家に戻ってからもちょっとした混乱があった。元々カレンの自宅だった、というこの家は魔術師の持ち物だったせいだろうか。ずいぶんと部屋数が多い。先ほど帰りがけにカレンは「ちゃんと解呪はしてあるからな」と言っていたがなんのことだろう、考えながら部屋をまわってエドガーは見当がつく。 「ここは……なんの部屋だったのだろう?」 が、レイは首をかしげていた。元々ミルテシアで生まれ育った彼だ、魔法に疎いのは仕方ない。傭兵として各地をまわったエドガーだからこそ、わかるというものもある。 「たぶん、……エイメあたりに聞きゃはっきりするんだけどな」 「君の考えでかまわない」 真実などどうでもいいと言わんばかりの語調についエドガーは笑ってしまう。それほど信頼される覚えはなかった。苦い思いを隠したければ、明るくなるしか方法がない。 「まぁ、それでいいならな。――たぶん、あれだろ、魔術師の工房? なんか魔法かけて実験したりするのに使う部屋だと思うぜ」 「こんな……普通のところで? ちょっと意外だ」 「さっき解呪がどうのって言って帰ったからな。このことだと思う」 「……なるほど」 なにか含みがありそうな声音だった。が、レイは何も言わない。ただ少しばかりエドガーを見上げては目をそらす。それだけ。 「大したものが……ないんだな」 そして咳払いをして部屋の中を見回したりして見せる。エドガーが不審に思うのはわかっているけれど、でも言いたくない。そんなレイの態度。エドガーは気にするなと言っていいものかどうかわからず、レイに付き合うことで答えに代える。 「中身はカレン師のいまの家にあるんじゃないのか?」 「あぁ……それもそうか」 ほんのりと照れた笑みを浮かべたレイがようやくエドガーを見た。それからつい、と近づいてきてはエドガーの手を取る。誰もいない、二人だけのこの家で。エドガーには無論否やなどあろうはずもない。何食わぬ顔をしてレイと指先を絡め合う。 室内はレイが言ったとおりだった。大きめの卓があるだけ。壁一面に備え付けられた棚もいまは何も乗っていない。カレンが暮らしていた当時はそこには無数の薬品が乗ってでもいたのだろうか。 「なんだか、普通の部屋なのに、そう聞くのは楽しい。不思議な空間のような気がしてくる」 口許をほころばせるレイにエドガーはほっと息をつく。思えば彼は「ミルテシア人」だった。それを言うならばエドガーとて、生まれはミルテシア。だが早くから傭兵隊に入ったせいもあってか、ミルテシアの一般的な感覚より遥かに魔法に対する忌避が少ない。むしろ、ない。 「あんたは、魔法を見ても気持ち悪かったり嫌だったりって、しないんだな」 「――そんなものよりずっと気分の悪いものを見て生きてきたから」 悪い。すまない。いずれも言えない。黙って抱き寄せれば、ぎゅっと掴まれる自分の背中。それでもどうしてだろう、いまのがレイの甘えのような気がしたのは。自ら痛い部分を口にして、自分に頼ってくれたような、そんな気がしたのは。 「……僕は、あの屋敷でいつも空想に耽っていた」 「どんな?」 「――たとえば、実は母は王家の姫君だったとか。突然、僕を養子に欲しいと言いだした高位の貴族が現れるとか。朝起きたら僕が魔法使いになっていたらとか。馬鹿馬鹿しいだろう?」 「子供ならやるもんだろ?」 「君はやったのか? 違うだろう?」 「馬鹿言うな、やったに決まってる。目が覚めたら一夜にして大金持ち、なんてことよく考えたぜ?」 生まれたことこそが苦痛の原因にもなったレイ。家の貧困こそが面倒の原因だったエドガー。互いに今は逃れた、と言えるのだろうか。 「……そうか」 逃げられたのかどうかなど、わからない。たぶん死ぬまでわからない。それでもレイがほっと息をつく、この自分の胸で息をつく。それでどれほどエドガーは救われていることか。 「――だから、僕は魔法を気持ち悪いものだとは、思えない。なんてすごい力だろうと思う。それもたぶん、カレン師に言わせれば違うんだろうな」 ほんの少し笑ったようなレイの声。エドガーは顔を顰める。それに敏感に気づいたレイだった。不意に顔を上げてはまじまじとエドガーを見上げてきた。 「なんだよ?」 「それは僕が聞きたい。君は今、何を考えたんだろう。なにか、不快になったような、そんな気はしたんだ」 「不快? なんだそりゃ。――別に、なんつーか、ああいう女が好みなのかなぁと思ってただけだぜ?」 言った途端だった。背中に衝撃を感じる。思わずじっとレイを見つめてしまった。レイに殴られた背中が甘ったるいほどに痛い。 「どうしてそういう話になる? ――君こそ、カレン師と話しているのは、すごく楽しそうだったじゃないか」 「はい?」 「僕を追いやって、二人きりで話してた。君は笑って、なんだかとても、楽しそうだった」 きゅっと押しつけられた頬が胸元に熱を伝えてくる。レイの頬に上った血の熱さだ、と気づくまでにどれほどかかっただろう。 「レイ……?」 「なんでもない! もういい。まだ見てまわるところはある、そうだろう、エディ?」 