微笑んでいたレイの顔が顰められる。懸念の表情にエドガーは首をかしげた。それに彼は唇を引き結び、ここだとばかり額に触れる。 「あぁ……」 まだ出血を続けていた。傷の近くに触れたレイの指先がひんやりとして心地よい。それだけ熱を持っているのかもしれない。 「エディ……」 「大丈夫だ。頭の傷ってのは血が出るもんだからな」 「傷はどこでも血が出る」 「そうじゃなくてな。大した傷じゃなくても大袈裟なくらい出んだよ」 むつりとしたレイがたぶん、心配してくれているのだろうことはエドガーにもわかる。わかるぶん、もう少し楽しんでしまいたい。それだけエドガーには余裕があった。 「とりあえず手当てだな」 ひょい、と肩をすくめたカレンにレイが顔を向ける。そちらにも言いたいことは実はまだある。けれど我慢している、とでも言うような、そんな顔。カレンはにやりとしつつ片目をつぶった。 「あ」 その手の中、いくつもの小さなものが現れる。そのたびにカレンは床へと積み上げていった。見れば薬あり、包帯あり。応急処置の道具一式があっという間に出現する。 「魔術師って便利だなぁ」 「あんたの隊にもいるだろうが」 「いてもあんたほどじゃねぇんだよ」 ぽんぽんと交わす会話にレイが唇を噛んだ気配。血の気の薄い唇が、いまはほんのりと赤い。それを横目で見つつエドガーは薬を手に取ろうとする。 「レイ?」 腕を、引き留められていた。じっと見つめてくるレイの眼差し。夜空色のレイの目に、吸い込まれてしまいそうでエドガーは首を振る。たらたらと血が滴った。 「僕がする」 「この程度――」 「エディ?」 青ざめたままに微笑むレイ。本当の恋人のように。エドガーは小さく笑ってみせる。頼む、と。それにカレンも同調した。 「これ、持って行っていいぜ。せめてもの詫びだ」 「気にすんな。へましたのはあんたじゃねぇだろ」 「弟子の不始末ってのは師匠の責任なんだっての」 軽いカレンの言葉にデニスが青くなる。自分で詫びれば済む、とでも思っていたのだろうか。そのようなはずはないというのに。そこを理解できないのが彼の若さ。なのかもしれない。若さの別名を未熟と言うが。 「薬の効果は保証するぜ。なんせ師匠の直伝だ」 「はい? あんたの師匠は薬屋かよ?」 「んなわけあるかよ。言っただろうが。彼氏が傭兵だったんだっての。まぁ、それ以前から副業に薬屋やってたみたいだけどな。いまも適宜改良してるからな。ついでだって私にも処方を教えてくれる。助かるんだ、これが」 「へぇ、なるほどな」 あっさりとうなずいたエドガーにデニスがまたも青くなる。このままでは白くなるのではないだろうか。ふとエドガーは気づく。これもまた、カレンの教育の一環なのだと。いまここで、エドガーにもレイにもわからない、デニス一人のための訓話がなされているのだろう。 「私も食ってかなきゃならねぇからな。馬鹿弟子もいるし。ガキは食わせてなんぼだろ? イーサウに卸してる薬だからよ、問題はねぇはずだぜ」 「あんたが作ったってだけで信用するよ。なにせエイメ憧れのカレン師だからな?」 「言ってろ」 ふん、と鼻で笑うカレンのどこか照れくさそうな顔。隊の仲間と話しているような心地よさをエドガーは感じていた。 「エディ」 それに気づいたわけでもないだろうに、レイが袖を引く。早く帰ろう、と。この場で手当てをするものだと思っていたらしいデニスがふらふらとしながら寄ってきた。 「あの……せめてものお詫びに、手伝わせていただけませんか」 咄嗟に一歩を下がったレイをエドガーはいつもどおり背後に庇う。そして忘れたのか、とデニスを睨めば慌てて彼は下がってうつむく。それこそよし、とカレンがうなずいていた。 「どうするよ、レイ?」 首だけ振り向けて彼に問う。けれどエドガーは違うことを考えていた。いまレイはデニスを前にして、下がった。けれどここに来るまで彼はデニスと共にあった。一人でデニスを説得し、一人でデニスの横に立った。やはり、不思議だった。問えない問いだと、先ほども思ったけれど。 「君の手当ては僕がする」 きっぱりと断言されてデニスはレイに許されていないのを感じたらしい。レイは自分のせいだ、とは言ったけれど、もしもデニスがきちんと理由を話して止めてくれていたならば、と責めてしまいたい気持ちもあるのだろう。レイの表情にうつむいてしまったデニスの顔から、噛みしめた唇が覗いていた。 「あのな、デニス坊やよ? お前は謝ったじゃないか、どうして許してくれねぇんだって思ってるのか? そりゃずいぶんてめぇに都合がいい考えだぞ。許すかどうかは俺とレイが決めることだ。お前が決めることじゃねぇんだよ」 「あ――」 「エディの言う通り。ほんと、ガキで困ったもんだぜ。悪いな、エディ」 「ガキの躾はあんたの責任だろ? 頼むぜ、まったく」 カレンに苦情を言えばデニスが震える。自分のせいで師が責められている、それを悔いる頭くらいはあるらしい。