十日もすれば、あるいは腕を組み、あるいは肩を抱いて「出勤」する二人の姿も珍しいものではなくなった。隊の本営までレイも出かけねばならないのだけれど、まだまだ一人での外出には不安のある彼だからそうしている。その真実を知っているのはごく少数。 「まーた、焼きもちかよ!」 道々飛んでくるからかいの言葉は、基地だけあって野卑なものだった。それにもずいぶんレイは慣れてきた。 エドガーは内心でデニスに感謝していなくもない。どうやら理不尽だ、とそこかしこで愚痴を漏らしたらしい、彼は。おかげですっかり嫉妬深い男とその恋人として定着した。さすがにカレンからは内々に詫びの言葉があったけれど、元はと言えば自分が蒔いた種、しかも半分くらいは噂になれば好都合、と思って蒔いた種だ、詫びられる筋合いではない、と彼女には言ってある。あちらもそうだろうと思っていたのだろう、かすかに笑っていた。 「で、どうだ。エディ?」 午後も遅く、隊舎に付随する本営に出頭した彼だった。当面はここがレイの仕事場ということになる。が、エドガーはレイに用事があるのではなかった。ここにいるのは彼だけではない。そしてタングラス侯爵邸のよう、書記室などという上等なものはここにはない。つまるところ隊長執務室だ。よって、問うているのは当然にしてクレア。 「まぁ、予想どおりってところだな」 かりかりと隅の方から筆記具を走らせる音。真剣に仕事をするレイの横顔を眺めていた、と気づいたクレアが渋い顔をする。それでも目だけは笑っていた。 「どう予想して、どう予想どおりなのかを聞かせてほしいね」 ふん、と鼻を鳴らした隊長にエドガーは肩をすくめる。イーサウからの依頼は自衛軍の戦力増強だった。単に増員するのではなく、各個人の戦力を鍛え上げろ、というもの。武術指南役を務めていたエドガーには慣れた仕事、とも言える。 「昔のイーサウ自衛軍はけっこう鳴らしたらしいがな」 「今は違うと?」 「そりゃ隊長の方がご存じってやつだろ」 肩をすくめたエドガーに、では事実だったか、とクレアが眉を顰める。エドガーもクレアも話に聞いているだけではあったが、かつてのイーサウ軍は小さいながらも相当な戦力だったらしい。 「いまはあれだろ。戦争から遠いからな、そりゃ戦力は落ちるさ」 「それを上げろって言われてるのが気になるんだよ、私は」 「俺らは戦争屋だぜ? 戦争がなかったら飯が食えねぇ」 言った途端だった、向こうを向いたままのレイの肩がぴくりと動いたのは。こちらを見もせずに、レイは耳だけ傾けている。なぜだろうと思う。 「だからな、エディよ。私はそんな噂が聞こえてこないから、不思議に思ってるんだ。わかったか?」 傭兵隊にとって戦争は言ってみれば飯の種だ。隊長のクレアには風聞程度であろうとも、噂話は聞こえてくるもの。それがない、と彼女は言う。クレアの言葉と同時にレイの肩から力が抜けた。 「そうか……ないのか。だったら、健全な方向か? 兵隊がだらしねぇのが気に入らん、とか」 「かつては最強を誇った軍だからな。わからなくもない、か」 「最強ってのは本人たちの弁ってやつだろ?」 からかうよう言うエドガーにクレアが苦笑する。確かに当時最強、と言われたのはイーサウ軍では、ない。伝説の国、幻の都、アリルカ軍だ。今となっては嘘か本当かも定かではない。 「兵もきつそうではあるけどな、けっこう楽しそうに訓練はしてる。自分たちの力が上がるのが楽しいって感じだな」 エドガーの目ならば間違っていないだろうと言うようクレアはうなずいた。実際クレアは訓練には参加していない。時折、訓練の様子を眺めに来る程度だ。それでも兵たちには思うところがあるのだろう。彼女に対して野次が飛んだことは一度もない。否、一度だけあった、らしい。エドガーは知らない。そのときには側にヒューがいた。そして野次は二度となくなった。そういうこと、らしい。 「だったら通常訓練でいいってことか?」 「あぁ。あと、なんか要望があるって言ってたな?」 「あるよ。我々流の戦い方を徹底的に仕込め、とお偉方に言われている」 「そりゃ、あれか。魔術師と連携しろということだな、隊長?」 「そのとおり。飲み込みのいい男というのは重宝するな。レイさん、感謝するよ。またエディと組めて私は大変に楽ができるようになった」 振り返ったクレアが笑う。ほんのりと頬を染めてレイは目礼を返した。クレアはこんな調子ではあるが、美女だ。レイは眉目秀麗ではあるが、男だ。時々見ているものと交わされている会話が逆なのではないか、とエドガーは混乱しないでもない。もっとも、混乱するふりをして楽しんでいるのではあるけれど。 「じゃあ――」 今日の訓練が終わったのならば解散、レイも切りのいいところで終わりにしろ。クレアが言いかけたとき彼女が息を詰まらせる。そして溜息。十日に三度もあれば慣れるだろう、傭兵なのだから。 「カレン師。もう少し穏当に訪問していただきたいな」 「おや? すまん、気がつかなかった。どうすりゃいいかな、クレア隊長?」 「……けっこう。で、なんの用事です?」 