エドガーの変化に気づいたはずなのに、カレンはそれからしばらくエイメを相手にお喋りをしていた。まるでいま席を立てばレイに気づかれるぞ、とでも言うように。エドガーは背筋に冷や汗を覚える。ここにいるのは柄の悪いただの女ではない。話に聞いただけの超良血魔術師でもない。自分より遥かに戦闘訓練を積んだ戦闘の名手。現役に復帰したばかりの自分が太刀打ちなど、はじめからできるはずもない相手だった。 「さて、そろそろお暇するかな。長居をして悪かったね、レイ」 「俺にはないのか? レイだけかよ」 「そういうのを拗ねている、と言うんだぞ、小隊長?」 にやりとするカレンにエドガーは笑ってみせる。そうすることでレイが他愛ない時間だと笑っていられるように。カレンの言葉を潮時にエイメもまた立ち上がる。 「そろそろ書類、揃えられたかしら、デニス君」 「まぁ、要領だけは、いいからな。できてるはずだぜ。寄るか?」 だけ、と言われてしまったデニスが可哀想だったのだろう、ちらりとした笑みがレイの口許に浮かぶ。立ち上がるエイメの肩をエドガーは黙って叩いた。それで察したのだろう、エイメは一人先に立って出て行く。 「エディ?」 気づかなかったのは、レイだけ。不思議そうにエドガーを見上げる。それから自分もカレンを見送ろうと立上がりかけた。その肩にカレンの手。 「座ってていいぜ、レイ。一々お見送りなんていらねぇって」 まるで男の口調でカレンが言う。顔の前で手を振るさまは、照れているかのよう。レイは騙されたらしい。エドガーは振る手の影で目が光ったのを見てしまった。 「じゃ、俺がお見送りをしますかね、カレン師」 エドガーの言葉にふん、と鼻を鳴らした。それをまたレイが笑う。カレンと会ってからどれほど彼は笑っただろう。ちらりと思う。数えなくてよかったとも、思う。 「――で?」 玄関脇の隅でカレンは立ち止まる。レイの視線から隔てられた今、カレンは厳しいほどに鋭い眼差し。エドガーは負けじとばかり真っ直ぐと彼女を見やった。 「あんたを見込んで頼みがある」 「は? 初対面だぜ」 「人を見る目はあるつもりだ」 どうだかな。内心で呟く。見る目があったのならば、チャールズの本性をもっと早く見つけられていただろうに。 「ま、いいさ。レイのことは気に入った。そっちの話だろ?」 肩をすくめたカレンに敵わない、そう思ってしまう。体の横で握った拳が痛んで、強いてエドガーは力を抜く。 「あぁ。――実は、追われてる」 そしてエドガーは概略を話す。レイがタングラス侯の庶子であること、侯爵家から逃亡中であること。自分は侯爵家の武術指南役だったこと。 「へぇ。元傭兵が武術指南役ねぇ」 「生まれが騎士なんだ」 「なるほど。それでか。で? 打ち明け話がしたいわけじゃねぇんだろ」 「クレアは、黒猫の隊長は俺らを守ってくれるつもりでいる。それは確かだ。傭兵ってのは――」 「そこは省いて構わねぇぜ。知ってるから。言っただろ、私は狼と一緒に戦った時代があるってな」 傭兵ではなかった。けれど傭兵隊の気質というものは知っている。カレンのその言葉にうなずいていいのだろうか。勘違いだけは、してほしくない。レイの命がかかっていると思えばこそ。それを見てとったのだろうカレンが苦笑した。 「さっき話に出てきたうちの師匠な。その連れ合いが、狼の隊長だったんだ」 「はい?」 「いま私が住んでる家もな、元々師匠の家だ。あの家で師匠とライソンさんと三人で暮らしてた。娘時代の懐かしい思い出ってやつだな」 とても娘時代を懐かしむようには見えないカレン。それでもほんのりと眼差しが和らぐ。エドガーは言われたことをじっくりと考えていた。傭兵隊長が身近にいた、というならばあるいは、と。 「隊長が、兵を守るのは当たり前。仲間は家族。仲間だけが、家族って言った方が正しいのかもしれねぇな。傭兵隊ってのはそういうもんだ。いまでもそうなんだろ?」 エドガーが心にたどったことをなぞるようカレンは言う。こくりとうなずきエドガーはようやく息をつく。それまで詰めていた呼吸だった。 「だからクレア隊長かい? その人はあんたたちを守る。それを踏まえた上で、私になんの用だ」 まるで早く言え、言わねばわからない。わからなければ聞き遂げようがないではないか。そんなカレンの言葉。丸くなるエドガーの目にカレンは片目をつぶって見せた。 「……相手は、タングラス侯爵家だ。一応、侯爵自身はかかわってない、らしいとレイは思ってる。確証はねぇ。レイはそう思いたいだけかもしれねぇからな」 「ま、父親のことだしな」 「たぶん。だから、万が一ってこともあるんだ。万が一、侯爵家が俺らの行方を突きとめるようなことになったら」 「匿ってほしい?」 「いいや、そこまで迷惑かける気はねぇな。あんたはこの国で名士の一人なんだろうさ。あんたの元にも情報が入るだろう?」 「そりゃな。