじめたことだったけれど、エドガーは自分の腕も上がる、といまでは彼の方から請うこともある。 激しい実戦まがいの訓練に、呪文室の壁が時折輝く。カレンの呪文の直撃だった。どれほどの呪文を行使しても、この部屋からは一切外に漏れることはない、そういう構造なのだ、とカレンは誇らしげに言った。カレンが作ったものなのか、と彼女を褒めれば師匠だ、と更に誇らしげに言ったカレン。魔法のことはよくわからなかったけれど、凄まじい腕の冴えなのだとは否応なしによくわかる。カレンの呪文の結果、淡く輝く壁を見てしまっては。あの魔法がどれほどの被害をもたらすか、エドガーは身をもって知っている。直撃を食らったことはなくとも。 「よっしゃ、ここまでにすっか」 額に浮いた汗を拭うカレンに、エドガーはにやりとした。はじめはカレンに汗をかかせることもできなかった自分だ。魔法と共に戦うカレンのやり方に慣れたとも言うし、エドガーの腕が上がったとも言う。 「さすがに疲れたな」 自衛軍兵士の訓練に加えてカレンとの鍛錬だ、体が重たい。それでもエドガーはこれをやめるつもりはなかった。最後の一瞬に信じられるのは自分の体だ。レイを守る最後の壁でありたい。ならば、鍛え抜くにしくはない。 「ほらよ」 カレンが放るよう渡してきたのはなんとも贅沢な氷入りの冷たい飲み物。魔術師ならば自前でこういうものが用意できる。にやりと最初の日に彼女はそう笑った。 「ありがたい」 半分ほど一気に煽った。まるで氷の塊が喉を伝って流れ落ちて行くかのよう。肉体の奥深くからすう、と冷えて行く心地。エドガーはこの感覚が好きだった。 「そういやな、レイ。なんか言ってたか」 「はい? なんかってなにをだよ?」 「剣の輪さ」 ひょい、と肩をすくめたカレンと向かい合わせ、床に腰を下ろす。まるで隊の仲間と差し向かいになっているかのよう。それだけエドガーにとってカレンは心地よく過ごせる相手だった。 「なんか、なんか、なんか……。うーん、日頃の礼だ、とは言ってた気がするけどな」 毎日送り迎えをしてもらっている。のみならず、守られて暮らしている。職も安住の場所も何もかも失わせた自分だからこそ、せめて礼をしたい。そんなようなことをレイが言っていたような、気がしないでもない。ただし本当のところは覚えていなかった。 「日頃の礼、なぁ」 にやにやとする人の悪い顔。エドガーは何を言われても気にかけない、はっきりと聞き流す、と態度で示した。それにもカレンは精悍に笑う。 「ちょっと鞘持ちな。――あぁ、それでいい。動くなよ? 動いたら当てるぜ」 なにをするつもりだ。言いかけたエドガーが止まる。本気で危ない、そう思ったせい。カレンが放った魔法の水の矢。エドガーに向かって一直線に飛んできた。動くな、と言われたエドガーは忠実に動かない。隊の仲間を信頼するよう、カレンをもまた、信じた。 「……おい!」 それは報われたのかどうか。エドガーの目の前、水の矢が散じて行く。カレンが外したわけではないことは、感覚として察知できる。ならば、なぜ。戸惑うエドガーにカレンは口許を緩める。 「威力は落としてるけどな、結構マジではあった。でも当たらなかった。こりゃ私の腕だ。水の矢の方じゃなくて、あんたの剣の輪にかけた護身呪の方のな。ちなみに物理攻撃も弾くぜ」 「はい!?」 「レイに頼まれたんだよ、護身呪。せめて身を守りたいってな。可愛いやつだぜ、あいつ」 カレンが何を言っているのか、まったく理解できない。レイがカレンに何を言ったのかも、理解できない。レイがなぜカレンに。呆然と混乱して、結局エドガーは手にした鞘に視線を移す。その飾り輪に。レイから贈られた剣の輪に。そしてはっと顔を上げた。 「ちょっと待て。あんたはなんでそんなことしてくれた。ただじゃねぇだろ」 「ロハかもしれねぇぜ? レイを気に入ってる。それだけだとは思わねぇのかよ?」 「誰が思うか。あんたがレイを気に入ってるのは事実としても、無料奉仕にしちゃ度が過ぎる」 ここまで強力な護身呪など、エドガーは見たことも聞いたこともない。魔法だけではなく弓矢や剣まである程度は弾くとカレンは言った。信じがたい。効果が、ではなくカレンの好意が。あるいはレイの心が。 「まぁな。確かにただじゃねぇわ。私がやってやるって言ってもレイが断るだろうしよ。なんでかわかるか、エディ?」 「わっかんねえよ!」 「レイが、あんたを、守りたいと、思ってるから、だ。ロハでかけてもらった魔法で守る? あんまりにもお手軽すぎるだろうが。