木蔦の家

 部屋に戻ったエドガーは呆れてしまった。思わず枯れた笑い声が漏れる。それに訝しげな顔をしたレイの眼差しに気づいては肩をすくめる。
「ヒューのやつさ」
 顎で指し示した先には着替え一式とこれからイーサウに向けて旅立つにあたって必要なものが一揃い、おまけに食事の用意まで整っている。これは本格的に部屋から出るな、というクレアの示唆だろう。
「……すごいな」
「だな。ヒューはクレアに代わって雑務一般を引き受けちゃいるんだが……。久しぶりに見るとやっぱり驚くなぁ」
「立派に貴族の屋敷で働ける」
 あまりに手際がよいから。言ったレイが自らの言葉に体を強張らせる。それをエドガーは見なかったふりをした。一々気にする自分、というものをレイが厭うと気づいたせい。
「飯にしようぜ」
 大したものではなかった。宿としてもこんな中途半端な時間に食事、と言われても困ったのだろう。それでも朝焼いたらしきパンと果物の甘煮、香りのよいバターがあれば充分だった。
「贅沢気分だな」
 この二日、ほとんどまともなものを口にしていない。森の中で手に入れた果実と水程度だ。おかげでずいぶんと食事が嬉しい。しかも、それに加えて炙り肉の薄切りまであった。
「これは、あれだな。固まり焼いてるところを削ってくれたんだな」
 クレアかヒューが宿に無理を言ったのだろう。昔の仲間の温情が身に染みてありがたかった。パンを裂き、バターを乗せる。それにかぶりつきたくなってしまうのをこらえて肉を乗せ、エドガーはレイに差し出す。きょとんとしたまま彼は受け取った。
「……モーガン?」
「なんだ、嫌いだったか?」
「そうじゃなくて。……ずいぶんと、手際がいいな、と思って」
 ほんのかすかな、照れたような気配にも似たもの。違うだろうけれど、エドガーにはそれがどことなく嬉しい。
「傭兵隊ってのは――怪我人が多いもんだからな。仕事が終わったあとは怪我人だらけだ。おかげで元気な人間がなんでもすることになってるんだ。そのせいだろ」
 言い訳だ、とエドガーは気づいている。レイの世話を焼きたいのは自分に原因がある。それでも、それが言えない。
「そういうものか――」
 レイにとっては別世界のように遠い話だろう。それで納得してくれたのにほっと息をつく。妙なことを口走るより先に、とエドガーも食事をはじめた。しばらくはゆっくりと食べ物を食んでいた。ほぼ絶食に近かった二日の後だ、心の赴くままに食べては体を壊す。エドガーは傭兵の心得として、それを知っていた。けれどレイは。知らないはずのレイなのに、ただの書記だったレイなのに。彼はゆっくりと少しずつ噛んでは嚥下をしていた。
「……前にも、経験があるんだ」
 視線を向けてはいなかったはずなのに、レイはぽつりと言った。うつむいているのかと思いきや、エドガーを見ながら。
「僕が、絶食後の食事のとり方を知ってる。不思議に思ったんじゃないのか、君は」
「……まぁな」
「――チャールズ卿に監禁されて、ああいうことがあったのは、はじめてじゃないから」
 では何度あったのか。聞きたかった、本当に。レイが体で覚えてしまうほど、何度も。嫌でも覚えてしまうほど、繰り返し。
「ほんとに、殺してくるんだったよ」
 目をそらし、床を見たままエドガーは言う。レイは答えなかった。それでも、微笑んでいる気配。かすかな、風の匂いにも似た。
「モーガン」
 せっかくヒューが用意してくれた食事だったけれど、二人は半分も食べなかった。いまはこれで充分。むしろこれ以上は体に悪い。どちらからともなく食事をやめたとき、レイが真っ直ぐとエドガーを見た。
「なんだ?」
「……僕は、やっぱりここから」
「待て。あんた、それでいいのか。ここから戻ったらどうなると思ってる」
「――死ぬまで、責められると思う」
「おい!」
 拷問という響きではなく、それなのにレイは小さく微笑む。もうどうにもならないのだからと。生まれてしまったのが悪いとしか思えないからと。
「でも、僕が戻れば、傭兵隊の方々にも、君にも――迷惑をかけないで済む」
「あのな、レイよ。迷惑だなんて思うくらいだったらクレアもヒューも俺たちを引き受けなきゃ済んだ話だ」
「でも――」
「俺に至っては完全に自分の意志だ。あんたを連れて逃げたのはこの俺だ。むしろ――逃げてよかったのか、他に手段があってそっちの方がよかったんじゃないか、あんたはどうしたかったのか、気になってるのはそっちなんだがな」
「手段?」
 不思議そうなレイの眼差し。手段などあるのかと問うのでさえない。あるのかもしれないと想像すらできない、彼の目。だからこその無垢。胸が痛くなるほど、澄んでいた。
「――さっき、クレアに彼氏なんて言っちまったしな。嫌じゃなかったか」
「僕は……別に……その。君が、嫌じゃなければ。――その方が、いいんだろう?」
「まぁ、なんと言うか。そうしときゃ、下手に手出しされることもないかな、と」
