エドガーの内心がどうであれ、レイは不思議そうな顔をして彼を見上げていた。何を言ったのかわからなかったか、とエドガーは小さく微笑む。それから実物を見せた方が早い、とばかりにレイの肩を抱いたまま歩きだす。行先は当然台所だった。 「エディ?」 「見てみな。普通の台所じゃねぇだろ?」 言われてはじめて気づいたのだろうレイの表情は見物だった。ありありと畏怖を浮かべたかと思えば歓喜に代わる。魔法というものにどれほど憧れていたのかがわかるというもの。 「エディさんはご存じのようですが……」 「ご存じってほど知らねぇから教えてくれって言ってるんだって。魔法具だってわかる程度にしかわからん」 「エディ、魔法具とは?」 肩を抱かれたまま見上げてくるレイの顔。どことなくくすぐったそうだった。デニスを怖がるよりはずっといい、エドガーはそう思う。 「合言葉一つで魔法が飛びだす道具?」 エドガーの言葉にデニスがなんとも言いがたそうな顔をした。間違ってはいない。が、あまりにも大雑把だ、と思ったらしい。もっとも、間違ってはいないのだからエドガーとしては問題を感じていなかった。 「ご覧ください、こちらに――」 デニスが身を乗り出し、レイの手を引こうとする。触ってみればいいとでもいうつもりだったのだろう。不自然な態度では決してない。けれどしかしレイだった。ひっと息を飲んでエドガーに縋る。それより早くエドガーは彼をきつく抱き寄せていた。 「デニスって言ったな? 頼むからこいつに触ってくれるな」 「え……それは……、その?」 「俺には悪癖があってな」 ぎゅっと縋りついたままのレイが腕の中で震えている。なだめるよう髪を梳き、何度も背を叩く。大丈夫だ、と言いたげに首を振っているレイだったけれど少しも大丈夫には見えなかった。 「悪癖、ですか?」 突如としてにやりと笑うエドガーにデニスは辟易としたらしい。レイとエドガーを見比べて、どうしたものかと考えている。それが見て取れるほど彼は若い。レイとさほど変わらないだろうに。そのぶん、レイは苦労をしてきたということなのかもしれない。 「嫉妬深い上に束縛癖があってな。彼氏に他の男が近づくのは許し難い。ちょっとでも触ろうもんならあとでこいつを責めるからな。それがわかってるから、こいつも他人を嫌がる。だから、触んな」 ふ、と腕の中。レイが呼吸を緩めた。あるいは笑ったのかもしれないと思うほど緩やかに。ほんの少し、縋りつく指から力が抜けた。 「そんな……! 理不尽です!」 「だから悪癖だって言ってんだろ?」 「悪い癖だとわかってるなら……いえ。僕には理解しがたいですけど、ご本人たちがいいなら、そういうものなんでしょうね」 「納得できねぇって?」 「それは、そうです。納得なんかできません。だって酷いですから。でも、それをどうこう言うべきじゃないんだろうな、とは……その」 口を挟んで大問題になった経験があるらしいデニスの口調だった。それこそエドガーは何も言わない。それはデニスの経験だった。 「ま、世の中ってのはお前がどう思おうが、お前の思い通りになんかならないってことだな。お前の正しさがすべてってわけでもないんだ」 「でも、善は善、悪は悪、だとは思いませんか?」 「その基準は? 俺は所詮しがない傭兵だがな。敵にも敵の理由と信念があるってことを知ってるぜ?」 「あ……」 ぽかんとしたデニスをつくづく若いな、とエドガーは思う。まるで子供ではないか、という意味で。それほどこの若き魔術師は守られているのだろう。そして守られていること自体をまだ、理解していない。それがどれほど幸福なことなのか、彼は知らない。二王国では魔法と聞いただけで跳び退って逃げられるものなのに。 「お前はずいぶんと幸福なんだってこと、考えた方がいいだろうな。師匠にたまには礼の一つも言った方がいいと思うぜ? あぁ、常日頃から感謝を忘れてねぇってんなら悪いこと言ったけどな」 違うだろ、とエドガーの目はデニスを見ていた。デニスはわずかにうつむく。それが答えだった。無論、エドガーはデニスをやり込めたいわけではない。レイが少しでも落ち着く時間を稼ぎたかっただけだ。この行為はデニスの基準に照らせば善なのか悪なのか、ふとそんなことを思う。 「……君は」 どうやら時間稼ぎは功を奏したらしい。レイの青ざめた顔が上がる。ほんのりと笑みを刻んで。からかうようにエドガーを見上げていた。 「カレン師のことになると、ずいぶんあの方の肩を持つな?」 「それは――」 「嫉妬、と解釈してもらって構わない。僕だって焼きもちの一つくらい焼くことはある」 ふん、と鼻を鳴らして軽く胸を押しやる。もう大丈夫、と言っているのだろう。信じられたものではなかったエドガーだった。が、レイの意志を尊重して腕の囲いからは出してやる。すぐに肩を抱き寄せたが。 「エディ」 「なにか文句が?」 「……ない」 これが不満そうだったら善意のデニス君は抗議をしたのだろうな、とエドガーは思う。しかしレイは仄かに頬を染めてうつむいていた。縦に切ろうが横に切ろうが照れたのだとしか思いようがないその表情。