殊にあんたらのことだったら、まず私のところに一報が来る。なぜかわかるか。あんたが私の客だからだ」 家を貸した、それだけではある。けれどカレンと面識をすでに得たカレンの客だ。それなのに一言の断りもなくエドガーたちを捕縛に来るようなことはない、カレンは断言する。それがどれほどありがたいことなのか、カレンはわかっているのだろうか。理解している、不意にそんな気がした。 「俺はイーサウに迷惑かける気もねぇんだ。世話になるんだからな、これから。だから、もし、タングラス家が俺らを突きとめたって話が聞こえてきたら、知らせてくれないか、俺にだけ」 「レイはどうするんだ。一人で喧嘩売る気かい」 すぐさま切り込んできたかの言葉にエドガーは気を飲まれた。そしてついに笑っていた。確かにこの女は戦う術を知っている。過激なほどによくよく知り抜いている。 「馬鹿言ってんじゃねぇよ。そんな喧嘩ができるようだったら誰が逃げるか。とっとと全員まとめてバラして悠々自適に暮らしてらぁな」 「いっそ魔法を習ったらどうだ? できるぜ」 「やるかよ」 魔法を習うことはしない。殺戮をしない。どちらへの答えか。カレンはそのどちらともつかない答えを正確に読み取った。その上でにやりと笑う。 「……また、逃げるだけさ。誰にも見つからねぇどっかに、レイ連れて逃げるだけさ。俺にはそのくらいしかあいつにしてやれることがねぇからな」 「そうか?」 不思議そうなカレンの声。ふと少女の気配が滲んで消えてエドガーを戸惑わせた。カレン自身、気づいたのだろう。照れくさげに咳払いをしている。 「あんたの連れ合いなんだろ。それだけってことはないはずだぜ。そうだろ?」 「あんたの目はどこについてんだ?」 鼻で笑ったエドガーにカレンは渋い顔。それにこそエドガーは不思議な気がした。これほど鋭いというのにレイと自分の真の関係がどうであるのかわからないとは、と。 「あんたはレイに惚れてる。だろ?」 「ま、否定はしねぇけど、本人には口が裂けても言うんじゃねぇぞ」 「なんでだ? レイもだろうに。あんたに惚れて、一緒に逃げてる。可愛い話だと思うんだがな」 「誰が可愛いんだかな。違ぇよ、そんなのは」 「……なんか齟齬があるな。まぁいいや。どうせいま言っても通じねぇような気がしてきたわ。いいぜ、わかった。情報が入ったら漏らしてやるよ、まずあんたにな」 「感謝する」 ほっと息をついては頭を下げかけたエドガーの肩をカレンは掴んだ。すぐ目の前で精悍に笑っている彼女の目。 「いい年した男が簡単に頭下げるもんじゃねぇだろ。この程度のことだ、気にすんじゃねぇよ」 「男も女も関係ねぇだろ、礼儀の問題だ」 「慣用句の問題ってやつだな。別にあんたが女でもおんなじこと言ったぜ? 要するに気にするようなことじゃねぇ、言いたいのはそれだけだ。――あんたがどう思ってるかわかんねぇけどな、私はあんたも気に入ってるよ。懐かしい、傭兵隊の空気だ」 かつて身近にあった空気。自分と師匠とライソンと、三人で暮らしていた少女時代を思い出すから。武骨な言葉の裏側で、そんな柔らかなことを言うカレンにどれほどの感謝を捧げてもまだ足らない、そんな気がした。 「あんまり気に病むと禿げるぜ? それでも気になるってんなら今度実験に付き合いな。頑丈なのが必要なんだけどよ、自衛軍の若いのは付き合いが悪くってな」 「……ものすごく遠慮したい気がしてきたんだがな?」 「そう言うな、付き合えよ、いいな? ほれ、後ろ見な。レイが気にしてるぜ? 大事な彼氏を若い女に取られるんじゃねぇかって顔だな、あれは」 「若い……? 誰が?」 「いくら私でも自分でイイ女とは言いにくいだろうが?」 「言ってろ。じゃ、頼む」 頼まれた、笑ってカレンは手を振り出て行った。体中から息を吐き尽しそうなほど、疲労した。それなのに気持ちは軽い。頼みごとを聞いてもらえたせいだけではない。カレンと話すのが楽しくもあった。 「……さすがだな」 無頼めいた言葉ながら上手にあしらわれた気がした。気づけば洗いざらい吐き出し、しかも旧知のような口まで叩いてしまった自分がいる。それでいい、と言ってくれた気がした。 「悪かったな、待たせた」 待っていたわけではないだろうけれど、レイには他に何をどう言えばいいのか、エドガーにはわからない。カレンとは噛み合っていた会話が、また油を差し忘れた蝶番のよう。 「いいや……。エディ、聞いてもいいか」 「うん?」 「君は――」 椅子に座ったまま見上げてくるレイ。夜色の目が揺らいでいるような気がして、熱でもあるのかと不安になる。咄嗟に額に触れた手はぬくもり以上のものを伝えては来なかったけれど。 「どうした、レイ」 カレンと話して明るくなったはずの気持ちが、またくすんでいく。なんでもない、と首を振って言葉まで止めてしまったレイをただ見つめているしかできなかった。 |