夜陰に紛れ、かろうじて脱出を果たした。己の前歴が物を言っている、エドガーはそのことにほっと息をついていた。こんな夜更けに門など開くものではない。正当な理由がなければ門番は通してはくれない。出るのですらそうだ、入るとなればまず無理。エドガーはかつて傭兵だった。正当ではない手段、というものの効果を知っている。幸か不幸かレイはまったく外界を認識していない。ただぼんやりと連れて歩かれているだけ。おかげでどこからどう見ても危険な誘拐犯なのだけれど、この際レイがこのような手段を見ることはない、そちらの方にエドガーは安堵しておくことにした。 「まぁな」 あまり見られたい顔ではなかったから。小さく呟いて、顔を顰める。いまはグラニットを離れ、近郊の森の中にいる。野営と言うほどのものではない。火もなかったし、食料もない。かろうじて水だけは先ほど飲んでレイにも飲ませた。 レイは諾々とエドガーの言うままだった。あのレイとはとても思い難い。けれどそれだけ衝撃が強かったのだろう。 彼はここまでに一言だけ告げた。君にだけは見られたくなかった、と。ただそれだけ。一度言ったきり、あとは無言。むしろ何も見ていない、何も感じていない。そのような場所に自らを追い込んででもいるかのよう。 そんなレイを早く安全な場所につれて行きたかった。時間はかかるだろう、彼が少しでも安全だと思えるまでには。けれど、いまはその時間そのものがない。タングラス侯爵邸を出奔して丸一日。すでにチャールズは救出されていると見るべきだ。ならば当然にして追手はかかっている。 「問題は――」 どこにどうやって逃げるか、だった。とはいえ、何はともあれ旅に必要なものがいまはまったく手元にない。傭兵時代に培った経験から、エドガーは常に長い筒状の袋を用意していた。細長いそれ一杯に金を詰めてある。どんな時でもそれを腰に巻いて出かければ、最低でも出先で道具は揃えることができる、そんな傭兵の習慣だ。それが幸いしていた。この上、金までないとなればレイと並んで死んでやることくらいしかできない。 朦朧としたままのレイを半ば抱えたエドガーが苦渋の決断で隣町に滑り込んだのは、その翌日のことだった。 まだ、チャールズの手はまわってはいないらしい。門番に咎められることはなかった。が、安心はできない。いつ何時捕縛されるかわかったものではない。手早く食料を買い、レイの服を古着で見立て。そう算段していたエドガーの視界に飛び込んでくるもの。 「マジか。運が向いてきたぜ」 精悍な男の姿がそこにある。向こうはまだこちらに気づいていなかった。エドガーはレイを抱えたままその男に近づく。 「よう、元猫のエディってもんだ。リック隊長の下で戦ってた。いまの隊長はまだクレアかい?」 ぎょっとした男がエドガーの示したものに反応した。いままで手放そうと思ったことはなかったけれど、こんな状況でも忘れず携えてきた物。エドガーは何者かに感謝したい気持ちでいっぱいだった。それは小さな徽章、男の襟にあるのと同じ黒猫をかたどった傭兵隊の徽章だった。 「あぁ、そうだ。会いたかったら、宿にいるよ。隊長の好みは知ってるだろ?」 「面倒な女だよな? わかった。町一番の贅沢な風呂がある宿を探すことにするぜ」 「――あいよ、連れてってやるわ」 にやりとした男にエドガーは感謝の眼差し。合言葉ではなかったのだけれど、傭兵の嗜好としてはかなり特殊なおかげで身元照会の役目を果たすことになったクレアの趣味がありがたい。 男に案内されてついた宿では、すでに誰かが伝令に走っていたのだろう、ひょい、と出てきた腕にエドガーは掴まれ、引きずり込まれる。まるで反応しないレイに相手は驚いたようだったけれど、それも肩を一つすくめてやり過ごしてくれた。 「久しぶりだな」 頑丈そのものを具現したかのような男だった。小さな笑みが口許に浮かぶだけで人懐こい顔になるけれど、それもすぐ厳しい眼差しに取って代わられる。 「あぁ、あんたも。クレアは?」 ぽん、と肩を叩けば固い感触。同じことをし返してきた相手がやはり固い、と思ってくれればいいのだけれど。そう思うエドガーの前、彼はにやりとしていた。 「待ちな」 客だ。そう彼は言う。訝しい思いに駆られたエドガーだったけれど、あえて問うことはしなかった。そのエドガーと、彼に連れられたままのレイを誘って男は次の部屋へと進む。唇の前に一本指を立てたところを見れば客とクレアの会話を聞かせるつもりらしい。衝立越し、女の声と高慢そうな男の声。さすがにエドガーは息を飲んだ。 「――なるほど。お話の筋は理解した。が、我々はこのあともう仕事が決まっていてね。残念だよ、使者殿」 高慢な使者らしい男の声に輪をかけて高飛車な声はクレアのもの。彼女の表情が見えるようでエドガーはつい微笑む。 「……モーガン?」 不意に、レイが声を上げた。し、と唇を押さえてやってから彼の顔を覗き込む。まだ頼りない顔をしていた。当然だった。それでも少し、目に光がある。耳元に唇を寄せ、エドガーは言う。 「少し待ってな。