木蔦の家

 外に出て使者と鉢合わせでもしたら大変だ、ということで買い物はすべてヒューが請け負ってくれることになった。見た目こそは武骨な男だったけれど、あれで意外と彼は細やかだ、と知っているエドガーにこれで心配はなくなった。
「行こうぜ」
 そのヒューが空けてくれた部屋に収まる前、クレアは先に風呂を使え、という。大の風呂好きで配下の兵にまでからかわれている彼女が先を譲ってくれるのはずいぶんな好意だ、とエドガーは知っていた。が、レイはたぶんそうは取らなかっただろう、と思う。これからしばらくとはいえ厄介になるのならば誤解は先に解いておくべきだった。
「……あぁ、見られるの、嫌か?」
 そして浴場に入ってから気がつく始末。レイが立ち尽くしていなかったなら、まるで気づかなかった。けれどそんなエドガーに彼は激しく首を振る。
「それは……いやでは、ない」
 それでもなお、動けないレイ。当然かもしれない。エドガーがチャールズの秘密の寝室に踏み込んだのはまだたった二日前のことだ。
「レイ?」
 うつむいたレイを呼べば、頼りなさそうな眼差し。それを厭うのだろう、すぐに口許が引き締まる。その目許にエドガーはそっとくちづけをした。途端にレイの体が強張る。
「嫌か?」
「――君こそ。嫌だろう?」
「なんで?」
 ずいぶんと正直すぎる声をしていたな、と内心でエドガーは苦笑する。なにを問われても穏やかに冷静に、レイが怯えることがないように。そう心掛けていたはずなのに。まさかの問いだった。
「だって……。君は、あれを見たじゃないか」
 ぎゅっと噛みしめた唇。噛み破りそうで見ているエドガーの方が怖いほど。唇に指先で触れれば、その瞬間だけは解け、すぐさま元に戻ってしまう。
「だから?」
「だから! 僕が――。どうして君と……関係を持ったのかも、鈍い君じゃない。わかってるはずだろう」
「そりゃ、ま、ね」
 時折レイの体から香っていたあの匂い。一度は自分のために装ってくれたのかと誤解して幸せな気分になったあの匂い。エドガーはそれを告げなくて本当によかった、つくづくと思っている。
「だったら……。軽蔑して、当然だと僕は思う」
「なんでそんな話になるんだよ?」
「だから!」
「あのな、レイ」
 言いながら軽く唇をついばんだ。まるでそんなことをされる資格は自分にはないとでも言うような顔をして驚いたレイ。哀しくなった。自分がではなく、そう感じてしまわざるを得ないレイという男が。
「あんたは嫌だったんだよな?」
「当たり前だ」
「だろ? それで、とりあえず逃げた。その場逃れでもなんでもいい。逃げた。逃げ出した相手に選んだのが――っつーか、偶々だったと思うけどな。続いたんだからとりあえず選ばれたんだと思っとくけどな。俺だった。だよな?」
 こくりとうなずくレイに背筋と腹の中がくすぐったくなる。こんな真っ直ぐな目を持った男をどうしてチャールズはあれほどまでにいたぶることができたのだろう。真っ直ぐだからだ、と気づいてしまった。
「だったらな、レイ。俺があんたを軽蔑しなきゃならない理由ってなによ?」
「……え?」
「逃げて縋ってきた相手をどうしてなんの理由で俺が軽蔑する?」
「でも――」
 ふとレイの腕が上がりかけ、そのままだらりと垂れた。エドガーは小さく微笑み彼の腕を取る。そのまま自分の背にまわさせた。一度ためらってから、縋りついてくる腕。胸苦しくなるほど、切なかった。
「俺は嫌じゃないし、軽蔑ってのはなんだ、ラクルーサ語か?ってところだな。だから、俺に関しては、気にするな。大丈夫だから」
 そんなことしか言えない自分が嫌になる。なにをどう言えばいいのか、ここに至ってエドガーはわからなくなる。それでもレイはうなずいてくれた。そのことだけがいまはこんなにもありがたい。
「ほら、入っちまおうぜ。せっかくクレアが人がいないうちにって勧めてくれたんだ」
「……え?」
「宿の風呂ってのは共同だからな。いつ誰が入ってくるかわからねぇよ。それは嫌だろ?」
「嫌だ」
「じゃ、早く入っちまわないとな」
 笑ってエドガーはレイを離す。そのときレイがかすかに嫌がる素振りをした。ほんの一瞬のことだったけれど、そのまま腕に包まれていたい、そんな顔をしていた。思わず瞬きをしたときには、もうそんな顔は消えてしまっていたけれど。
 背を向けて服を脱ぐレイを見ていた。慌てて目をそらし自分も脱ぎはじめたのは、レイの体に残る傷を見てしまったせい。まだ生々しいそれはあの日チャールズにつけられたものに違いない。
「……レイ」
「なに」
「あのな。怪我してたんだったら言ってくれ。手当て、してやりたかっただろ」
 気がつかなかった自分を棚に上げてよく言う。内心で自分が自分を責めていた。それにレイがそっと笑ったような仄かな気配。裸の背にレイの手が添えられていた。
「言いたくなかった」
 見られたくなかった。この体を、何をされていたのかを。小さく呟いたレイは、それでも格段に生気を甦らせいた。
 もうもうと湯気の立ちこめる風呂場はさすがこの町一番の風呂がある宿の名に恥じない広さ。熱い湯がたたえられた浴槽、数多くの洗い場。向こうには蒸し風呂に入る扉らしきものと水風呂まである。