ぷい、とそっぽを向いてレイはエドガーを押しやった。まるで本当の恋人同士だ、思ってすぐさまエドガーは否定する。そんなはずはない、と。 元工房の隣は書斎だった。これも魔術師には付き物だろう。エイメもそうだったからエドガーは見当がつく。彼らは本が手放せない。 「ここ、あんたが使ったらどうだ?」 「いいのか?」 「仕事道具おいたりするにもちょうどいいだろ」 「だったら、さっきの工房だったか。あそこは君が使うといい。君だって道具類を片付ける場所がいるだろう?」 確かに武器防具はかさばる。あの棚はそんなものを収納しておくにも都合がよさそうだった。お互いの領分を確保して、さらに今度は生活の場へと。 台所に付随する食堂は元々一人暮らしだったカレンの家、ということで小さなもの。食卓にはぎゅうぎゅう詰めになれば四人が座れるかどうか、というところ。エドガーとレイが向かい合うにはちょうどいい。その食堂から窓の方へと移動すれば長椅子に低い卓のある心地の良い居間だった。 「こういうところがあまり女らしくなくて、かえって気分がいいな、僕は」 ちょい、と窓の掛け布をつついてレイは笑う。女性の一人暮らしというところからは考えられないさっぱりとした柄の一つも入っていない布だった。そのぶん布自体は上質で、色合いも優雅な曙光の仄かな青紫だったが。 「レースのぴらぴらしたのとかだとさすがになぁ、ちょっと」 「同感だ。さすがに、それは、いささか」 「なぁ?」 顔を見合わせて吹き出す。カレンがどうのではなく、そんな家に二人で住むとなったらどんな気分か、と想像して。 「あっちは水場だったな。これもさすがイーサウってとこだよな」 「エディ?」 「風呂があったろ。どんな豪邸だっつーの」 「え? あるのか。すごいな……それは」 「だからイーサウ」 にやりと笑いエドガーは言う。イーサウは温泉の街、と。いまは商業都市となっているイーサウではあるが、元をただせば温泉で豊かになった街だ。いまなお温泉は街の名物でもある。 「だからイーサウでは湯が出るんだ。家に引いてるってのも珍しくないとは聞いてたけどさすがに見るのは俺もはじめてだ」 話しながら風呂場に行けば、一人で入るには広すぎるような風呂。思わず一緒に入るか、と提案したくなってしまう。自重はしたが。 「本当だ、温かい」 蛇口をひねっただけで出てくる湯、というものがレイにはこの上なく珍しいものだろう。そもそも蛇口自体を見たことがなかったのかもしれない。エドガーが開けてやった水道の下、手を差し伸べては楽しそうだった。 「エディ」 「うん?」 「あとで、一緒に入ろう?」 妄想していたことをあまりにもすんなりと言われてしまってエドガーは答えに詰まる。それをじっとレイは待っていた。 「それ、誘ってる?」 そして出てきた答えがこんなものだったとは。自分で自分の首を締めたくなってきた。けれどそんなエドガーをレイは笑う。 「他にどう聞こえたか、僕はそれが聞きたい」 真面目な顔を取り繕って言うレイにエドガーは諸手を上げて降参だった。思わず抱きしめれば、手が濡れている、君が濡れる、と声を荒らげるレイ。離すエドガーではなかった。けれど。 「ちっ。誰がなんの用だよ?」 玄関先で声がする。いっそこのまま、と思っていたエドガーの舌打ちに忍びやかなレイの笑い声。苦笑してエドガーは彼の額にくちづける。 「はいはいはいはい。誰がなんの用ですかい」 これでカレンであったりしたら、あるいはクレアであったりしたらどんな文句を言われることか。あるいはどれほどこてんぱんにからかわれることか。思ったけれど言ってしまったものは致し方ない。幸いそこにいたのはどぎまぎと顔を赤らめたカレンの弟子デニスだった。 「あの、我が師がご到着なったばかりで大変だろうから召し上がっていただけ、と」 ずい、と差し出したのはどう見ても夕食だった。ありがたいけれど、邪魔をされた気がして若干不機嫌なエドガーだ。その背中に隠れるよう、レイがデニスを見ている。やはりまだ、側に他の男が来るのは嫌なのだろう。それでもここまでついてきたレイを思う。 「――カレン師にお礼を申し上げてください」 無言のエドガーに代わりレイが言う。それにぱっと顔を輝かせるデニスだった。年の頃はそうレイと変わらないように見える。レイの方がずっと落ち着いて見えるのは職種の差だろうか。 「エディ?」 「あ、いや。ちょうどよかったぜ。あんたに聞きたいことがあったんだ。俺らは他国人でな。台所の魔法具の使い方がわっかんねぇんだよ。さっき聞きそびれた」 レイを腕の中に庇いこみ、エドガーはデニスを引き摺り込む。あわあわと何かを言いかけたデニスだったけれど、突如として落胆する。 「――我が師はこちらに長居をしておいででしたけど。何してらしたんですか」 長々と溜息をつく立派な弟子の顔をした小僧をエドガーは笑い飛ばした。お前なんぞにはわからない素晴らしく忌々しいことをしでかしてくれた。レイの心を軽くしてくれた。エドガーは言わなかった。 |