いまは静かに」 ぎゅっと抱きしめ、胸の中に抱え込む。目の前の男の目が気になるけれど、いまはそうも言っていられなかった。 ばたばたと足音高く使者が帰っていく音がする。それににやりとしたこちらの男が衝立を引く。向こうには呆れて言葉もない、そんな顔をした美しい女がいた。 「助かったぜ、クレア。持つべきものは仲間だな」 ひょい、と手を掲げれば打ち返してくれた手。にやりと笑った顔など女のものとは思いがたいほど精悍そのもの。こんなにも安堵するものとはいままで気づかなかった。 「レイ、これはクレアだ。『幸運の黒猫』って傭兵隊を預かってる、隊長だ。こっちの野郎はヒュー。クレアの副官をしてる。俺の昔の同僚だ」 肩を抱いたレイに言えばこくりとうなずく。それから彼はじっとクレアを見て、そして目をそらしてはうつむく。 「おやおや、信用されたもんだね。いいのかい、私にその人の名前を教えてさ」 もう聞いてしまったけれど。そんなことを言いながらクレアは笑った。それにエドガーも笑う。いまここで黒猫に会えた。こんなに嬉しいこともなかった。 「あんたに裏切られたんならしょうがねぇわな」 肩をすくめたエドガーを無言でレイが見上げた。それに優しげな眼差しを返し、だから安全だ、とエドガーは言う。決してクレアが裏切ることはないのだから、と。 「まぁね、それはそうさ。隊を抜けたって言っても昔の仲間じゃないか、売ったりしたら隊の評判にかかわるからね」 「――一応、心配はさせたくなかったからな。だから、聞かせた」 先ほどの客のことだろう、エドガーはうなずく。レイはなんのことだかわからない、と言いたげにエドガーを見上げていた。 「さっき誰かが出てったの、聞こえてたか?」 「それは、聞こえた」 「下種野郎の使者さ」 言った途端にレイの体が強張る。それからエドガーの腕からさえ、逃れようとする。きつく抱いて離さなかったけれど。 「離せ、モーガン。君まで――」 「いいから、レイ。ちゃんと聞け。クレア、こいつにわかるように話してくれるか?」 「別に難しい話でもないんですよ、レイさん。エディは私たちの仲間だ。どれほど大金積まれても売ることはしない。もっとも、あちらさんはエディが元猫とは知らなかったみたいですがね」 「ん? だったら手あたり次第に傭兵隊に声かけたってことか……」 「だね。エディ、これからどうするのさ。なにか算段はあるのかい」 「とりあえず逃げる」 「なんて算段だ、そんなものは――」 「算段とは言わん。自殺願望と言う」 口々に言われてしまってエドガーは肩をすくめるよりなかった。他に思いつくことがなかったのだから致し方ないではないか。算段が立てられるようだったならば、すでに対策をしている。 「ところで、レイさんはあんたのなんだい、エディ?」 「彼氏」 「……そりゃ短くて的確な返答をありがとうよ。ちなみにさっきの使者だけどね。タングラス侯爵家の武術指南役エドガー・モーガンが嫡男チャールズ卿の庶弟を誘拐逃亡。すみやかに捕縛せよ、モーガンの生死は問わないってもんだったんだけどね?」 レイが、息を飲んでいた。また、エドガーから離れようとし、果たせず強張る。エドガーは無言でレイを抱いていた。 「そりゃ誰のことだ? タングラス侯の庶子がどうのってのは俺じゃねぇな。まぁ、侯爵家から逃げてきたのは事実だけどよ」 「あいよ、了解。そっちが事実な? だったらエディ、手伝いな」 「はい?」 「私らはこれからイーサウに雇われることになってる。大出世だろ? あと一日遅かったら出発してたよ」 「――お前たちは、うちの隊に紛れるといい。イーサウまで行けば、とりあえずは安全だろう」 「紛れる? ヒューさんよ、ご冗談は言っておくれでないよ。馬もやる。金も出す。当面の衣食住の面倒は私が見ようじゃないか。だからエディ、働きな」 「イーサウまで移動だったら住の面倒は見られねぇだろうが」 「なんか言ったかい?」 にこりと笑うクレアにエドガーは肩をすくめる。本当は何一つとして文句などなかった。これほど守ってもらえるとは、思いもしていなかった。ありがたくて涙すら出てきそうになる。 「了解、承けたぜ。ただし! レイは体調がよくない。見りゃわかんだろ? すぐに治るかどうかもわからない。だから、遠出はなしだ」 「気が早いね。そんなことはイーサウに着いてからだよ。今日はここに泊まりな。明朝出発だ。ヒュー、あんたの部屋を空けておやり」 「……俺は」 「私のところに来るのに不満が?」 傲然と微笑む黒猫の女王にヒューは苦笑するのみ。二人がそういう仲でない――少なくとも自分がいたころは――のを知っていたエドガーは笑って頭を下げる。レイはただじっとクレアを見ていた。その眼差しにエドガーがふと気づいては彼を見る。黙ってレイはうつむいた。首をかしげて促せば、小さな声。 「……君はエディと呼ばれていたんだな、と思っただけだ」 かすかな声はまるで嫉妬のようでエドガーは微笑みそうになる。そんなはずはなかったけれど。そして今になって不安になった。 |