「さすがクレア嬢ご贔屓の宿だな」
 呆れてしまった。傭兵隊隊長の収入はそんなにもよいのだろうか。さもしいことを考えてしまったエドガーにレイが首をかしげる。手早く汗だけ流してやり、浴槽に浸かればレイがそっと笑った。
「なんだ?」
「……意外とって言ったら悪いけれど、意外と面倒見がいいな、君は」
「そうか?」
「うん」
 諾々としているものだから気にしていないのかと思ったけれど、レイは体を洗われるのを少しは楽しんでいたらしい。その眼差しには当然にしてまだ充分に痛みがある。けれど物も言わずに呆然としていたこの二日を思えばずっとよかった。
「さっきの。クレア嬢って。ただ……なんと言うか、仲のいい間柄の、冗談なのか?」
 並んで浴槽につかれば、ことりと肩先に頭を預けてくるレイ。飛びあがりそうになってしまったエドガーは強いて平静を装う。できることならば書記室にいたころのレイに平静を保つ手段を教えてほしいくらいだった。
「あぁ……あれな。冗談と言えば、冗談、かな。クレア、あいつな。実は伯爵様の姫君なんだよな」
「……は?」
「その反応はよくわかる」
 うんうんとうなずきながらエドガーは笑っていた。そしてクレアの来歴を話してやる。クレアは、ある伯爵家の長女として生まれた。奥方は病弱で、もう子は望めない、と言われたらしい。だからクレアは伯爵家の跡継ぎとして、男に負けないよう武術さえも仕込まれて育った。男装して過ごす日も多かったらしい。が、クレアが十三歳の春、彼女に弟が生まれた。若くして伯爵家に嫁いできた母だったから、産めないこともないけれど無茶な話もあったものだろう、そもそも病弱な母だったというのに。いつかこの話をしてくれたクレアはそう笑っていた。ミルテシアではかつて女王が立ったことが何度かある。そのせいかどうか、爵位の継承も女性だからといって排斥されることはほぼない。問題は、遅くにできた息子を両親が溺愛したことだ、とクレアは言った。
「だからクレアは家を出たのさ」
「……それで、傭兵に。思い切ったことを」
「だよな。貴族のお姫様だったら結婚して家を出りゃ済む話だろうと思うんだけどな。クレアはそれはしたくなかったんだとさ。せっかく自分には武器の腕がある。だったらこれを役立てないのは嘘だろうって傭兵隊に飛び込んできた、らしい」
 さすがに雇用の現場に居合わせたわけではないエドガーだ。実際、クレアから遅れること数か月、エドガーは先代黒猫隊長に雇ってもらった。
「……僕も、そうできればよかった。せっかく、書記の技術だけはあったのに」
 自分にはそれだけの度胸がなかった。唇を噛むレイの肩をエドガーは抱き寄せる。滑らかな肩は、たった二日でこけて尖っていた。
「誰もがクレアみたいな真似ができるはずないだろ。だからあいつは隊長なんだ」
 特別な、度胸と才能。それがクレアにはあった。彼女はたぶん、それを知っていたからこそ、弟と将来的に家督を巡って争う羽目になりかねない、と案じた。だからこそ、家を出た。貴族の場合、結婚しても相続権が否定されることはまずない。だから、クレアは結婚にも逃げられなかったのだとエドガーは気づいている。クレアには、そうするしかなかったのだと。
「……モーガン」
「うん?」
「……僕は、隠し事をしていた」
 頼りなかった眼差しが上がり、エドガーを見上げたときには爛とした目。エドガーは黙って彼の漆黒の目を見つめ返した。逃げている間、ぽっかりと穴が開いたようだったその目は、いまは夜のよう。けれど闇ではない。
「さっき、クレア隊長が、言っていただろう?」
 その目がまた、頼りなげに揺れた。これを言えばまた、縋るものを失う。そんなレイの目にエドガーは微笑みを返す。そのまま黙って抱き寄せ、膝の上に抱え込む。胸に頬を寄せたレイはまるで小さな子供のようだった。
「僕は……レイラ・ネイ・タングラス。――タングラス侯の、庶子だ」
 庶子として認知された証のネイの名はレイには呪いそのものだったかもしれない。ぎゅっと目をつぶっただろうレイの気配をエドガーは感じた。無理に仰のかせることはしなかった。その代わり、硬く強張ったレイの体を抱き、湯気に濡れた髪の上、顎を置く。手が、震えた。
「やっぱり――」
「待て、レイ。なにを誤解したか知らないけどな? 俺はあの下種野郎をなんで生かして置いてきたのかいま物凄く後悔してるところだからな」
「……モーガン」
 唖然としてレイが見上げ、そして口許がほころんでは泣き顔になる。零れた涙を唇で拭えば、くすぐったそうにレイは笑った。
「最低なことを言っているな、君は。でも――。なんでだろうな、嬉しいのは」
 いままで頼るものも縋るものも逃げ出す場所も、何一つとして持たなかったレイ。せめて、そんな場所になれればいい、エドガーは思う。だからこそ、先が怖かった。チャールズの魔手から逃れた今、レイは安全を確保できれば自分の元に留まる理由がないことに、エドガーは気づいてしまった。




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