天幕を張った場所に戻れば、中から楽しそうな声がした。垂れ幕をくぐれば、なんのことはないエイメの笑い声。 「おう、助かったぜ」 片手を上げて入り込めば、レイが片隅で膝を抱え、それでもエイメの話を楽しく聞いていたのだろう、くつろいだ顔をしていた。 「ほんと忙しいのに、困った人よね?」 悪戯っぽく言って、さらに忙しい忙しいと繰り返しエイメは出て行ってしまった。エドガーとすれ違うそのときに軽く彼の胸を叩いて行く。エドガーもまた、彼女の肩先を叩いた。 「――いまのは?」 何かの合図、と見て取ったレイの不思議そうな声。それでもわずかな緊張。隠し事でもされた、と思っているらしい、その意外と癇性な顔がエドガーには好ましく映る。 「気にするなって言うから、俺は礼を言った。それだけだな。傭兵隊の習慣みたいなもんか」 「そう、か……。ごめん」 「なにがだ?」 過敏になっている自分を恥じているのだろうレイ。エドガーは気づかなかったふりをして笑う。それから天幕の中を見回してうなずいた。 「助かるよ、ちゃんと片づいてるとほっとする」 「こういうことなら、得意、だと思う。でも、意外だな。傭兵隊、なんて言うともっと……言葉は悪いけれどがさつなのかと思っていた。君が特殊なのか?」 レイの言葉にエドガーは吹き出していた。どうやらこうして天幕の中にいて、他人の影が見えなければずいぶんと気が楽らしい。少しずつ、前のレイに戻っていく。嬉しいような、もっと頼っていてほしいような、複雑な気分だった。 「違う違う。あんたの勘違いだ。傭兵隊ってのは片づけ上手だぜ? まぁ、まともな隊長がいる隊はそうだな。どこに何があるかわかんなかったら、闇夜の戦闘で危なくって仕方ねぇだろ」 「あ――」 「それが習慣になってるのが、いい隊ってもんなんだ」 野営地を襲われるのは傭兵隊の恥ではある。が、ないとは言いきれない事態。それを想定するのがよき指揮官だ、とエドガーは言う。レイには信じがたいことだったのかもしれない。黙って首を振っていた。 「レイ?」 「あ……。ごめん。――僕には、優れた上長というものがたぶん、想像できないんだ」 ぽつりとした呟き。当然だろうとエドガーはうなずく。あの、チャールズが彼の上にはいたのだから。けれど書記室ではどうだったのだろう。否、そこにもチャールズの手が伸びていたのかもしれない。 「あんたのこと、聞いてもいいか?」 こくり、レイがうなずいた。それから顔を上げ、じっとエドガーを見つめる。一度唇を噛み、そして。 「嫌じゃなかったら」 側に寄ってきては、自らエドガーの腕に自分のそれを絡めて肩先に顔を埋めてきた。頼りない姿、震える体。もっと頼っていてほしいのに、などと思ったことを後悔する。 「全然?」 言いながらエドガーは腕を外す。レイが何を思うより先、肩を包んで抱き寄せた。胸元に寄せられた頬。小さな吐息が安堵の響き。エドガーの口許にも満足の笑みが浮かんだ。 「――母は、早くに亡くなったんだ。お屋敷の、召使だった。それで御前様のお手がついて。ありがちだろう?」 「まぁ」 「気にするな。僕だって、ありがちだと思ってるんだから。――御前様はこんな言い方したら申し訳ないけれど、できた方だと思うよ。ちゃんと母の面倒も見たし、母亡きあともそのままお屋敷で養育してくださりもした」 教育を与え、教養を身につけさせ、いずれは家令にでもするつもりだったのかもしれない。庶子としては大変な出世だ。その過程で、字も習った。レイはそう言う。 「書記として働くのも、家のことを知るためにはよいことだ、と仰せになって」 けれどチャールズがいた。嫡子の彼が、レイをどう見ていたのか。あの憎悪の裏返しのような軽侮が、エドガーには理解できない、否、したくない。 「――自分で言うのはどうかと思う」 「でもあんたが言ってくれなきゃわかんないからな」 言えば小さくレイが笑う。それから、笑うなよ、と言いおいてレイはエドガーを見上げた。ほんのりとした漆黒の目。いまは穏やかだった。 「僕は、いかにもミルテシア人らしい美形だろう? チャールズ卿は、はっきり言って不細工だ。だからだよ、最初は」 「……確かに、自分で言うのはどうなんだ、それ?」 「だから、僕は笑うなって言ったじゃないか」 「最低限、笑わなかったぜ」 にやりと、今になって笑うエドガーにつられたようレイは微笑む。引き攣った笑みではあった。たかが容貌一つでいたぶられるなど、エドガーには想像もできない。レイにも、おそらくは理解できない。 「……君も、美人の方が嬉しいだろう?」 胸に顔を埋めたレイの声はくぐもっていた。ただ押しつけているから、ぬくもりに包まれていたいから。そんな様子のくせに、まったく違うことを言っている体。エドガーはそっとレイを抱きしめる。 「俺は喋ってて楽しいやつの方が好きだな」 冷静だったレイが、少しずつ会話をするようになっていった。体を重ねるだけの遊びが、変わっていった。そう思っていたのはエドガーだけであったとしても。