木蔦の家

 これではいけない、とエドガーは話題を探す。こんなにも不自然な態度では、レイが何事かに気づいてしまうかもしれない。それなのに話題は一つしか思いつかなかった。
「……あのな、レイ」
 口ごもったエドガーを不審そうな目でレイが見上げる。それから黙って側に寄ってくる。目の前に立った彼の意図が、わからなかった。
「なに?」
 胸元に触れてくる指先。エドガーは立ち尽くし、かすかなレイの溜息。指先は引き戻されていた。
「だからな、その。――ほんとにいいのか? あんたが不安なんだったら、別に隊舎から通ってもいい。隣にはカレン師が住んでる。だったら」
「だから?」
 苛立ったようなレイの声。ふと見下ろせば、横を向いたままレイが唇を噛んでいた。血の気の薄い唇に、色が浮かぶほど。
「……だから、俺は」
「君が一緒にいてくれるから、僕は立ってられる。さっきそう言ったはずだ」
 まだ横を向いたまま、それでもきっぱりレイは言った。戯言でも、他人を前にした演技でもないと知らせるよう、断固とした言い様で。
「それでも……君が嫌なら。……僕は、無理強いはしない……」
 きゅっと噛んだ唇。噛み破ってしまいそうだ、思ったときには触れていた。ざらついた指先に驚いたのだろうレイの顔。ようやくこちらを向いた、そんなことが無性に嬉しい。
「無理強いなんてしてないだろ。俺の方がいいのかって不安なくらいだ」
「君がいてくれた方が、僕は」
「まぁ……」
 どんな気持ちでレイはそう言うのだろう。側にいたい、そんな含みではきっとない。エドガーは不安になる。だから冗談に紛らわせる。傭兵隊流のやり方だと思い出しては内心で笑う。
「いいけどな、レイ? 一緒に暮らしてると抱きたくなっちまうかもしれないぜ?」
 ほら拒め。そんな気持ちを込めて言ったのに、どうしてレイは笑う。ほんのりと、照れた笑みを浮かべる。瞬きをするエドガーにレイは言う。
「僕には君を拒む理由がない」
 どことなくためらいのある言葉。ためらいの内容こそが、知りたい。言いぶりに照れただけか。それとも、欲しいと思ってもらえるのか。そうならば、理由は。そのいずれもエドガーは尋ねなかった。答えを聞くのが怖すぎて。
「いいのかよ?」
 これではやりたい盛りの若造ではないか。口にしてしまった言葉にエドガーは天井を仰ぐ。綺麗に掃除をしているのだろう、埃一つついていなかった。その胸元に軽い衝撃。レイに叩かれた、と気づいては下を向く。
「ん――」
 なんだ、と問おうとした唇に触れたレイのそれ。柔らかで、甘い。あの香油の匂いなどよりずっと官能的で豊かな甘さ。そっと腰を抱けば、絡みついてくる腕。唇を割ったのはエドガー。舌を差し入れても拒まなかった。それどころかより一層。
 ほう、と小さな吐息が胸元から立ち上る。くちづけに酔ったのだろうレイの息。それすら甘く香る、そんな気がしてしまったエドガーは何をどうすることもできず立ち尽くす。
「――君がいてくれるから、僕は大丈夫」
 呟くレイの声にエドガーは答えない。代わりに一度きつく抱きしめた。答える言葉など、持たなかったから。口を開けば、理由を問いたくなってしまう自分だとエドガーは知ってた。
「さて、と」
 ひょい、と離せばレイの不満顔。そんな顔をするから勘違いをしたくなる。エドガーの苦笑をどう思ったのかレイもまた小さく笑う。
「仕事道具、揃えなきゃなんないだろ?」
 タングラス邸同様、主要な道具こそ隊からの支給ではある。けれど細かい道具類が書記にはどうしても必要だ。傭兵が自分の武具を必要とするように。言い訳を並べ立ててレイを引き離した自分だとエドガー自身だけは気づいている。
「あ――」
「忘れてたな?」
 からかえば睨んでくる眼差し。闊達さの片鱗を覗かせていたレイに戻りつつあった。それをエドガーは嬉しく思う。チャールズのことをなかったことにも知らなかったことにもできない。それでも、少しずつ。
「こういうのを、色惚けと言うのかな?」
「おい」
「そうだろう、エディ?」
 ほんのりとしたレイの眼差し。色づくようなそれに胸の弾みが抑えきれない。慌ててそっぽを向こうとした自分の体を叱咤しては肩をすくめた。
「だって僕は、君の彼氏なんだろう?」
 そう紹介したのは君だ、とレイは笑う。それから行こう、と腕を引く。まるで本当にそんな仲であるかのように。レイがそれでいいのならば異存はない。けれど、エドガーは思う。
「――どうする?」
「すまない、聞こえなかった。なんだって?」
「独り言だ。気にすんな」
「気になるに決まっている」
 胸をそらしたレイに冗談のようなくちづけ。レイが笑う。それでいい。本物にしたくなったらどうする、思わず口をついてしまった問いなど、レイは知らなくていい。
「君は何がどこにあるか知っている?」
 狼の巣の中は軍事基地、と言われてもレイには信じがたいほど普通の町だった。宿屋があり、商店があり、酒場がある。生まれ育ったグラニットよりはずっとずっと小さな町だったけれど、それでもここにも当たり前に人が暮らしている。レイの表情にエドガーもまた楽しげに足を進めていた。
