木蔦の家

 素肌に触れているレイの指がたまらない。おかしなふるまいをするより先に、とエドガーは静かに身を引く。その彼をじっとレイが見上げた。そして何気なく視線をそらし、うつむく。小さな溜息が聞こえた、そんな気がした。エドガーは気のせいだと割り切って服を手に取る。
「エディ」
 手にしたばかりの服をレイに奪われた。首をかしげれば、顔を顰めたレイ。これだとばかり目の前につき出してくる。
「血だらけだ。洗濯しないと」
 額から飛び散った血液が、確かに前面に塗れている。が、エドガーとしてはとりあえず羽織っておいて、その上で着替えに立とうと思っていただけ。いつまでもレイの前で肌をさらしていたくなかっただけのこと。
「それに、あちこち切れている」
 襟といい袖口といい、すっぱりと断ち切られていた。カレンの魔法だ。直撃を避けただけ、であって余波は当然にして食らっている。その程度で済ませたのがエドガーの技量だったけれど。
「繕わないといけないな、これは」
「あぁ、だったら……」
「いい。僕がする」
 言ってレイは抱きしめるように服を抱えた。きゅっと服を抱く腕に、引き締まった口許。まだまだ言いたいことはあるらしい。それでも黙ってしまうレイだった。
「そうか、頼むよ。悪いな」
 使用人として生きて暮らしてきたレイだった。お仕着せ以外の服はそうして自分で丁寧に着てきたのだろう。エドガーも同じだ。自分でその程度のことはできる。けれどレイがしてくれると言うのならばこんなに嬉しいこともない。
「悪くない。君が……こんな怪我をして」
 ぎゅっと噛んだ唇にエドガーは知らず手を伸ばしていた。あまり噛みしめていて、見ているこちらが痛むよう。
「あんたのせいじゃない」
 ならば誰のせいだと言わんばかりのレイ。見上げてくる眼差しは暗かった。それにエドガーは微笑んでみせる。レイは足らないとばかり首を振る。そんなものでは誤魔化されない、と。
「レイ」
 うつむいたレイを呼べばこればかりは素直に顔を上げた。そこにエドガーは黙ってくちづけた。自然と緩やかに腕が首に絡んでくる。だから、早く服を着てしまいたかったというのに。
 イーサウに到着してすでに十日が過ぎている。この間、一度としてエドガーはレイに触れていなかった。背筋にぞくりとしたものが走り、慌てて彼を離す。
「エディ」
「あ、いや。なんでも――」
「君は、僕が欲しくないのか」
「おい」
「だって、もう十日だぞ。君は抱きたくなるかもしれないと言った。なのに、十日というもの黙っておとなしく隣で寝ているだけだ。僕はなんだ、枕か?」
 唐突とも言える激しさでレイは言う。真っ直ぐとエドガーを見て言いきり、そして言い終えるや否や、うつむいた。その様子に思わずエドガーは微笑んでしまう。甘くなじられている夢でも見ているような、そんな気がして。
「いや、まぁ。その……」
「その、なんだ」
 うつむいたままのレイの黒髪。撫でれば指に心地よい。嫌がって首を振るレイを致し方ないと腕に抱けばほっとした吐息。素肌に触れるレイの頬の熱が痛いほどだった。
「……新しい生活に慣れるまで、とでも思っていたなら。許す」
 ぼそりと呟かれた言葉に危ういところでエドガーは吹き出さないで済んだ。それでも動いてしまった体にレイが不審げな眼差しを向ける。なんでもない、と微笑んでも騙されそうになかった。だからエドガーは彼の唇を軽くついばむ。
「なにか、誤魔化したな、君はいま?」
「気のせいだ」
「知っているか、エディ? 君は何かを断言するとき、必ず嘘をついている」
「そう……か?」
 そうだ、とうなずいてレイはほんのりと笑った。嬉しそうな笑みは何に由来するものなのだろう。こうして自分の側にいてくれることさえまだ、エドガーには信じがたいことなのに。
「まぁ、それはそれとしてな。レイ。服返せ」
「人を痴漢のように言わないでもらいたい。新しいの、持ってくる」
 ちらりと笑ってレイが腕から抜け出る。甲斐甲斐しい、と言っては怒られるだろうか。けれどイーサウでこうして暮らすようになってレイはそうとしか言いようのない姿を多々見せる。それにもエドガーは戸惑っていた。
 レイが持ってきてくれた服に袖を通せば、黙ってじっと自分を見つめている眼差し。居心地が悪くてエドガーもまた、レイを見つめ返す。
「レイ?」
「やっぱり、誤魔化されたな、と思っていた」
「うん?」
「だから……さっきの話だ。別に嫌がるものを無理矢理に抱けと言うつもりはないけれど。でも――」
「いや、そのな、レイ。俺の方こそ嫌だろうと思って遠慮を――」
「君を拒む理由はない。そう言ったはずだ。忘れたのか、君は」
