木蔦の家

 書記の仕事がこんなも多岐にわたるとはエドガーは思ってみたこともなかった。営舎付属の隊長執務室だけではなく、レイは帰ってからも細々と仕事をする。だから買い物その他はエドガーの役目だ。そもそもレイにとって一人での外出はまだ恐怖でしかない。
 やればできるが評価としては渋い顔をせざるを得ない、というのがエドガーの調理の腕だ。よって、日常の買い物はすなわち惣菜の買い出し、ということにもなる。カレンが頻繁にお裾分けをくれるのがエドガーとしてはありがたかった。
「あれで料理上手ってのが、笑えるな」
 上手だろうとエドガーは思う。決して凝った料理ではない。むしろ家庭料理の類だ。けれどそのようなものに飢えている身だ、非常に嬉しい。問題はあのカレンが作った、というあたりだろう。想像を絶する。
 そうやってカレンの手料理であったり煮売り屋の惣菜であったり、そんなものでレイと二人、食卓を囲む。自宅にいるときレイは決して口数が多くない。人前で朗らかにしているのは、彼なりの虚勢なのだろうとエドガーは思う。否、精一杯の努力、と言うべきか。
 エドガーは他愛ないことを考えながら剣を振っていた。借家の裏庭にはちょうど練習をするくらいの空き地がある。普通の家庭ならば小さな菜園でも作るところだろうか。この元カレンの自宅で、彼女はどう使っていたのだろう。
「いや、それもそうか」
 踏み固められた土にエドガーは答えを知る。一年や二年ではない、この固さは。カレンはここで剣の鍛錬をしていたのだろう。想像でしかなかったけれど、間違っているとは思わなかった。
 それほど鋭い剣筋を彼女は見せた。あれで魔術師だというのだから世の傭兵隊は揃って彼女を剣の師と仰いだ方がいいのではないか。そんなことまで思ってしまう。
 もっとも、剣とはいっても彼女のそれは一般的な剣ではなかった。水なのだ、とカレンは言う。水に形を与えて剣の形に生成する。そうしてできた魔法剣がこれだ、とはじめて見たエドガーの丸くなった目に彼女は誇らしげに言ったものだった。
 水だ、と聞いたからではない。が、魔術師で、膂力に劣る女性だ、と一太刀目を侮ったのは、事実だ。初日はそれでずいぶん痛い目にあったエドガーだ。以来、彼女を女性魔術師、と考えることはやめた。内心では好敵手、と思っている。それくらいカレンは強い。そして彼女をそう仕込んだのはその魔術の師だ、とカレンは言う。
「この剣も師匠のもらったんだ」
 ふふん、と楽しそうに笑ったカレンの手の中で剣が消えて行くのを、初日のエドガーは呆然と見ていた。驚いたのではなく、そんな余裕はなく、本当に水で、しかも魔法だったのだと眺めていた、床の上にへたりながら。
「ほんと、レイには見せられねぇな」
 あんな無様なところはまかり間違っても見せたくない。だからイーサウ自衛軍の教練とは別に、こんな時間まで一人で鍛錬をしている。遠くから酒場の賑やかな声が聞こえていたはず。それが薄くなりつつある。さすがに肩が痛かった。
「あがるか」
 呟いては剣を収め、ぐるりと肩をまわす。みっちりとした痛みが訓練の成果のようで、どことなく嬉しい。自分の力だ、そんな気がするせいかもしれない。
 イーサウに来て一番ありがたいと思うのはこんなときだった。家に風呂がある、それがまず驚きではある。しかもそこに温泉が引かれている。普通は汲み置きの水瓶の水で汗を拭う。井戸があれば御の字だ。湯ですらなく温泉と来ればこの上ない贅沢としか思えない。肉体を酷使する稼業にこんなにありがたいものもなかった。ゆったりと湯につかれば、熱い湯の中に筋肉の強張りがほどけて行く。
 湯から上がり、寝室へと向かう。扉を開いても当然にしてレイの姿はなかった。暗い室内に冷たい寝台だけがひっそりと。
「だろうと思っちゃいたけどな」
 夕暮れ時にあのような形でなじられ、誘われはした。エドガーは物の弾みだろうと思っている。今頃レイは後悔しているのかもしれない。仕事場にしている書斎から出てこない、それが証明のような気すらして。
「違うか」
 いつも、レイは遅くまで仕事をしている。指先にインクの匂いをさせたレイが隣に潜り込んでくるのをエドガーはとろとろと転寝をしながら待っている。今夜は、どうだろうか。日頃のよう、半分眠っていたエドガーの温かい腕の中に包まれることを彼は望むのだろうか。
「朝まで――」
 仕事をし続ける、そんな気がしてしまった。うっかり徹夜をしてしまって、すまない。約束していたのに。そんなことを言いそうな予感がないとは言いきれない。
 眠るでもなく起きているでもない、言ってみれば戦場の待機状態に最も似ている。そんな半覚醒にエドガーはいた。転寝ですらない。レイのことが浮かび、侯爵家の追手を予想する。教練の予定を考えたり、ただぼんやりとしたり。それでも意識だけは必ず些細な変化を捉えようと鋭敏なままだった。
「――遅かったな?」
 だからレイが寝台に静かに這い上がり、そっと腕に寄り添ってきたときには完全にエドガーは覚醒していた。
「な……!」
 眠っていると思い込んでいたのだろうレイの丸くなった目。エドガーは苦笑して額にくちづける。そのエドガーにレイは目を細めて見せた。
