むつりとしたままエドガーはもう一度デニスに手斧を取らせる。腹立ちまぎれ、と彼は解釈したことだろう。が、エイメはにやりとする。それでも口は出さずに彼の特訓を見守った。 今度はなぜそのようなことををさせられているのか、どう体を使えばいいのかデニスも理解している。先ほどよりずっと真面目だった。それでもわかったからといってすぐさま体が動く、というものでもない。何度となくふらつき、幾たびも目標を捉えそこなう。 「飽きたか?」 そのうちにデニスの集中力が削げはじめたのをエドガーは見た。休憩を入れながらであってももう昼をまわっている。内心ではよく続けた、と褒めてもいた。が、うっと息を飲んで振り返ったデニスにエドガーは肩をすくめる。 「どうして、その……」 「俺はいま、そういう仕事をしてんだ。自衛軍の若いのの特訓してんだぞ、お前なんか見てなくってもわかるわ」 デニスにエドガーは言わない、元武術指南役だとは。言えば妙な解釈をしかねない、そんな懸念がある。エイメは濁された言葉に気づいたのだろう、ふうん、とうなずいていた。 「ほんとな、俺は不思議だぜ。お前、レイと似たような年頃だろうが?」 「だと、思います」 「な? なのになんでこうも甘ったれかな。てめぇでてめぇの仕事もすべき努力もわかんねぇって大したもんだぜ」 もちろん褒めていない。デニスにもそれは理解できただろう。さっと青ざめるその表情。エドガーは同情などしない。いい加減自分が何をするべきなのかわかっていてもいい年だ。少なくとも、自分はそうして生きてきた。レイは選択の余地すらなく、生き続けてきた。 「お前はな、どんだけ自分が甘やかされて生きてきたのかってのを考えた方がいいと思うぜ。長い付き合いでもない俺に見抜かれてんだぞ? そりゃよっぽどだって言うんだ」 そうねぇ、などとエイメが呟く。彼女も同感だったのだろう。魔術師のエイメに同意され、デニスは青い顔を白くする。何か言い返そうと口を開きかけ、噛みしめる。そしてエドガーを見上げた。 「――そのとおりです」 認めるとは思ってもいなかったエドガーだった。それが言葉の上だけのものであったのならば馬鹿にしてやろうと思う。が、いまのデニスの言葉には深い理解がある。 「僕は、自分がどれほど恵まれていたのか、知りもしませんでした」 だから少しでも努力をはじめたい、デニスは言う。羨ましい、ふとエドガーは思う。生き方を改める機会は自分にもやはりなかった、と思う。幼いほどに若いころから傭兵隊に身を投じ、体一つで両親のために働いた。家名を保つため、とは思っていない。ただあの優しかった両親のため、稼ぎ続けた。それも結局、無駄になった。どんなに情けない思いをしたことか。あの日を思い出すだけで虚ろな気分になる。デニスにはそんな昔はないだろう。だからこそ、こうやって新しい努力をはじめることが彼にはできる。 そう思いながらエドガーは羨ましさだけではない、と気づく。生き方を変えることは結局できてはいない。またこうして隊に戻ってきた。レイのためではある。しかし戦うことしかできない自分でもある。ただ、あのときのような無力感はいまはない。あるのはレイを失うだろう恐怖のみ。羨むよりなお悪い、停滞を望む虚無。ふ、と笑ったエドガーにエイメが怪訝な顔をした。 「ま、努力するってのは悪いことじゃねぇわな。それにしたってカレンの弟子のくせに体は鍛えてねぇし何やってたんだかな、いままで」 「ですから、これから!」 「そもそも根本的に、だ。お前、魔剣つくんの無理じゃねぇか。体動かすの向いてねぇだろうが?」 魔術師は戦うのが本分ではないのだから、無理をする必要はないだろう、言ったエドガーの言葉にデニスは打ち抜かれたような顔をした。 「どうして……あなたは……。魔術師じゃないのに、そんなことがわかるんですか!」 「魔術師じゃなくてもその程度は常識だろうが? 俺は所詮しがない傭兵だがな、仲間に何ができて何をすべきなのかは把握してるぜ?」 ただそれだけのこととあっさり言ったエドガーだった。エイメがデニスにだから彼は小隊長なのよ、と助言してやっている声が彼に聞こえているのかどうか。 「だからお前は無茶して剣を覚える必要なんかねぇだろ」 デニスに覚えられる剣ならば、いつかレイも覚えたいと言うのではないか。そんな不安があったことは否定しない。自分は確かに教えるだろう、そのときには。そしてレイが身を守れるようになったら自分は。デニスの影にレイを見てしまったエドガーは強いて真っ直ぐと彼を見つめた。 「あります」 きっぱりと断言するデニスに皮肉な笑みを。さすがにエイメは不審を強めているらしい。眉を顰めてエドガーを見やる。 「ほう?」 デニスに言われたのではなく、レイが言ったかのような錯覚。自分で身を守れるようになりたいから。君にだけ負担を強いたくない。身を守れるようになれば、君と一緒でなくともよくなる。耳の奥で幻聴がこだました。 「僕は――。カレン師の弟子です。いつかカレン師の域に達したい。それを望んではいます。