 今度こそ本気でなじられた。それも甘く。夢のような幻のような。胸の中がぎゅっと掴まれて、エドガーはだから笑ってみせる。悪戯にレイを抱きしめ、痛いと悲鳴を上げさせる。
「君は!」
 笑いながらレイがくちづけてきた。冗談にも似た、けれど真摯なくちづけ。エドガーは笑みを浮かべて受けていた。あまりに幸せで、浸ってしまいそうで、それが怖い。抱きかかえたレイを離せば、不満顔。
「まだ日があるうちには、ちょっとな?」
「言ったな? だったら、楽しみにしている。聞いたからな、エディ?」
「あいよ」
 本当だろうか。楽しみに、といま彼は言ったのだろうか。聞き間違いのようでエドガーはためらう。しかしレイは微笑んでいた。じっと見上げてくる夜色の目が、嘘ではないと言っていた。知らずエドガーの口許にもふっと笑みが上った。
「エディ?」
 見惚れてくれたのだろうか、レイは。あまりにも素直な眼差しにエドガーこそ見惚れていた、本当は。苦笑と共に首を振り、何気なく見えるように、と願いながら隣に座る。肩を抱けばもたれてくるレイがいた。
「いや、不思議だな、と思ってた」
「なにが?」
「デニス坊やとあんたと、年はそんなに変わんねぇだろ? なのにあの坊やはどうしてあれかねぇ」
「坊や、という年ではないと僕は思う」
「なのに坊やって言いたくなる。それくらい正直、未熟」
 ばっさりと切って捨て、エドガーはレイに見えないところで厳しい顔をしていた。それに気づいたのだろうレイが見上げてくる。そのときにはもう苦笑に紛らわせていたけれど。
「君は、怒っている?」
「当然だろうが。あんたが大怪我してたかもしれない。怪我じゃ済まなかったかもしれない」
「……そうか」
 ほろりとした吐息が立ち上り、エドガーに届くようで届かない、微妙な距離に消えて行く。それでもエドガーは感じた、ように思う。
「別にデニス坊やの躾は俺の仕事じゃないからいいけどな。カレンは大変だぜ、ありゃ」
「君は――」
 言ってからレイはぬかった、とばかり口をつぐむ。とはいえさほど深刻な話題でもなさそうだ、と感じたエドガーは意地悪く彼を覗き込んでは先を促す。小さな溜息と共にレイは続けた。
「デニスのようなのが、好みなのかと思って」
「……どーしてそーなる」
「だって、ずっとデニスデニスって言ってるじゃないか」
「だから、腹立ってるから!」
「それに――」
 手当てをして、一番酷かったのが額の傷、と納得したのだろうレイだった。きゅっと縋りついてくる腕にエドガーはどうしようもない思いを抱える。
「うん?」
「タスもユーノも言っていた。君がどれほどもてるかを。どんなに遊んでいたかも聞いた」
「……あの野郎ども。いっぺん締める」
 ぎょっとするほど低い声。それでもどこかに冗談の響き。レイはふと笑い声を漏らす。エドガーの声の低さが移ったかのよう、暗かったけれど。
「あいつらの言うことはまともに聞くな。そんなに遊んでねーよ」
「一つ聞く、エディ。僕と君が会ったのはどこだ?」
「書記室?」
「そうじゃないだろう。僕らがこうなったのは、グラニットの街の快楽の館がきっかけだった。それなのに遊んでいない? なんの冗談だ、それは」
 とぼけたのに通じなかった。否、一蹴された。内心での溜息は歓喜に染まっている。恋人になじられる気分を存分に味わっていた。
「だーかーらー。俺が遊んでたのは、そういう玄人のお姉さんかお兄さんとであって、手あたり次第にあっちこっちで遊んでたわけじゃねぇっつの」
「菫館は――」
「あそこでも、素人さんに手ぇ出したことはありません。あんたが最初だ」
「最初?」
「最初」
 なぜだろう、どうしてレイはいま笑ったのだろう。含羞むように微笑んで、そっと寄り添ってきたのは、どうしてなのだろう。エドガーは理解することをやめた。代わりに黙って抱き寄せた。
「カレン師とも、ずいぶん仲がいいし」
「隊の仲間みたいで気が合う。それだけだな。率直に言って、あの女に乗っかるところも乗っかられるところも想像できねぇよ」
「下品だぞ、エディ」
「聞いたのはあんただ」
 ぎゅっと抱き寄せて、悪戯のよう額にくちづける。音を立てたそれがくすぐったかったのだろうレイが笑った。
「君は……いやじゃないのか」
「なにを唐突に?」
 ふと真剣になったレイの眼差し。エドガーこそ、それを問いたかった。自分とこうしていて、嫌ではないのかと。レイの問いはどうなのだろう。意図がわからなかった。
「いや……なんでもない。忘れてくれてかまわない」
 レイは小さく笑ってうつむいて、そして黙って立ち上がる。洗濯をしないと血がこびりついてしまうから。呟いた声はどう聞いても言い訳だった。




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