諦めたのだろう、クレアは。いくら魔術師との連携を重んじる傭兵隊とは言え、こうして易々と転移してくるほど高位の魔術師と連携したことなどない。というより、知り合うことすら稀だ。結果として、彼ら魔術師の常識外れぶりにこちらが慣れた方が話が早く済むものだと傭兵隊は学ぶことになる。 「あんたじゃねぇんだ。エディさ。――顔貸しな」 「またかよ?」 「一度で済むと思うなよ? 言っただろ」 「誰が一度だ。もう三度目だろうが!」 「あぁ、そうだったな。物覚えもいいらしい。あぁ、記憶障害の類は出てねえな? 結構。来な」 「……ったく。レイ、終わったら迎えに来る。ちょっと遅くなるかもしれねぇけど。悪いな」 向こうを向いたままだったレイがやっと振り返る。顔色が悪かった。無言でうなずく姿に、胸の奥を鷲掴みにされた、そんな気がした。 「レイ、そんな顔するな。別にエディを取って食おうって言うんじゃない。むしろ、用があるのはこいつの体だけだしよ」 「――卑猥なこと言ってんじゃねぇ!」 溜息と怒鳴り声、どちらを優先させるべきだろうか。迷った末がこれだった。エドガーの罵声にクレアがぎょっとした顔をし、ついで笑う。すっかりカレンと親しくなった、と喜んでいるらしい。隊長としては人脈は大事だろう、確かに。が、あまり嬉しくはないエドガーだった。 「卑猥? どこがだ? 現に――」 「いい。いいから、わかったから! さっさと用事を済ませるぞ、おい」 「あいよ」 にやりと笑ったカレンが手を差し伸べる。渋い顔をしながらエドガーはその手を取った。この無頼女性魔術師、途轍もなく手が綺麗だった。繊細優美で、貴族女性の手など比べ物にならないのではないかと思ってしまうほど。ためらったのは、最初の一度だけ。その手の持ち主はカレンだった。 「……う」 魔術師による転移、というものをエドガーも聞いたことがあった。が、体験することになるとは思ったこともない。想像の遥か遠く、シャルマークの北壁踏破が現実に思えるほど遠く、だ。 「さすがに慣れるのが早いなぁ」 飄々としたカレンの声にエドガーは頭を強く振る。それで少し、吐き気が治まった。どうやら転移の後遺症、というものらしい。慣れるしかないのだともカレンは言う。 「慣れてねぇ。あー、気持ち悪い」 「でも立ってるだろ? さすが傭兵だぜ」 「関係あんのか?」 カレンの自宅地下だった。こんなところにこんなものが、と驚いたエドガーにカレンは言ったものだった、ここは魔法空間だ、と。さっぱり意味がわからないながら、現実にあって現実ではない、と言われるに至ってエドガーは青ざめる。が、そこは傭兵。この目に見えているのならばあるものだ、と結論して今に至る。そしてこの魔法空間でカレンは実験を行うのだと言う。ここはカレンの工房だった。 「あるぜ? 即時即応ができねぇ傭兵は死ぬだろうがよ」 なるほど、とエドガーは納得した。確かに一理ある。が、それだけでもないような気がしなくもない。もっとも、それこそ剣を振るうしか能がない傭兵だ、魔法はさっぱりわからない。カレンの言う通りなのだ、と思っておくことにする。 「で、今日は?」 カレンのにやにやとした笑い顔にエドガーは腹に力を込めた。今日もまたとんでもないことをやらされるらしい。 「さぁ、覚悟しろよ、傭兵?」 笑みと共に魔法が飛んできた。必死になって回避する間に今度は剣の切先。いつカレンが剣を取ったのかなど見えもしなかった。 最初のうちは飛ばしあっていた互いの罵声も、ついには聞こえなくなる。聞こえるのはただ足音と、息遣い。目の動き一つで相手の先を読もうとする。カレンの美しい剣の先が小さく振れる。騙されるエドガーではなかった。カレンの誘導とは逆に飛べば、最前彼がいた場所を突き抜けて行く爆炎。反対にいてすら、炎の熱さを感じた。背筋に感じた冷や汗が、瞬く間に乾く。それをエドガー自身、すでに意識していない。来る、と感じたときには体はもう動いていた。 「――な!」 それを無理やり逆に振る。ねじれた体に無理がかかり、体勢が崩れる。カレンの悲鳴じみた罵声。エドガーに直撃しかねなかった魔法は寸前で軌道を変え、地下室の壁を穿つ。呪文で強化された壁は傷一つなかった。しかしあれが当たっていたならば自分は無事ではなかっただろう、エドガーはいやに冷静にそれを感じる。 「怪我、ねぇか?」 ほっと息をつけば、あちこちが痛かった。直撃しなかっただけで、相当に傷を負ったらしい。振り返った先、背中で庇ったレイが泣きそうな顔をしていた。 「僕は、ひとつも。――君が」 伸びてきた指先が頬に触れる。触れられて、はじめてぬるつく。出血が酷いらしかった。 「血がつくぜ。触らない方がいい」 レイの手を取れば、激しくかぶりを振る彼。剣を収めてエドガーはそっとその手を握りしめる。腕に抱けば、彼まで血塗れになってしまうから。それこそを望むよう、レイが縋りついてきた。傷を慮るのだろう、服の胸元だけをぎゅっと握って。 「掠り傷だ。平気だよ」 レイの耳元に囁きながらエドガーの耳は罵声を聞く。カレンがデニスに向けて怒鳴っていた。 |