そうして過ごした時間が、好きだったとエドガーは思う。 「……そうか」 ほっとしたような、残念なような、どちらとも決めかねているかのようなレイの声。彼が欲した答えはなんだったのだろう。エドガーにはわからなかった。 「――俺は、それでもやっぱりタングラス侯を評価はできねぇな」 唐突なエドガーの声にレイが顔を上げた。父である人を悪く言われるのが嫌なのか。思った途端にそれは消えて行く。レイの眼差しが、真摯だった。 「だってな、あんたの名前。なんでわざわざ女名なんだよ? けっこうな嫌がらせだろうが」 「あぁ……。それは違う、らしいな。タングラス侯爵家の、伝統らしい。庶子には女性名を付けるっていうのは」 「それにしても嫌がらせだっての」 そもそも。庶子として認知された子供が貴族の家に迎えられるときには必ず「ネイ」の副称を付けることになっている。それがミルテシアの法だ。その上でわざわざ女性名を名乗らせるというのは嫌がらせ以外のなんだと言うのか。 「一応は……家督相続にかかわらせないように、という配慮らしい」 「女性にも相続権があるってのにか?」 ラクルーサでは全面的に女性相続が認められるわけではない、とエドガーは知っていた。が、ミルテシアでは違う。かつて偉大な女王を戴いた誇り高きミルテシアでは。 皮肉なエドガーの声にレイが唇を尖らせる。彼を責めているわけではない、と知らせたくて肩を抱きしめれば、そっとレイが笑っていた。 「――いいな」 「うん?」 「こうやって、僕のことで憤慨してくれる人がいるって、なんだかいいなと思った」 「それ、ものすごく寂しい言い分だからな? 二度と言わないように。俺はいつも気にしてる」 「僕のことを?」 「あんたのことを」 ふ、とレイが笑った。ほころぶようでエドガーはつい、見惚れそうになる。慌てて視線をそらせば、どうしてだろう、とんでもないものが目についてしまったのは。訝しげなレイに何でもないと言いおいて、彼を促して外に出る。そろそろ食事係も準備を終えただろう。 野営食はレイには珍しいものだった。あれはなんだこれはなんだと小声でエドガーに尋ねていた。まだ本調子には程遠い体だ、量は多くはなかったがきちんとレイは食べた。それでも周囲に人がいる、というのは緊張を誘うに充分だったらしい。 「戻るか?」 戻ってもよいのだろうか、と問い返すこともせずレイはうなずく。エドガーとレイは今のところ客扱いだった。クレアの側で食事をしていたのも、そのせい。隊長の側、ということで他よりは静かだったはずなのだけれど、レイにはつらかったらしい。 クレアとヒューに軽く片手を上げてエドガーは立ち去る。何を言うことなく案じてくれる二人がありがたい。が、クレアの口許が痙攣していたのが、エドガーには見えていた。それを軽く一睨み。こらえきれずにクレアが笑った。 それにも気づかない様子でレイはうつむいたまま足を進めている。そう広い野営地でもない、天幕まではすぐだった。 「一人で平気か? ――ちょっと待ってな」 笑みを浮かべたエドガーにレイはすぐに戻ると察したらしい。こくりとうなずく姿が不安だった。おかげで野営地の中を走ったエドガーは本当にすぐさま戻る。 「レイ、俺だ」 垂れ幕を掲げる前、声をかけた。いまのレイは黙って入ったりしたら飛びあがりそうだと思ったせい。案の定だった。胸を押さえてほっと息をついている。 「ほら、やるよ」 イーサウに到着するまでは単なる移動、と言っても行軍に違いはない。さすがに夕食に酒は出なかった。エドガーは少しでもレイの気持ちがほぐれれば、と葡萄酒を持ち帰る。 「これは……?」 「おう。エイメからふんだくってきた。相変わらずあいつは酒飲みみたいだな」 「エイメ、が?」 きょとんとしたレイの顔。あのふわふわとした彼女が大酒飲み、とは信じられないのだろう。ぷ、と吹き出す。それにこそエドガーは安堵する。 「あと、困ったことがあるんだけど、いいか? あんたの意向次第じゃクレアに要相談なんだ」 「なに?」 「――寝袋。どういうつもりかって、そりゃあんたを彼氏って紹介したのは俺だけどな。これ、二人用だわ」 長々と溜息をついてしまった、エドガーは。それからはたと気づいてレイを見やる。嫌なのではない。むしろ喜んでいるのだけれど、それを悟られるのは恥だ。先ほど天幕の中で見かけてしまって以来、困っていたものの正体がこれだった。 「僕は……その」 葡萄酒の小瓶に直接口をつける、などという飲み方をレイはしたことがないのだろう。ためらいながら飲んでいた。うつむいて、困る彼にエドガーは立ち上がりかける。やはり、クレアに言って一人用の寝袋を二つ、もらってくるべきだと。そのエドガーの袖を咄嗟に掴み、けれどレイはすぐに放した。 「違う。――君と一緒の方が……ほっとするから。だから」 うつむいたまま言ったレイにエドガーは腰を下ろす。実体は、腰が抜けるほど驚いていた。まじまじと見ればそれを厭うたレイがそっぽを向く。何も言わずエドガーは彼の黒髪を指で梳いた。 |