 傭兵隊は態度が荒っぽい人間ばかりだから、と歯切れ悪くエドガーは言う。言いにくかったのではなかった。レイが仮初でも、よいと言ってくれたのが嬉しくて、たかが言葉一つに舞い上がる自分が馬鹿馬鹿しくて。それなのに、やはり嬉しくて。
「今更だけどな、このままイーサウで、予定はいいか?」
「僕は、どうしたらいいか、わからないから」
「よし、じゃ。あんただけ戻るって案はナシな?」
 にやりとしたエドガーにレイが目を丸くする。それからほんのりと微笑んだ。乗せられてしまった、とでも言いたげに。それでもそうしてくれたことへの感謝と共に。
「もう一つ」
 言えばぎゅっとレイが自らの体の脇で拳を握ったのが見えてしまった。何か、勘違いをしたのだろう。エドガーではない、別の人間が別の機会に言った何かに、聞こえてしまったのだろう。痛ましいより、忌々しい。レイにここまでの傷を植え付けたあの男が。
「ついでに今更がもう一つって話なんだけどな、レイ。――あのな、どうして頼ってくれなかった?」
 部屋に備え付けの小さな食卓越し、レイに手を伸ばす。無理矢理緊張をほぐそうとして卓上に乗せたレイの拳を包み込む。
「たよる?」
 まったく何を言っているかわからない、そんなレイの声にエドガーは苦笑する。黙って彼の拳を持ち上げてそこにくちづけた。一度痙攣したそれは、ゆっくりとほどけていった。
「長い付き合いってわけじゃない、それは認める。まぁ、その、恋人同士ってわけでもないわな?」
 言えばどうしてだろう、こんなときばかりレイが素直にうなずくのは。ためらってほしかったエドガーは内心で落胆を隠せない。だからこそ思い切りよく微笑んだ。レイには頼りがいのある男として見られていたい。せめて、それだけは。
「だから、面倒な相談事がしにくかったのは、理解する。でも、それにしたって限度ってもんがあるだろう?」
 言ってくれればよかった。チャールズが、その取り巻きが、自分をどう扱っているのか、それを言ってくれればよかった。言外のエドガーの言葉にレイはそっとうつむいた。
「庶子は、嫡子に従うものだから――」
「それにも限度がある」
「そんなの――」
「ないってあの屑が言ったなら、それは嘘だ。あんた、俺がどんな生まれか忘れたのか?」
 悪戯っぽいエドガーの声にレイが目を見開き、濡れ濡れと夜色の目が潤んでいく。今更ながらよいように扱われていた自分というものを自覚したのだろう。いまになって、こうやって、逃げだしたからこそ。
「……それに、君は」
 呆然とするレイを膝の上に抱きあげれば驚いて見上げてくる眼差し。それに嫌か、と目顔で問えば黙って首を振る。そんな自分にもまたレイは驚いたのだろう。ほんの少し、目が丸くなる。それから無言で頭を胸元に預けてきた。うつむいて、何かに、否、すべてに耐えるよう。
「俺?」
「……楽な、暮らしがしたいと言っていただろう? 助けてなんて……言えなかった」
 零れた言葉に、レイが顔を上げた。ありありとした驚愕が映るその眼差し。自分で自分の言葉に息を飲む。助けてほしかった、逃げたかった、そう言いたかった。いまこの瞬間になってやっと、レイは理解したのだとエドガーは知る。哀しくてならなかった。助けを求めていいのだとさえ、知らなかったレイが。
「なるほどな、そりゃ俺が悪いな」
「君は――!」
「言ってほしかったけど、俺が言わせない要因を作ってたわけだしな。この際だ、一つ約束」
 ひょい、とレイの顔の前に指を差し出す。子供のように笑ってみせれば、含羞んだようなレイの目。
「俺はあんたを守ってやりたいと思ってる。心から。それだけは、疑ってくれるなよ? だからな、あんたを守るためだ、隠し事と遠慮はなしで。どう?」
 少しばかりのためらい。レイはじっとエドガーの指を見ていた。それから答えはなく、けれど黙って指に指が絡む。それこそが、レイの答え。
「約束な」
 耳元で言えばうなずき返したレイが、名残惜しそうだと感じられるほどゆっくりと指を引き抜く。嫌がるかもしれない、思ったけれどエドガーはその手を自分の手で包み込む。ほっとした吐息が胸元から立ち上った。
「それで質問だ。――タングラス侯は、ご存じだったのか」
「知らなかった、はずだと僕は思ってる」
「そりゃよかった。親子共々だったら俺は黒猫たきつけて戦争起こしてやるところだったぜ」
「モーガン!」
 政敵の一人や二人いないはずはない侯爵家。相手側に雇われて一戦起こそうかとまで考えたエドガーにレイは笑った。いままで聞いた中で、一番明るい笑い声。
「君は意外と過激だな?」
「過激思想はお嫌いで?」
「実に心和んでいるところだ」
「そりゃ幸い」
 冗談に紛らわせて、レイの唇を盗んだ。いままで遊びで重ねてきた体。馴染んだそれが、まるで初恋のように甘くくすぐったかった。すぐさま離そうとした唇を、レイがわずかに追いかけた。




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