でも、……たぶん僕はそこまでは行けない」 手斧を握り続けて痺れて赤くなった両手。デニスは視線を落としそれをじっと見つめていた。エイメもまたそんな彼を見ている。ちらりと彼女を見やれば、彼の言葉どおり、とそっとうなずいた。 「でも、だからこそ。僕には僕がするべき、しなきゃならないことがあるんです」 「へぇ、理解してる、と?」 「よしなさいよ、エディ。どうしたの、いやに突っかかるわね」 別にと肩をすくめればエイメに睨まれた。けれど内心を明かす気になどなれるはずもない。諦めたエイメがデニスに続きを求めた。 「――エイメさん。僕はカレン師の弟子です。だから、師に続きたい。師を越えられなくとも、せめて師が拓いた道を広く歩きやすくすることはできる。できるような自分になりたい。そう思うんです。だから、師が使う剣もまた、覚えなきゃならない。最近になってようやくそう思うようになりました」 「いままでは?」 「漫然とただ……魔法で偉そうにしたい、だったかなって思います」 傷ついたデニスの顔。自らを省みてそれを言うのは厳しいことだっただろう。エドガーは幾分なりとも彼を見直す。そして少なからず彼を愚か者扱いしていた自分にも気づく。小さく溜息をついた。だからといってデニスが癇に障ることまでは否定のしようがなかったから。 「あの、エディさん。レイさんと僕が同じくらいって言いましたよね。レイさんはどうしてあんなに落ち着いてるんでしょうか」 わかっている。デニスは今後の参考にしたい、それだけだ。これからの自分を立て直すため、目標の一つにしたい、それもわかっている。けれど体が止まらなかった。 「よしなさいエディ!」 鋭いエイメの制止。のみならず咄嗟に放った彼女の魔法。それがエドガーの手を止めた。ぐっと彼女が喉の奥で悲鳴をこらえる。エドガーの剣によって霧散させられた魔法がエイメに戻っては衝撃を食らわせる。 「エイメさん――!」 デニスは見たことがなかった。確かにカレンの魔法ほど高度なものではない。けれど魔法は魔法だ。エイメの魔法がエドガーを捉え、その動きを止めさせようとするのを彼は確かに見た。それなのに、エドガーの空気すら切り裂かんばかりの剣の一閃。それが魔法を散らす。世の中の広さを痛感していた。 「私は平気よ。ほんとに無茶なんだから。エディ、気に入らない坊やを無理に好きになれとは言わないわ。でも、ろくに攻撃できもしないお子様を切ろうとするのはいただけない。だから止めようとしたの、わかってる?」 「……わかってる。悪い」 「いいわよ、わかってるなら。何か癇に障ったんでしょ。意外と気が短いもの、あなた」 ふふ、と笑ってくれたエイメに途轍もない申し訳なさを感じた。衝撃の余波に片膝をついていた彼女を助け起こす。ぱちりと片目をつぶってエイメは立ち上がった。その瞬間、エドガーは異変を感じる。デニスは放っておいてエイメを背に庇った。直後、空気が揺らぐ。 「って、あんたな!」 裏庭に転移してきたカレンだった。無論、レイも。エドガーが知る限り、レイは転移するのははじめてだ、くらりと眩暈を起こした彼を抱きとめる。 「……気持ち、悪い」 ぐっと縋りついてきたレイを抱きしめ、エドガーはカレンを睨む。どうなるかわかっているのだからせめて事前の忠告くらいしてやれ、と。 「先に言ってやってもいいんだけどよ。どうせ吐きそうなのは変わんねぇからな」 肩をすくめたカレンにエドガーは溜息をつく。わかっていてやっているならばどうしようもない。腕の中のレイを見やれば、ゆっくりと息をしていた。 「おい……」 せめて水でも持ってきてやろうか。座らせてやった方がいいだろうか。慌てるエドガーをレイはなんとか見上げて微笑む。 「聞きたいことがある、いいか?」 「なんだ? 大丈夫か、座るか、レイ?」 「いらない。――君はいま、エイメを庇っていた。どうしてだ。その、ずるいと思う」 「はい?」 「僕が最初に見たのは、エイメを庇う君だった」 気分の悪さもなんのその。じっと見つめてくるレイの眼差し。エドガーは口許が緩んで仕方ない。それに眼差しの険が強くなる。 「あのな、レイ。傭兵は勘が鋭いもんだ、じゃなきゃ死ぬからな。その勘に、なんかが触れた。異常だと思った。そしたら俺はどうすべきだ?」 「……仲間を庇う」 「そのとおり。それだけだ。ここにいたのがタスだろうがユーノだろうがヒューだろうが、俺は同じことをした」 「……だったら、僕なら」 小さな呟き声。エドガーの胸元に押し込められて彼には聞こえなかった。ぎゅっと抱きしめてきたレイの腕だけが、確かなもの。 「お帰り、レイ」 彼の黒髪に顔を埋めるようにしてエドガーは微笑む。レイが見ていない今ならば、どんな本心でも繕わずに済む。そしてデニスの存在に気づいた。 「ガキは邪魔だ。連れて帰れよ、カレン」 まだまだ不快だ、言葉ではそう言いながらエドガーは目だけで笑う。何はともあれレイを無事に連れ帰ってくれたことだけは礼を言う。そんなエドガーにカレンもまたにやりと笑った。 |