「レイ?」
「包帯。外したのか。傷が、まだ」
「あぁ……。さっき風呂入ったから。薬は塗っといた。もう大丈夫だとは思うけどな」
 出血が酷かっただけだ、半ば塞がりかけた傷ならば風にさらしたほうが治りは早い。そう思うのだけどレイは違うらしい。細めた目が険悪だった。
「どこがだ? まだ、こんなに痛そうなのに」
 ぎりぎりまで指を寄せ、けれど傷には触れない、レイの方こそが痛むような目をして彼はエドガーを見つめていた。
「大丈夫だ」
 音を立てた悪戯のようなくちづけ。いつものレイならばふと笑い声を漏らす。エドガーは黙って彼の目を覗き込んだ。
「やっぱり、その気にならないか?」
 からかいの入り混じったエドガーの問いに、レイは再び驚いたらしい。ようやくそっと笑った。それから腕の中、潜り込んでくる。
「……それは、僕が後悔していることだ」
 やはり、とエドガーは内心にうなずいていた。逃亡生活が始まって以来、こうして腕の中でレイは眠る。安心するのだろう、たぶん。エドガーとしては拒む理由などない。いまも、ならば今夜もそのとおりに、と思ったところだった。
「はい?」
 だからこそ、レイが何を言ったのかわからなかった。聞き取ることすら耳が拒絶した、そんな馬鹿な気さえする。
「だからな。無茶苦茶な誘い方をしたのは僕だ。あんな風に言われて、君だって嫌だっただろう? 僕は君が欲しいけれど、無理強いするなんて――」
 冗談ではない、それはチャールズがしていたこと。レイは口の中で呟く。決してあの血筋正しい兄のようにはならないと誓うように。
「レイ――」
「だから、忘れてくれていい。君が」
「ちょっと待て。嫌がってるんじゃないかって思ってたのは俺の方だし、あんたがそれを否定したのも覚えてるんだけどな?」
「それは……そうだけれど」
 ぎゅっと押しつけられるレイの額が胸元に。ぬくもりに、ほんのりとレイの体から立ち上る温泉の匂い。もしかしたら照れているのかもしれない。ふとそんな想像をしてみる。楽しいより、空しい。それでもレイがここにいる、それだけは確かな事実だった。
「ちゃんと風呂まで入って準備してきて? それでやっぱり寝る? そりゃないだろうよ!」
「それは、だから! 寝る前に、温まりたいとか!」
「で、ほんとは?」
 にやりと覗き込めば、眼差しを伏せたレイ。次に見上げてきたときにはまるで挑発。言い訳と了承が済んだらしいと見極めたエドガーがくちづけようとした正にその瞬間、レイの方からくちづけてきた。甘く柔らかい唇が、自分のそれを貪っている。ほんのしばし、エドガーはされるままだった。
 酔った夜色の目がそこに。無意識なのだろう、濡れた唇をちろりと舐めたレイのその仕種。狙ってエドガーは彼を押し倒す。
「あ――」
 エドガーの体に潰されて、レイはほんのりと笑う。誘う腕が首筋に。くちづけだけでは足らないと。それなのにレイの眉がふと顰められ。
「レイ?」
「……色々と、すまない。君にばかり、無茶を言ってる。我が儘ばかり言ってる。すまない、モーガン」
 絡んだ腕もそのままに、レイは真っ直ぐとエドガーを見上げた。それでもなお揺れる眼差し。後悔のようで、愛のようで、エドガーは言葉を失う。無言のままに額にくちづけ、そっと微笑む。
「気のせいだろ? 我が儘言われてる覚えがないな」
「僕は――」
「言ってる方に自覚があっても、言われてるこっちに覚えがないんだったら別に問題なくねぇか?」
「そういう問題か?」
「この状況でそんなこと言いだすあんたのが遥かに問題だと思うぜ?」
 せっかくその気になって続けようとしたのに。いかにも嘆かわしげに言ってみせたエドガーにレイは微笑む。強張ったそれではあったけれど。幾分かは、力が抜けていた。
「それと。モーガンはよせって言ったよな?」
「あ……すまない」
「エディって呼びにくいか? いや、そういやあれか。人目がなかったらいいって言ったのは俺か」
「そうじゃ……」
 口ごもったレイの唇を悪戯に舐めれば、軽い悲鳴。睨まれてもその目が溶けていてはエドガーには歓喜の種になるだけ。
「その」
「うん? どうした」
「その……。エディじゃなきゃ――だめに決まってる。僕は何を言ってるんだ。君は、黒猫のエディだ。忘れてくれ」
 す、とそらされた眼差しをエドガーは問答無用で追った。頬に片手を当てれば、掌に熱。レイの頬の熱さがじんわりと伝わってくる。
「レイ。言えって。なんだよ?」
 なにかに慌てているらしいレイだったけれど、エドガーにはわからない。理解したいとは思う。けれど勘違いはもっとしたくない。そんな彼の思いなど知る由もなくレイはエドガーを挑むように見上げた。
「……エドガーの方が呼びやすい、そう思っただけだ。わかっている。一つ、君は黒猫のエディであって他の呼び名はないはずだ。一つ、たかが呼び名であっても追手を撒くためにしていることだ、一つ――」
 数え上げるレイの口を塞いだ。小さくくぐもった声。ほどけて行くまで、くちづけた。ためらうよう名を呼ばれ、エドガーは何度でも返答を返した。




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