あれからレイの姿が見えない。書記室に行っても彼はいない。それとなく尋ねてみれば、「チャールズ卿のご用」でここにはいない、と言われた。 内心でエドガーは舌打ちをしている。あの日のチャールズの言葉、レイの態度。いずれも不安しか呼ばなかった。 それでもエドガーには何もできなかった。滅多にしないことながらチャールズに自分から訓練の誘いをかけてみもした。指南役だからこそ、鍛錬を勧めることができる。が、チャールズは取り巻きを介して火急の所要があり残念だが、と断りを入れてくるばかり。さすがにチャールズの私室に乱入して問いただすことなどできようはずもない。エドガーの溜息だけが彼の周囲に降り積もっていく。 「……ったく」 心配でならなかった。何か一言、できればどこにいるのか、それだけでいい。レイの無事が確かめられればそれでいい。それだけの望みがいまはこんなにも遠い。 苛立つエドガーの元、チャールズの取り巻きが訪れたのはそうして数日が無為に過ぎた夜のことだった。 「チャールズ様が是非ともお前に見てほしいものがあるそうだよ」 にやにやとする貴族の放蕩息子に苛立ちが募る。レイのことだけではなく、昔のことまで思い出してしまうせい。こういう輩のせいでどれほど両親が苦労をしていたことか。それを押し殺しエドガーはゆっくりとうなずいて彼に従う。 「あぁ、そういうものはいらないよ? いまから鍛錬をする、なんていう話じゃないんだからね」 無意識に剣を取ろうとしたエドガーを取り巻きは制した。あとから思えばそれを不審に思うべきだったのだけれど、エドガーは貴族の私室に向かうのに武装はよろしくない、そう言われたのだと解釈できただけだった。 だらだらと歩く貴族にエドガーは話しかけることはしなかった。仕えているのは厳密に言えばいまは王都にいるタングラス侯爵であって、実のところチャールズですらない。ましてその取り巻きになど礼儀を払う必要は認めないとばかりに。指南役のある意味では無礼な態度も貴族の間に置けば珍重される。それがまたエドガーの苛立ちの種となる。 「さあ入りたまえよ」 薄っぺらい笑い顔が常態となってしまったかのような男に言われるまでもない。チャールズの部屋がどこかはエドガーでも知っている。 「違う違う。こちらさ」 にやりとした取り巻きに背筋がぴりりとした。チャールズの私室に一歩進み、エドガーが室内に人影がないのを訝しく思ったところにかけられたその声。息を飲むところだった。 「驚いただろう?」 自慢そうに男は言い、暖炉を滑らせたあとにあいた穴をちらりと見やる。そこには地下へと続く階段があった。 「タングラス侯ご自慢の避難室だったのさ」 万が一の際に逃げ込む場所であった、と男は言う。そしてすたすたと階段を下りて行った。エドガーは黙って続きながら気づけば腰に手をやっている。そして小さく舌打ちをした。剣がない。その音が聞こえたはず取り巻きの咳き込むような仕種。笑ったらしい。 「チャールズ、連れてきたよ」 階段を降りた先には頑丈な扉があった。材質は木だろうけれど、その上に何重にもされた鉄板、そして各所には鋲打ちまでしてある。ましてこの狭い場所だ、破城槌は使えないことを考えれば破壊には相当に手間取るだろう。確かにご自慢の避難室、と言えた。 が、その室内。エドガーは息が止まるほど立ち尽くす。むっとした熱気があった。不快な臭いがあった。汚れた快楽の館の臭い。見回すまでもない、侯爵のために調えられた豪奢な室内にはチャールズの取り巻きたち。いずれも裸形で。そして中央に置かれた大きな寝台の上。 「やっと来たか。遅いじゃないか」 引き締まったとはお世辞にも言えないチャールズの腹の下、引き攣り悲鳴すら上げられず息を飲む彼。 「これはこうやって使うものさ。――なにしろ女の名だからな。女の扱いをするのが順当というもの。そうだろう、エドガー?」 扉の方に顔を向けたまま、チャールズに貫かれたレイの見開かれた目。チャールズ自身にも、取り巻き連中にも、何度となく加えられたのだろう暴行の跡が残る肌。無言のレイの頬に何万言より多くを語る一筋の涙。ただじっとエドガーを見ていた。助けを求めることすらせず。理解を求めることもせず。己はただこうしてあるしかないのだと諦めるように。 「お前もこんなのと親しくなど――」 チャールズの言葉が途中でエドガーには聞こえなくなった。たぶん、何かは言っていた。が、結局は悲鳴になった。肩先からここまで案内してきた男に体当たりを食らわせ、その腰から剣を引き抜く。危ういところで逆手に持ち替え、柄で頭を殴りつけた。 「なにを、エドガー!」 チャールズの声に咄嗟のこと、こればかりは身につけていたイーサウ産の短刀を投げつける。鋭い風切音とともに飛んで行った短刀が壁へと突き刺さり、チャールズの前髪を何本か切り飛ばしていた。 そのあとは、本当に覚えていなかった。おそらくはレイもそうだろう。腕を掴まれ、引き起こされたレイが呆然とエドガーを見上げたとき、そこには短刀を手に息を切らした彼がいた。周囲には切り裂いた敷布で作ったと思しきもので拘束されたチャールズと取り巻きたち。