翌早朝。幸運の黒猫隊、出立を前にレイが戸惑っていた。二人の前には当然にして二頭の馬。恐る恐る足を引くところを見ればやはり、とエドガーは思う。 「――モーガン。僕は乗馬の経験がない」 小声で言ってくるレイにエドガーは茶目っ気たっぷりに片目をつぶって見せた。それから何気なく肩先を抱く。 「そのためのその衣装、だろ?」 衣装と言うほどでは、実のところない。が、レイは遺憾そうな唸り声を上げる。いたく誇りを傷つけられているらしい。チャールズにあのような扱いをされていてもレイの男の誇りは決して折れてはいない。だからこそ、より一層チャールズがつらく当たったのかもしれない。ふとエドガーは思う。 「理解はしている。でも、不快だとはわかってほしい」 レイはクレアが用意したマントに身を包んでいた。タングラス侯爵邸を逃げ出す時に使ったのと形は大差ないよう、エドガーには思える。が、たっぷりと取られた襞が、優美なフードの形が、女物だと知らせていた。 「わかってるよ。まぁ、町から離れるまでだ。我慢してくれよ」 「――わかってる」 小声で返答し、それから訝しそうにエドガーを彼は見上げた。それにエドガーは答えず腰を掴む。女の衣装を着ていても不自然ではないほど細い腰だと思ってしまう。 「モーガン?」 小首をかしげる彼を高々と持ち上げ、そのまま馬の背に乗せた。それからおとなしい馬の鼻面を一度撫でてやり、じっとしていろよと声をかける。 「どちらがだ?」 馬か、自分か。尋ねてくるレイにエドガーは笑い、両方だ、と答えて二人分の荷物をもう一頭の馬の背にくくり付ける。それで完了だった。 「あ――」 そしてエドガーはひらりとレイの後ろにまたがった。腕の中、彼を守って馬を歩かせれば確かに女性を乗せているようにしか見えないだろう。 これで万が一にもタングラス侯の使者が見ていたとしても安心だった。もちろん、すでにエドガーは姿を変えている。隊付きの魔術師に幻影をかけられたエドガーは栗色の髪を金髪に変え、緑の目は青空の色。いささか体格に優れてはいるが、どう見ても軟派な騎士だ。女性を守る姿としては外見上、適している。あまりにも物語めいていて不自然だ、とエドガーは抗議したのだけれど、乗り気のクレアは聞く耳持たなかった。だからあえて、適している、とエドガーは無理矢理に納得していた。 「モーガン……」 胸元から戸惑いのようなレイの声。このような形で馬に相乗りしたことなどないだろう。負傷者救助でエドガーには経験がある。だから心配するな、と彼の腕を軽く叩いた。 「それと。念のためだ、ここからはエディな?」 タングラス侯爵家にはエドガー・モーガンと本名を名乗っている。たいして違いのない略称ではあるけれど、それを言うならばどこにでもある名だ。堅苦しくエドガーと名乗るよりエディの方がまだ目をくらます役には立つだろう。 「……わかった」 「人目がある時だけでいいぜ」 「……別に、その。嫌なわけじゃない。戸惑った、だけだ」 「そうか」 硬くうなずいてしまったのは、緊張したせいだった。レイに親しく呼ばれる、と考えるだけでときめいてしまう。ただの略称で、隊にいるときの通称だ。それだけだ。何度も内心に呟くうち、集合場所が見えてきた。 「よう、遅かったな」 にやりと笑うクレアとうなずいて見せるヒュー。彼らの周りには隊の主立った者が揃っていた。客を迎える顔を全員がしている。イーサウに向かう騎士の護衛、ということになっているはずだった、黒猫隊は。 が、実際は主立った者はみな、そこにいるエドガーを知っていた。満面の笑みで片手を上げてくる男にエドガーの口許もほころぶ。 「ユーノとタスは貴殿の下につけるよ」 「なにが貴殿だ今更だろうが」 「一応は人目がねぇ」 「だったら最初から演技しろってんだぜ。――隊長」 「それこそ今更だよ、エディ」 にやりとしたクレアにエドガーは肩をすくめる。確かにそのとおりだった。今後しばらくはクレアの下で働くことになる。二頭分の馬の代金を返すだけでもずいぶんな大金だ。その隊長相手に横柄この上ない自分だと気づいては苦笑する。クレアが全隊員に向けて片手を上げる。 「若いのは知らないだろうがね、こいつの腕は私が保証するよ」 「――俺もだ」 落ち着いた声の持ち主はもちろんヒュー。クレアよりヒューの言葉に納得する隊員もいて、彼女は憤然と声を荒らげる。それをなだめるのもヒューの役割だった。それがひと段落すれば、出発前の儀式は終わりだ。 「昔と変わってねぇな」 エドガーがいたころの隊と、隊長の代替わりがあっても隊の気風はまったく変わっていなかった。それに懐かしい心持ちになる。 「そう、なのか。その……エディ?」 胸元から香り立つようなレイの声。思わず抱きしめてしまって慌てて離す。