レイに向けて微笑めば、きつく噛みしめた彼の唇。泣きそうな顔のまま、レイはエドガーを見上げていた。ちらりと周囲を見回し、エドガーはその額にくちづける。あ、と小さな声がしたのを契機に彼はその場を離れた。 無言でカレンとデニスの元へと歩いていくエドガーの後ろから、レイの足音。ぱたぱたとした軽い音が慌ててエドガーを追う。それほどエドガーの足は速かった。それなのに、ゆったりと歩いているよう、見える。 「カレン、ちょっといいか?」 デニスを問い詰めていたカレンを遮り、彼女に向けて微笑んだエドガー。さすがにカレンは何事かを感じたのだろう。反論しかけた言葉を止めた。 それを見とった瞬間。エドガーはデニスを殴っていた。魔術師の細い体が飛んで行き、壁に当たっては縫い止められた。崩れ落ちることもできないその勢い。エドガーは無表情だった。ようやく崩れることを許されたデニスがぽとりと尻餅をつく。目の前まで歩いてきたエドガーは、物も言わずにデニスの襟首を掴んでは引き上げた。 「何しでかしたか、わかってんだろうな?」 まるで書記室時代のレイのような冷静さ。淡々とした声音にレイが息を飲んだのをエドガーは感じている。片手で吊り上げられたデニスは恐怖に目を見開いていた。 「――レイに怪我がなかったからいいようなものの。あいつに傷一つでも負わせてたら、殴り殺すところだった」 カレンの弟子だからなんだと言うのか。彼は若くとも、弟子であったとしても、魔術師だ。カレンが工房で何をしているか、わからなかったはずはない。たとえ知らなかったとしても、無防備に開けていいかどうか、わからないはずはない。 「僕は……!」 「言い訳なんざぁ聞く耳持たねぇよ。てめぇが何やったか、よく考えろ」 ぐっと拳に力を入れれば、喉が締まったのだろう、デニスが潰れた喘ぎを漏らす。そのまま締め落としてもよかった。咄嗟にレイを庇えたのは単に幸運だっただけだ。あれがレイに当たっていたら、そう思うだけで背筋が冷える。 「エディ」 柔らかな声は誰のものだろう。そう思ったのだからエドガーはずいぶんと冷静さを失っていたことになる。見かけ上のそれなど、飛んで行くくらい頭に血が上っていた。 「レイ?」 デニスを吊り上げた腕にレイが触れる。まるで容赦を求めているようで、それさえ癇に障った。エドガーの心に気づいたのだろうレイがほんのりと笑う。 「デニスは、悪くない。僕が、無理を言った」 「無理を言おうがなんだろうが――」 「聞け、エディ。――君が、カレン師と何をしているのか、どうしても気になった。だから、無理やり連れてこさせて開けさせた。デニスより、責めるなら僕を」 「あんたを責める理由が俺にはない」 「嫉妬に狂って君に怪我をさせた僕なのにか?」 ばたりと音がしてエドガーは驚く。何事かと見やれば、なんのことはない、自分がデニスを放り出していた。突然に解放されたデニスはまじまじと二人を見上げている。 「嫉妬?」 が、エドガーはそんなものを見てもいなかった。そこにデニスが「落ちている」と認識しただけ。目はただレイを見ていた。彼が何を言ったのか、と。 「そう、嫉妬。カレン師と二人きりで、こんな……地下室にこもって。君は何を。そう思ったら、止まれなかった」 何を思うより先にレイを腕に抱いていた。レイにとって地下室とは忌まわしい単語以外の何物でもない。だからこそ、エドガーは自分がどこにいるのかレイに言っていなかったのだ、と気がつく。頭の片隅、ぼんやりとレイに血がついてしまう、そんなことを思う。 「――僕なら、平気だ」 「悪かった」 「隠し事はなしだ、エディ? また君に怪我をさせるのは、嫌だから」 「了解」 耳元に囁けば、少しだけ冷静さが戻ってくる。途端にそこにカレンがいた、と思い出す。何気なくレイを離せば、そちらでカレンが片目をつぶる。 「私のことなら気にしなくてもいいぜ? あと、デニスのことも気にすんな。あんたが殴ろうがぶち殺そうが、私は関知しねぇよ」 「せめて殺すのは止めろ。俺を犯罪者にするんじゃねぇよ」 「だから犯罪者にしねぇよう、手を打ってやるって言ってんだ」 にやりと笑ったカレンの目がデニスを射抜く。ぞくぞくと震えていたデニスが微動だにできなくなるほど青ざめていた。 「エディ」 そこに伸びてくる指先。カレンと見合っていた顔に触れてくる。自分の方を向けとばかりに。レイを見下ろせば、小さく笑っていた。 「僕はまだ、君が何をしていたのか、聞いていない」 「うん?」 「実は切り合いをしながら愛を語らっていた、なんて言われたら僕は何をするか自分で自分が不安になる」 「……おい」 「だからエディ?」 ふふ、と笑うレイにエドガーは天を仰ぐ。向こうでカレンが爆発するよう笑っていた。それにもレイは微笑んでみせる。思えば、どれほど何を考えたのかわからないながら、レイはデニスを説き伏せてここまで来た。若い男性であるデニスと、二人で。町中を一人でこの家まで。恐怖すら飛び越すほど、レイは何を思ったのだろう。