さすがのデニスも何も言わなかった。 「で、デニス。本題に入ってくれるか?」 「え……? あ! はい」 「おいおい、忘れてたのかよ?」 自分で話をずらしておいたくせにデニスのせいにしてのけた。これが大人のやり方だ、とデニスに言ってみたくなる。そんな自分をエドガーは内心で笑う。レイと似た年頃だろうデニス。が、レイを子供扱いしたことは一度としてない。それは彼が落ち着きのある書記だから、ではたぶん、ないだろうと思う。 「ここに、魔法具の認識点があります。触っても壊れるようなことはないので、安心してください」 「認識点? だからな、俺らは他国人なんだっての。専門用語は省いてくれ」 「あ、すみません……つい」 申し訳ない、と頬を赤らめてデニスは頭をかく。悪意は微塵もないらしい。わからないでもない、とエドガーは思う。普段話しているように話しただけ、なのだろう。 「――わかる。普通に話しているのに、通じないことが僕にも経験があるから」 「我が師から、書記をなさっていると伺いました! 立派なご職業だと思います!」 「ありがとう。書記には書記の言葉使いがあるから。君もたぶん、そういうものなんだと思う」 「はい、そうなんです!」 嬉々としてレイに向かって身を乗り出すデニスの頭を危ういところで殴りそうになったエドガーだった。さすがにカレンの弟子、と思い出すことでなんとか留まる。代わりに思い切りよく平手で叩いたが。 「あ!」 「だから! こいつに触るなっていま、言ったばっかりだろ!」 「あ……すみません!」 レイに向かってデニスは頭を下げた。咄嗟にきゅっと縋りついてきたレイの指にまだ緊張は残っている。けれどすぐさまエドガーが介入する、と信じていたのかもしれない、彼は。先ほどのよう悲鳴を上げることはなかった。 「平気だけれど――エディの言葉は忘れないでいてくれると嬉しい」 「できるだけ」 物覚えがよくなくて、とデニスは笑う。そんなことで魔術師は務まらないだろうから、それは間違いなくエドガーの悪癖への反感だ。が、レイがなぜ他人を嫌がるかを語って聞かせる気は毛頭ない。あとでカレンに言っておくか、とエドガーは心に呟く。 「ここで、合言葉を受け取るっていうか。そんな感じなんです」 改めて説明をするデニスにレイは目を向けていた。どうにもたどたどしい説明だった。専門用語の理解が覚束ないのかもしれない。そして覚束ないままにいままで使っていた、とデニスは気づいたらしい。どうやらカレンはそれを見越してここに寄越したか、気づいたエドガーは貸し一つ、内心に呟く。 「つまり?」 「えっと、その……」 「その合言葉? それをこのあたりに向かって言えばいいということ?」 「あ、はい! そういうことです!」 それくらいのことがなぜ簡略に言えないのか。カレンの苦労の一端を見た思いのエドガーは苦笑する。けれど思いの外にレイは楽しそうだった。デニスが、ではない。魔法具を見るのが楽しそうだ。 「こんなものがあるとは、思ったこともなかった。すごいな、エディ」 きらきらとしたレイの眼差し。ミルテシアでは目にする機会などなかった道具だった。存在だけが夢のように語られていただけで。そしてそれでも魔法だ、というだけでミルテシア人は嫌がるのだけれど。 「便利な道具、だよな? こんなものがあるって、すごいことだと俺は思う」 「本当に。――世の中は捨てたものでもないな、と思う」 「楽しいことはいっぱいあるからな、まだまだ」 「そうか?」 「疑うんだったら色々見せてやるぜ? 楽しみにしときな」 「……うん」 デニスが二人の会話に目を白黒とさせていた。とても嫉妬深い男と、その男に束縛されて息も詰まりそうな可哀想な恋人、には見えなかったのだろう。そもそも嘘なのだから見えるはずもないのだけれど。 「あっと、その! か、書くものありますか!」 「書くもの? レイ」 「あぁ、まだ大したものがないけれど」 言いながらエドガーの腕を抜け出そうとするレイを許さず、二人揃って居間の卓に置いたままの仕事道具の元へと。買ったばかりの道具を袋から取り出せばデニスが申し訳なさそうな顔をする。それでもてきぱきと何かを書きつけていった。 「これ、どうぞ! 台所と、あとは各種照明器具、必要はないかもしれませんが、暖炉にも魔法具が設置されてます。寒いようだったら使ってください!」 書き出されたのはどうやらそれぞれの魔法具の合言葉、らしい。どうしてデニスが突如として有能になったのか、とエドガーは首をひねる。レイも同じことをしていて顔を見合わせ、はたとエドガーは気づいた。 「あぁ、なるほど。若き魔術師殿は照れてしまわれたかな?」 完全にからかいに走ったエドガーだった。くつり、笑いをこらえる音がしてエドガーは腕の中を見やる。楽しげなレイがいた。もうそれだけで後でカレンに文句を言われようがかまわない、そんな気になる。 「し、失礼します!」 逃げ帰るデニスに二人、顔を見合わせては笑いあう。ただそれだけのことが幸福で、幸福だと思えることが痛みを伴う。エドガーはそれを知る。 |