すでに伝令が走っているのだろう、幸運の黒猫隊が町の門をくぐるのに何の支障もなかった。門番が明るく手を振っている。それだけでこの町の発展がわかるというもの。 馬上で見回せば、軍事基地と言うにはあまりにも当たり前の町だった、狼の巣は。傭兵隊の駐屯地であったのはすでに遠い。だからなのかもしれない。 狼の巣はイーサウの街の中にはない。とはいえ、ここもまたイーサウだった。かつてはイーサウの外壁の外にできた町、だったのだろうけれど。現在ではここも含めてイーサウの街だ。大まかに南部の狼の巣、中央部に以前からある本市街、北側にタウザント街となっている。 「――ってわけだ。わかるか?」 「だいたいは。――君は、前に?」 「あぁ、何度かな。当時の黒猫の仕事でね。隊商の護衛なんかできたことがある」 そうか、とレイは呟いた。タングラス侯の庶子として、レイはほとんど外を知らずに育ったのだろう。彼が知っている町と言えばグラニットの街しかないのかもしれない。 「小隊長ー。行きますぜー。隊舎の場所、知らんでしょうが」 先行していたタスが手を振っている。クレアは先ほど別れていった。イーサウ中心部で雇用主と会談があると言う。 「あぁ――」 いま行く、言いかけたエドガーは寸時、動きを止めた。腕の中でレイが強張っている。はたと気づいた。自然と、何を考えることもなく隊舎に住むもの、と思っていたけれどレイは。 「あんた、隊舎じゃ仕事にならねぇな」 ぼそりと呟いて考えるふりをする。なにもいい考えなど浮かばない。レイが他に同性がごろごろといる場所で暮らしたくないと言っている。そんな理由でクレアを説得できるだろうか。否、説得せねばならない。 「エディ。僕なら――」 かすかに震えた声。エドガーは聞こえなかったふりをする。向こうでは怪訝そうなタスの顔。今すぐ、何かをどうにかしなければならないのに、考えが浮かばない。 「あら、だったら私、家を借りるつもりなの。あなたもそうしたらいいじゃない?」 助けの手は来た。隣で馬を進めていたエイメがにっこりと笑っている。それから覗き込むよう、レイを見る。なんでもないことなのだから、心配はしないで、というように。 「でもそりゃ……」 「別にまずくないわよ? あなた、小隊長なんだし。隊舎にこもってる必要なんかないじゃない。居場所がはっきりしてればそれでいいのよ。隊長には後で言っておくといいわ」 「後でってなぁ」 「いますぐ追いかけてボク別の場所に家借りますからって? お偉いさんと会談中に? それこそ怒られるわよ、あなた」 それも確かにそのとおり。笑ってしまったエドガーの負けだった。ぽん、とエイメの肩先を拳で打つ。助かった、と。 「おい、エイメ――」 「あてはあるわよ? 一緒に来る?」 「念のために聞くけどな。あんたと同居は勘弁しろよ」 「ご冗談。うら若き乙女を捕まえてなに言うのかしら。あなたがレイ君にぞっこんだとしても私の方がごめんよ、そんなの」 タスに向けて二人は自分が預かった、とひらひら手を振り馬を進めるエイメ。タスもタスで大笑いしながら去っていく。大方兄弟に事の次第を告げに行くのだろう。このぶんではあっという間に隊中に話は広まる。ある意味好都合ではある。が、なんということを言ってくれるのか、と思ったエドガーの腕の中、レイが笑っていた。 「……すまん、ああいう女なんだ。悪気はたぶんない」 「気にしてない。というより……君は僕にぞっこんだったのか。知らなかった」 「おい!」 楽しそうに笑ったレイ。それだけでエイメにからかわれた甲斐はあるというもの。ただの冗談だと思っているのかもしれないけれど、それでも誤魔化せたのならば充分だった。だからこそ、耳元で尋ねてしまう。誰の耳にも届かないように。 「……いいのか。このままだと俺と同居だぞ?」 「……君は?」 「俺は」 「君が、嫌じゃないなら。僕は……その方が。嬉しい、かもしれない」 ぼそぼそとしたレイの声。何を言われているのかわからなかった。少しずつ染みてくる彼の言葉の意味。おそらくは余人がいるよりはまし、ということなのだろうとは思う。あるいは護衛がわりか。それでもよかった。レイが共にいていいと言ってくれている。馬の足まで弾みそうな足取りでエドガーはエイメの後へとついて行った。ちらりと振り返った彼女が遅い、と小さく笑う。 「ここよ」 しばらくの後のことだった。町の中心部からは少し外れた、それでも大通りに面した家の前、エイメは立ち止まる。小ぢんまりとした居心地の良さそうな家の佇まいからは、とてもここが軍事基地だとは思えない。 「卒爾ながらお尋ね申し上げます。こちらはエリナード・カレン師のお住まいでしょうか」 ここまでの数日、エイメを見ていたレイの目が見開かれる。当然だ、とエドガーは内心で溜息をついた。扉を叩いて出てきた青年に対し、エイメはまるで良家の乙女のよう。 「は、はい、そうです!」 青年は当然、真っ赤になって硬直していた。ぎしぎしと音がしそうな様子でエイメを、それからようやく馬から下りたエドガーと、そしてエドガーが抱き下ろしたレイを見る。