クレアがそれを目に留めたのだろう、面白そうな顔をしていた。 「あぁ、騒がしいけど、楽しいところだぜ」 その騒がしい主な原因がやってきた。先ほどクレアにユーノとタス、と呼ばれていた男たち。中肉中背、茶色の髪に茶色の目、顔だちも平凡そのもの。昔は田舎の若者にしか見えなかったけれど、いまは立派な農夫にしか見えない彼ら。二人を見てレイが目を瞬かせているのをエドガーは感じていた。 「ユーノとタス。兄弟なんだ、おんなじ顔してるだろ」 「――目がどうかしたのかと思った」 「その気持ちはよくわかる」 もっともらしくうなずくエドガーの前、二人がやって来ては口々に歓迎を述べていた。それが次第に熱を帯びたものになり、ついにエドガーは思い切りよく叩かれる。 「いってぇだろうが!」 笑いながら叩き落とせば、驚いたようなレイの声。傭兵隊流の歓迎に面喰っているらしい。そんなレイを腕の中にすっぽりと庇えば兄弟がにやにやと笑っていた。 「エディのコレかよ?」 「おうよ、悪いか?」 「悪かねぇですよ。ただ、なぁ?」 「なぁ?」 兄弟が顔を見合わせ人の悪い顔をしていた。その間に隊は出発をはじめている。エドガーは横目でそれを確かめていた。なにをどう打ち合わせたわけでもないけれど、クレアの指揮は知っている。自分がいつどこで隊列に加わればいいのかもだから見当がつく。 「なんだよ?」 にんまりと笑い続ける兄弟に言い返せば、不意にレイが背中を掴んできた。あるいは何か危険を感じたのか、と思ってさりげなく周囲を見回したけれど、黒猫の目が光っている場所だ。何があるはずもなかった。なだめるよう、そっと肩を抱いてやればかすかなうなずき。 「あんたが一人で満足するなんてなぁ?」 「流れ流れてあっちこっちに色んなのがいたのは誰だっけねぇ?」 「お前らなぁ……。大事な大事な恋人様の御前で何ぬかしてくれてやがんだコラ。――冗談だからな? こいつら、大袈裟言ってるだけだからな?」 「やだやだエディさんってばベタ惚れでやがりますよ、ユーノ君」 「ですねぇ、タス君。これはからかい甲斐がありますなぁ、道々」 「お前らいい加減にしやがれ! ほれ、行くぜ」 ちょい、と馬の腹を踵でつつき、エドガーは隊列に加わる。腕の中のレイのことが気がかりだった。気配を窺えば、見上げてくる彼の目。 「……なんだよ」 それなのに、むつりとしてしまった。それがおかしかったのだろう、レイの口許がほころぶ。 「いや……。楽しそうなところだな、と思った。それと、君がずいぶんと遊んでいたのも楽しく聞いた」 「遊んでねぇっつーの」 「信じられない」 「おい!」 「だって、そうだろう? ――僕とも、そうやって会ったんじゃないか」 そう言われては返す言葉のないエドガーだった。喉の奥に何かを詰まらせてしまったエドガーをレイはくすくすと笑う。レイが楽しくしているのならばそれでいいか、とエドガーは内心で溜息をつくに留めることにする。 「――エディ。聞いてもいいか?」 「昔どんだけ遊んでたんだってこと以外なら」 言葉にぷ、とレイが吹き出す。少し、元気になってきたらしい。そのことに安堵する。決定的なあの日、二人で街を歩いたあの日のような楽しげな笑い声。 「そんなこと、聞きたいわけがないだろう? そうじゃない。――君は、どれほど大金を使ったんだろう」 「うん?」 「忘れたのか? 僕は書記だ。馬の購入代金、装備品一式、他にも色々。どれほどかかったか、わからないはずはないじゃないか」 「なるほどな。確かに」 「だから――」 「だったら傭兵隊の常識を一つ伝授いたしましょ。新入りの装備品は隊持ちが決まりだ。馬込みでな」 「え?」 「その代わり、当分は給金が半額。まぁ、あれだ。分割で払うようなもんだな」 「だったら、やっぱり――」 同じではないか、エドガーに負担を強いたのと。うつむくレイにエドガーは何を言っていいかわからなかった。こんなことだけでも、レイの助けになりたい自分だとは、言えない。 「クレア隊長に、話しができないか。僕も、何かできるはずだ。それこそ、書類仕事だってあるだろう?」 庇われ、守られるだけでは己の一分が立たない。これほど痛めつけられていてもレイのその心根は決して折れていない。だから、拒めない。 「了解。野営の時にでも相談しとく。それからクレアと話してみてくれ」 「頼む。――君にだけ……申し訳なくなってくる」 「俺は楽しいけどな」 呟いてしまった言葉に愕然としたらしいレイが顔を上げた。なんでもない、と慌てて首を振るけれど、逃がしてくれそうにはない。 「……守るもんがあるってのは、張り合いがある。そういう意味」 それで納得してくれるだろうか。怪訝そうな顔のレイはうつむいてしまった。不快になっていないければいい。それだけを祈るエドガーにレイの表情は見えなかった。 |