「だいたいは。けっこう傭兵隊が拓いた町ってのが多いからな」
「どういう意味だ?」
「だからな、駐屯地ってのは、普通は町の外に作るもんなんだ。で、長年雇用されてたりするとそこがいつの間にか普通の町になっちまう。ここもそうやってできた町の一つだろ。だから、だいたいの構造は見当がつくさ」
 幼いほど若い時から傭兵として生きてきたエドガーだ。普通の人々よりずっと外の世界を知っている。国と町を渡り歩いて生きてきた。
 エドガーの言葉どおり、彼の歩みには迷いがなかった。加えてずいぶん前のことではあるけれど、一度訪れている町でもある。そのときともまた、様子が変わっていた。発展を続けている町だ、とエドガーは思う。
「あ……」
 商業区と思しき区画に足踏み入れたとき、何かに気づいたレイがはたと止まる。どうした、と尋ねることもなくエドガーもまた止まる。手を繋いでいたのだから、当たり前かもしれない。
「今更だけど。揃えようにも、僕には手持ちが――」
 タングラス邸から逃げ出す時、レイは身一つだった。呆然としていたのだから無理もない。備えができていたエドガーとは違う。
「それなら気にすんな。そこそこあるからな」
「君に頼りきりというのは嫌だ。――もっとずっと頼っているから、こういうところでは、甘えたくない」
 ぽつりとしたレイの呟き。きゅっと握られた指先。そうは言っても、頼るよりはない懐事情。それをどれほどレイが悔しく感じているかエドガーに伝わらないはずもない。なにをどう言おうか、迷ううちにレイが顔を上げた。
「隊の仕事をして、収入が入るまで立て替えてほしい。だめかな?」
「いいぜ、それで。あと、帰ったら生活費その他の割り振りも決めようぜ、最初にやっとく事だな、こういうのは確かに」
「――君なら、そう言ってくれると思った」
 ほっとして微笑んだレイが軽く頭を下げてくる。借金への礼、というところだろう。エドガーは肩をすくめて流してしまった。
 本当ならば、返して欲しくなどない。レイに負い目を感じていてほしい。自分から、それで離れないでいてくれるならば。そう思ってしまった自分の醜さ。ぎょっとしてエドガーは拳を握る。
「エディ?」
「ん、なんだ?」
「君こそ。なにか、驚いたような、そんな気がして」
「気のせいじゃないか?」
 そうかな、言いつつレイが首をひねる。どうかそれで納得してくれますように、祈るエドガーの願いは叶えられたのかどうか。隠し事の上手なレイからは窺えなかった。
 さすがに軍事基地の町だ、レイが必要とするものを売っている店などそう何軒もない。ざっと見てまわり、レイはここと決めて真剣に見始める。こればかりはエドガーにもどうにもできない。動く財布として控えているだけだった。
「エディ」
 柔らかなレイの呼び声。隊の連中の手前とタングラス侯爵家への警戒。それを理由に通称で呼ぶように、あの日そう言った自分を心の底から褒めたい。
「了解」
 困ったような、申し訳ないようなレイの表情にエドガーはそれ以上を言わせない。その心遣いにレイがもう一度目礼をした。
「連れ合いが財布を握ってるのかい? それにしたって小遣いくらいはやっとくもんだよ、旦那さん」
 店主の言葉にレイが頬を染める。目の前の店主を殴りたいほど、悔しい。レイのそんな顔は誰にも見せたくなかった。
「しょうがねぇだろ、まだ着いたばっかりなんだよ。中身の割り振りなんか済んでねぇっつーの」
 元傭兵隊の町だけあって店主のほうも文具店というのに磊落なものだった。グラニットのあの文具店のような気取った雰囲気はまるでない。どうやらレイは気に入ったらしいが。
「ありがとう、エディ」
 店を出ればレイの笑み。荷物を抱えて嬉しそうだった。やはり書記だ、とエドガーは思う。こうして自らの仕事道具を抱えていると本当に彼は幸せそうだった。
「あ――」
 その足が止まる。竦んでエドガーの腕に縋る。買ったばかりの荷物がエドガーの体に押しつけられた。それほど緊張してレイが縋りついている。
「おう、副隊長殿」
 ひょい、と片手を上げて挨拶を送るエドガーにようやくレイは息をする。向こうからやってきたヒューに誰の影を見たのかは明白。ヒューの方も用事があって通りかかっただけなのだろう、片手を上げて去って行った。
「……ごめん」
 まだ縋りついたままの腕。エドガーは黙って解いては肩を抱く。少しばかり人目が気になるのだろう。それでもレイはされるままだった。
「詫びるのは俺じゃないと思うぜ?」
「……え」
「あの貧相な屑野郎と一緒にされたって聞いたらヒューのやつ、怒ると思うぜー?」
 茶化して片目をつぶって見せた。そうしてもいいくらい、レイは立ち直りつつある。エドガーの感覚は間違いではなかったらしい。
「本当だ」
 かすかに口許をほころばせ、レイはエドガーの肩先に頬を寄せた。笑いをこらえている、あるいは寄り添いたいだけ。どちらともとれる態度で。




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