レイはあんたを守りたかった。だったら何ができる? 剣の腕もない、魔法の才もない。何ができるでもない。レイは自分の身を守ることもできねぇ。だったらせめて金かけて魔術師に頼る。レイの判断は間違ってねぇと私は思うぜ」 手段があるのだから。そして正しくレイはそれを使った。カレンはその思いを評価した。それだけだと言う。 「ま、格安にはしたけどな。割引分はあれだな、あんたへの好意ってやつだ。ガキの子守もさせたしよ」 肩をすくめるカレンに礼を言うのも忘れていた、エドガーは。好意の一言で済ませるようなものではない。何より、レイの気持ちがわからない。 「あとはレイへの礼ってのもあるな。うちのガキはレイと知り合ってからずいぶん変わったぜ。ちったぁマシな考え方をするようになった。似た年頃のレイがちゃんとしてんのに自分はって思ったんだろうよ」 「……あんまりにもあれはガキすぎるぜ」 「魔術師としてはまだまだ頭に殻乗っけたひよこだからよ。それを自覚したのも、レイのお蔭だな。なんかあったんだろうとはデニスも察してはいる。それでもちゃんと立って仕事して稼いでるレイってのがまぶしく見えるんだろうさ。それは私も同感だ。守られてる、その自覚はレイにもある。それでもそこに安住したくない、あんたの役にも立ちたい、自分にできることをしたい、そう思うレイは立派だと思うぜ」 「……レイ、レイってな」 彼を褒められるのは嬉しい。たぶん嬉しいのだとエドガーは思う。けれどそのぶんレイが遠くなっていく気がしてならない。彼一人で生きて行くことができるようになった日、自分は。思い惑うエドガーの耳に忍び込むカレンの声。 「あんた、よもやと思うがな。レイに惚れられてるってわかってねぇの?」 「はい!?」 「……おい。ま、いいか。いいけどな? そもそも前提はそこだってことは理解しとけよ」 「ちょっと待て。違う、そりゃあんたの勘違いだ。レイは――」 他に選択の余地がなかった。茫然自失のレイを誘拐同然に逃亡させたのは自分だ。ただ、それだけだ。レイの身を守っている。だから縋っている。それだけの関係でしかない。 「一つ聞く。あぁ、私はデニスと違うからよ、ここで聞いた話が外に漏れることは一切ねぇと思ってもらってかまわねえよ。あれだな、人生相談でもやってやろうってだけだ」 にやりと笑ったカレンにエドガーは力なく笑う。虚ろな笑いが自分の唇から洩れ、思いの外にレイから思われていない事実がこたえているのだと知る。わかっていたはずだった。けれど突き詰めて考えればこれほどに痛い。 「あんたはレイに惚れてんだろ? だったらなんでそれをちゃんと言わねぇの」 「……断られんのがわかってて自爆する趣味はねぇんだよ」 「だから違うだろうによ。意外と頑固な野郎だな、おい。まぁ、どっちもどっちか。レイもあんたに惚れられてんの、わかってねぇのかもしれねぇしな」 「――カレン、念のために」 「言わなくていいっつってんだろ。レイにバラす気はねぇし、誰に言うつもりもねぇよ」 「悪い」 片手を上げて詫びたエドガーにカレンは唇だけで笑う。逞しくて、けれどひどく美しくて、それなのにエドガーの心には響かない。そこにはもうレイがいる。 「それでもな、レイの気持ちだけは汲んでやれよ。認めなくったってかまわねぇよ、時間はあるだろうからな。レイはあんたにだけ負担を強いるのが嫌なんだ。惚れてるから、不甲斐ない自分でいたくねぇんだ。いまはまだ届かないから、私に魔法を頼んできた。それだけはわかってやれ」 理解したいと思う。けれど、信じられないものをどう理解すればいいのだろう。エドガーの表情にカレンが肩をすくめた。 「ま、いいさ。私が言ったことだけ覚えときな。先達の助言ってやつだ。いずれわかる日が来るだろうさ」 「……来るかな」 「来るさ。当事者がややこしいことやってるだけで相思相愛なんだぜ?」 笑い飛ばしたカレンに不意にたまらない感謝を覚える。思いの表しようがなくてエドガーは眼差しを伏せた。それで伝わる、仲間ならば。カレンにも、通じた。 「おう、お迎えだぜ」 いままでの話の残滓をすっぱりと拭い捨てたカレンが立ち上がる。扉の向こうからデニスがカレンに伺いを立てたのだろう。そして開いた扉の影、そっと微笑むレイがいた。デニスの横をすり抜けて、エドガーの腕に飛び込むレイが。無言で抱きとめ、物も言わずに抱きしめる。いま口を開けば言わなくていいことを余さず言ってしまう、エドガーはそれをこそ恐れた。 |