エドガーとカレンの馴合いだとはついぞ気づかぬまま。デニスの甘えた根性を叩き直したいというカレンの無言の要請に従っただけで、エドガーとていつまでもねちねちと責めるような無様な真似をする気は毛頭ない。 「エディ、行こう。また血が出てきた」 「あいよ、帰ろうな」 「……うん」 ほんのりとしたレイの微笑み。これを見るためだけにでも、彼を守ってここまで来てよかった。背に庇ってよかった。そう思う。荷物を持とうとすればレイに睨まれ、どうやら自分はちゃんと怪我人をしていなければならないらしいと苦笑する。連れ立って地下室を出る間際、ふとエドガーは振り返った。 「そういや、あんたのお師匠さん、死んだんじゃねぇのか?」 「なんの話だ、そりゃ? 元気で生きてるよ」 肩をすくめたカレンにどうやら死んだもの、と思い込んでいた自分だとエドガーは気づく。無礼を詫びがてら軽く頭を下げれば、機嫌の悪そうなレイの顔。 「わかったから。帰るから。そう怖い顔するなよ」 「誰のせいだ?」 「俺のせいだってわかってるって。じゃあな、カレン。怪我が治るまでお相手は遠慮させてくれ。レイに怒られそうだ」 「当たり前じゃないか」 小声で、けれどレイは誰にでも聞こえるようはっきりとそう言った。カレンもわかっている、とレイにうなずいて見せる。それからぎょっとするほどの真摯さで彼に向かって頭を下げた。 「……あ」 迂闊にも漏れてしまった声にレイが唇を噛み、そしてカレンの肩先に触れる。謝罪と了承が済んだ、とたぶんデニスにはわからないのだろう。おろおろと二人を見比べていた。今度こそ二人は本当に帰る。と言っても隣の家だ。ほんの数歩でついてしまった。 「エディ、座れ」 「ん? 手当てなら――」 自分でするから気にするな、そう言おうと思ったエドガーの目を真っ直ぐとレイは見た。これを見てしまっては他人の目がなくなったのだから演技など要らないだろうとは言えなくなってしまう。素直に座ったエドガーにレイは満足そうに微笑んだ。 「……酷いな」 清潔な布で額の傷を拭う。いまだ止まらない血にレイが顔を顰めた。頭の傷とはそういうものだと心得ているエドガーはさほど深いとは思っていない。 レイはけれど丹念に傷の手当てをした。次から次からあふれてくる血をなんとか拭いきり、滴るより先に薬を塗りつけては布をあてがう。包帯で巻き留めては顔を顰める。驚くほどの手際の良さだった。 「エディ、脱げ」 「はい?」 「聞こえなかったか、脱げ、と僕は言った」 「いや、中は大したことは――」 「エディ?」 微笑んでいるのだか睨んでいるのだか。エドガーはそっと溜息をついて半裸になる。露わになった上半身はエドガーの言う通り掠り傷だった。 「すごいな、君は」 「うん?」 「僕には、君が死んでしまったんじゃないかと思うほどだったのに」 「カレンが直撃避けてくれたからだな、半分は。あとは勘」 「勘?」 「戦場の勘ってやつだな。なんだよ、あの女。どこが魔術師だって言いたくなるほどいい腕してる。剣一本でも食ってける。つか、クレアに紹介してうちに欲しいわ」 しみじみと言うエドガーにレイはうなずかない。それどころか聞いていないふりまでしている。思わず苦笑したエドガーを彼は見上げた。 「カレン師の話はしていない」 むっとしながらレイは言い、手当てを続けた。こちらは掠り傷だけだ、包帯を巻くほどではない。本当ならば薬もいらない。それでも手当てをしたがるレイの気持ちが、わかるようでわからないエドガーだった。 「……僕を、庇うことなんてないんだ。僕のために取引なんてする必要もない。そうだろう?」 うつむいたままぽつりと言ったレイにエドガーは微笑む。彼が見ていないからこそ。思わず心の内があふれ出してしまったような淡い笑みだった。それでも言葉は。 「あんたのためだけってわけでもねぇよ。追われてるのは俺も一緒だからな」 侯爵家が探しているのはタングラス侯の庶子とその誘拐犯だ。エドガーの指摘にレイが青くなる。思わず体を引いたレイの腕、エドガーは掴んでにやりと笑う。 「今更だぜ、レイ? ここであんたが消えても、どうにもならない。だったらおとなしく守られとけって」 「……どうして」 「ん、なに言った。聞こえなかった。悪い」 「別に、何も」 きゅっと唇を噛んだレイだった。それからまた泣きそうな顔をしてエドガーを見上げる。言うべき言葉が見つからず黙ったままのエドガーの肌、レイは触れた。傷に障らないように心掛けるのだろう。縋りつきはしない。そっと寄り添う。本当の恋人のように。 「大丈夫だ。心配するな。――根拠? ねぇよ、そんなもん」 「でも、追手が来たらどうする」 「逃げるさ。また。追いつかれたら、また逃げりゃいい。どこまでもな」 「……世界の果てまで」 「そうだな。それもいいな」 冗談だと思った、エドガーは。肌に触れるレイの体。悪戯に抱き返せば、胸を突かれるほど真剣なレイの手。本当の、恋人のように。 |