そしてはっきりと落胆を顔に出した。男か、と。そんな青年をレイがかすかに笑った気がした。 「デクストラ一門のアーウィン・エイメと申します。お取次ぎ願えませんでしょうか」 にこりと微笑むエイメにレイが不思議そうな顔をした。そう言えばエイメはレイにはエイメ、としか名乗っていない。 「魔術師の正式名ってやつらしいな。俺もよくは知らんが、アーウィンてのが師匠の名前らしい」 「なんだか、聞いたことがある、気がする。でも、文献が少なくて……」 レイの言うとおりだった。ミルテシアにおいて魔法文化はほとんど発達していないに等しい。日常に魔術師がいるわけでは決してない。エドガーは隊の同僚にいたからこそ、多少のことは知っている。それだけだった。 「二人とも、行くわよ?」 振り返ったエイメの茶目っ気たっぷりの目。いつもどおりの彼女で、エドガーはほっとする。あのように気取っているエイメは見ていられない。背筋が凍りそうだった。 「そちらのお二人は……?」 青年の問いにエイメはにこやかに隊の同僚だ、と答える。それから思いだしたよう、自分は今日到着した幸運の黒猫の魔術師だ、と付け加えた。それを先に言うべきではないだろうか、普通は。思うエドガーはついレイを見やり、レイも同感だったのだろう、うなずいている。ふと気づく。通じている。同じことを考えていた。それがどうしてだろう、たったこれだけのことがこんなにも。 「カレン師をお呼びしてまいります、しばしお待ちくださいま――」 青年の言葉の最後は、悲鳴になった。居心地の良さそうな居間に案内されて座ったばかりだというのにレイが飛びあがりそうになっている。 「おい、あんた。こっちは過敏になる理由がいくらでもあるんだ、でけぇ声出すんじゃねぇ!」 片腕でレイを抱きしめエドガーは青年を睨み据える。青年は答えられないのだろう、それでもがくがくとうなずいていた。と、そこに扉が開かれた。というよりも爆発するように開いた。蹴り開けたのだろう。エドガーは怒る気力もなくなりそうなまま、レイだけを抱きしめる。 「あぁ、悪い。うちのガキがなんかやらかしたらしいな」 見ればそこに立っているのはすらりと背の高い女だった。短く切った黒髪といい、口許の笑みといい、胸のふくらみがなかったならば精悍な男にしか見えない。 「あんたもだ。詫びろとは言わないが気にはしてくれ」 「ん? 私がなんか――あぁ。でかい音がだめか。了解した、心掛ける。で? 私に用があるのは誰だ」 首をかしげた様にエドガーは溜息をつき、エイメが申し訳なさそうに首をすくめる。どうやら彼女はこの女がこういう人間だ、と知っていたらしい。 「幸運の黒猫隊付き魔術師、アーウィン・エイメと申します。言ってみれば顔つなぎですわね。カレン師のようなお方にそう申し上げてよろしかったら、ですけど」 「私がなんだって? 別に私はお偉いさんでもなんでもないぞ? 顔つないでもなぁ。いいことなんか特にはないと思うんだが。デニス坊や、茶の支度をしとけってさっき言っただろうが。聞いてたんだよな、もちろん?」 突如として振り返ったカレンが青年を軽く睨む。慌てて仕事をしだす青年は、デニスというらしい。いつ言ったのだろう、とエドガーが首をかしげれば先ほど悲鳴を上げたとき、とエイメがこっそり教えてくれた。 「あと、いくつかご相談がありますの。申し上げてもよろしい?」 「あー、かまわねぇからちゃっちゃとやってくれ。まどろっこしいのは苦手なんだ」 にやりとカレンが笑う。女性二人が話しているはずなのだが。思ったのはエドガーだけではないらしい。レイが不思議そうな、けれど楽しそうな目をしてカレンを見ていた。それがいささか癇に障らないでもないエドガーだった。 「では、まず一つ目。黒猫はしばらくイーサウにご厄介になります。その間、私が学院に学びに行くことは可能でしょうか」 「問題ないぜ? 手続きの書類一式は――デニス!」 「あ、はい。あとでお持ちします!」 「結構。で、次は?」 「この二人のことですわ」 言ってにこりとエイメが笑う。その笑みに導かれたよう、カレンがエドガーとレイを見つめる。いまだレイの肩を抱いたままだったエドガーは咳払いと共に腕を外す。それにカレンがにやりと笑った。 「ご覧の通り、新婚さんですの。うちの小隊長なんですけど。隊舎に大事な連れ合いを入れたくないと我が儘言いまして。手ごろな貸家を斡旋していただけないかと」 エイメを殴ってしまわなかった自分の理性をエドガーは褒めたい。誰が新婚で、誰が我が儘だ。内心での罵詈雑言は、あっさりと流れた。レイがほんのりと微笑んでうつむいていては。 「なるほど、可憐な男性だ。これでは確かに小隊長殿は心配だろうよ。了解した。隣の家を使ってくれてかまわんよ。元々は私の家だがね」 言葉の定義がおかしい気がした、エドガーは。が、レイが笑っている。なんだかそれですべていいような、そんな気がしてきた。そんなエドガーを見てとったのだろう、カレンが高らかと笑っていた。 |