いずれも殴られたか蹴られたか、失神していた。かちり、音がしてレイは瞬く。短刀が鞘に戻った音。レイの喉にも、声が戻る。 「……どうして」 「とにかくその手の質問は後だ、時間がねぇ。逃げるぞ」 一枚だけ取っておいた――のだろうと思うのだけれど覚えがないエドガーだった――敷布でレイをくるみ込む。その体から匂い立つ甘い香り。悟ってしまったエドガーは何も言えない。足腰立たないレイを担ぎ上げようとすれば拒まれる。 「どうして!」 悲鳴のような声にエドガーはちらりと連中を見やった。まだ大丈夫らしい。けれど時間はなかった。 「なにがだ」 「だから! どうして、僕なんか――どうして。なにを――」 「だからその辺、全部後にしろっての」 溜息まじりのエドガーの呼吸がようやく整ってきていた。さすがに服を着ていた者はたった一人で残りはすべて全裸だったとはいえ、これほど素早く反撃も許さず倒したのははじめてだ。 「あのな、レイ。あんた、このままここでこんな下種野郎に弄ばれて人生終わりか? それでいいならほっとくぜ」 そんな気は毛頭なかった。レイが嫌がろうとも連れ出すつもりではいた。が、いまはそうまで言わなければレイには届かない。ひくりと竦んだレイに一つうなずきエドガーは彼を担ぎ上げる。 「……モーガン」 呟きのような声は返答を求めていなかった。だらりと垂れた腕が自分の背中に揺れている。敷布越しですら感じるレイの体に塗れた香油の匂い。 「なにか、どうしてもこれだけは持って行きたいってもん、あるか?」 階段を上がり、周囲を警戒しながらエドガーは素早くそれだけを尋ねる。それに返ってきたのは激しいほどの拒否。ここには何一つとして彼の大事なものはありはしない。それがわかってしまうような酷い拒否だった。 「わかった」 一言で、レイの反応が収まる。否、消える。まただらりとしてしまった彼の体。まるで死体でも抱えて逃げているよう。エドガーは唇を噛みしめ、先を急ぐ。 まずは武装だった。ひとまず与えられた家に戻り、レイを自分の寝台に座らせた。扉は開け放ったまま。いまのレイにはつらすぎるだろうから。 「俺の服だとでかいだろうけどな、着替え。ここに置くからな」 自分で着替えられるか、問えばこくりと首を振る。うなずいてはいたけれど、危なかった。エドガーは黙ってレイに服を着せて行く。袖も裾も余ってしまった。何度か折り上げてようやく手が出る。 「ちょっと気持ち悪いだろうがな、少し我慢だ」 「……平気。慣れてるから」 言った途端、レイが口をつぐんだ。エドガーも返す言葉がない。合わない服が気色悪いだろうと言ったのに、彼は違うことを誤解して答えた。青ざめたレイに気づかなかった顔をしてエドガーは自らの武装を整える。 「――モーガン」 いつもより遥かに遥かに頼りないレイの声。こちらを見上げているのだろうに、エドガーは振り返れない。鎧の留め具にかかりきりだ、そんな顔のまま無言でうなずく。聞いてはいる、と。 「どうして。――ここを出れば、お前は。あんなこと、しなくてよかったんだ。僕は、どうせ」 「どうせ、なんだよ? あんな下種を野放しにしとくんじゃ世間様のご迷惑ってもんだ。殺さなかっただけ感謝されてしかるべきだぜ」 「相手は貴族だ」 端的なレイの声。さすがにエドガーも顔を顰めた。言われるまでもない、チャールズはタングラス侯爵の嫡子。いかに武術指南役とはいえ、あれはやり過ぎだ。そもそも逃亡するのならば指南役ですらない。 「僕なんか……」 衣擦れの音。自らの体をぎゅっと抱いたのだろうレイに、今度こそエドガーも振り返る。うつむき、震えたままのレイ。数えることさえ無駄になるほど繰り返されたチャールズの暴力。エドガーが知っているだけでも、何度レイの肌からあの香油が匂っていただろう。 「レイ、触ってもいいか?」 声に動揺して顔を上げたレイ。そんなことを尋ねられるとは夢にも思っていなかったと。それにそっとエドガーは微笑む。それからゆったりと腕の中にレイを抱いた。 「事情は知らない。全然なんにもわからない。でもな、あんなことしでかしてたあの屑野郎が正しいとは俺には思えない。だから、あんたは悪くない」 震えるレイの髪にくちづければ、そこからも香る甘い匂い。忌々しいほど情けない。気づかなかった自分が。あるいは助けてくれとすら言ってくれなかったレイまでも。 「行くぜ」 言われてレイは立ち上がったエドガーを見上げる。そこにははじめて見る彼の姿があった。武術指南役としてではなく完全武装したエドガーが。かつて、この屋敷に仕える前の傭兵時代の姿なのかもしれない。 「立てるか」 言いながらエドガーはレイの脇の下に腕を差し込む。立てるとは、思っていなかった。傭兵は戦場の暴力を知っている。半ば抱え、家を出る前にフード付きのマントを羽織らせる。少なくとも、すぐさま顔形が窺えないように。姑息ではあるけれど、いまは一瞬でも時間が欲しい。そう遠からずチャールズの姿が見えないと誰かが気づくだろう。地下室の彼らが救出されるまでさほど余裕はなかった。 |