エドガーにはわからない。諸手を上げて降参するふりをしては笑ってみせる。 「言ってみりゃ、実験台だよな、カレン?」 「失礼な。言ってみるも何もねぇよ、まるっきり実験台だぜ?」 「あー、つまりな?」 ぴくりとレイの眉が動いた気がした。実験台、と言われたのが何かの癇に障ったらしい。が、エドガーには見当もつかない。ここは話を戻すに限ると言葉を続けた。 「戦闘中の攻撃呪文をカレンは試してたんだ。こりゃ、相手する方もそれなりの戦闘技術がねぇと話にならねぇ」 「一撃必殺で死んじまったら実験にならねぇしよ」 「だな。だから俺が相手を務めてたわけだ」 「どうして君が? 黒猫にも他に人はいるし、そもそもカレン師はイーサウの重鎮だ。自衛軍を使えばいい」 「そこが問題なんだ。自衛軍のやつらを俺らが、訓練してる。それでもわかるだろ? 黒猫の隊員以上に腕があるやつがいねぇの」 「でも、君じゃなくてもいい。ヒュー副隊長だっていいじゃないか」 「ん、レイ。もしかして本気で妬いてるか?」 「そう言った。物覚えが悪いのか、君は」 むっとして見上げてくるレイの眼差し。どこまで本気でどこから演技なのだろう。レイが嫉妬する理由などないはずなのだけれど。そんなエドガーの心持ちに気づかないレイはむつりと唇を引き結んでいる。 「俺が相手してた一番の理由は借りがあるから、だな」 「なにを。いつ、どこで」 「そう畳みかけるなっての。耳貸しな、レイ」 そこにデニスがいる。この少々頭の足らない若き魔術師の耳に入っては大変だった。不機嫌な顔のままエドガーに身を寄せたレイの耳元、彼は言う。 「追手の情報が入ったら横流しを頼んだ」 息を飲んだレイにエドガーは笑ってみせた。そのときでも必ず守って見せると誓うように。エドガーの胸元、レイが握りしめてはうつむいた。 「さてさて、レイ。納得してもらえたか? あんたに黙ってたのは悪かったと思ってる。その点は詫びる。つかな、エディが話してると私は思ってたんだがよ?」 「諸事情あって黙ってた」 「ふん。なるほど? 諸事情は突っ込まないでやるよ」 「ありがたいね」 心にもない礼と詫び。それでも互いの間に信頼が繋がっている。レイがつい、と顔を上げてはじっとエドガーを見つめた。 「エディ。君はいつからカレン師を呼び捨てにしている」 「ん、いつからかな。気がつかなかった」 「もし君が僕よりカレン師を選ぶなら――」 「おい、レイ!」 「おとなしく身を引く、なんて言うと思うなよ? 力の限り邪魔してやるからな」 すぐ目の前でレイが笑っていた。ちくちくと胸の中が痛むのに、エドガーもまた笑う。本当の恋人同士のような、そんな気がするせい。幻だとわかってはいる。それでも。 「馬鹿言うんじゃねぇよ。俺はあんたがいい」 悪戯に彼を抱き寄せれば小さな悲鳴。さすがに驚いたらしい。それでも悲鳴は一瞬で、満足そうな吐息へと変わっていく。 「そろそろこっちだな? おいデニス。二つばかり言っとくことがある」 つかつかとカレンがデニスの元に歩み寄り、へたりこんだままの彼を見下ろした。その目にある冷たい光にレイの頬に浮かんでいた笑みが消えて行く。 「一つ。てめぇは、ガキだろうが魔術師の端くれだ。使用中の工房に、しかも私の工房は呪文室兼用だって知ってて、なんで開けた? てめぇが死ぬだけだったら私は馬鹿がいたって嘆いて終わりだ。自殺願望があるんだったら他人を巻き込むんじゃねぇよ」 「僕は、そんなつもりじゃ……」 「どんなつもりだろうとてめぇがやったのはそういうことだ。二つ。エディとレイを見て、どう思う? てめぇな、師匠にあんだけ説教されたのにまだ懲りずに他人の関係に嘴挟んでごちゃごちゃ言ってるな? もっかい師匠んとこに叩きこむぞコラ」 「でも、その。愛とは、束縛――」 「それはエディとレイの問題だ。互いに縛り合いてぇってんだからほっときゃいいんだ、そんなもんは。あのな、デニスよ。将来お前が女連れてきたとしようか。あっちこっちであることないこと言いふらされたらどう思うよ? な? 自分がやられて嫌なことを人にするんじゃねぇよ。んなことは魔術師以前の問題だぜ。人としてどうかってとこだ。いい加減に目を覚ましやがれ、馬鹿弟子が」 がつん、とそれは痛そうな音がした。思い切り殴られたデニスが涙をこぼす。ようやくエドガーに殴られた体も痛み始めたらしい。 「――エディさん、レイさん。申し訳ありませんでした」 這いずり上がって壁にすがって言う姿は決して格好のいいものではなかった。が、エドガーはいま寛大な気分だった。肩をすくめて忘れてやることにする。 「いまは許してやる。レイに怪我もなかったことだしな。ただな……お前、いまのままじゃ何度でもおんなじことするぜ。俺に関してなら次はねぇぞ。本気で殺す。忘れるな」 笑みさえ浮かべて言うエドガーにデニスはがくりとうなずいた。思うところはあるらしい。そのエドガーの顔に指が触れ、引き戻されれば嬉しそうにレイが笑っていた。 |